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人が人を理解するとは、いったいどういうことだろう。 (中略) 満水子や彼女の周辺の過去の事実を知り、それが知る喜びと知る苦しみの両方となって私に押しかぶさってくるのを受けとめ、郡上八幡の夜に得た感慨は、こうだった。 ――人が人を理解するのに、喜びをもって可能なのはたかだか半分、しかし苦悩をもって理解できることは、遥かに多いのだと。 (中略)このような感慨に至るほど深く関わってみれば、また、別れの予感もどこからか兆してくるわけで、恐らく私は、満水子を失う苦痛の中でこそ、最も深く満水子を理解するのではないか、と感じるのだった。 自らの愛が少ない人生を送ってきたゆえ、失恋の経験も軽かったが、私は初めて、やがて来るかもしれない失恋の痛手に、おののいていた。初めてのおののきだった。 私は、予感というより、悟ったのである。 失恋とは、人間として全否定を受ける中で、相手を十全に理解するという、二重の苦しみの状態を言うのだと。 同時に、このことさえ知っていれば、覚悟さえしていれば、自分は前に進める、とも思うのだった。 進むしかないのである。 (高樹のぶこ:『満水子1996(301)』 西日本新聞(福岡)2001-03-14 日刊) |