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書いてみたはいいけど、最初っから飛ばし過ぎ…(^_^;) 2000.06.18
始めに
このコーナー「物思う時」を公開するにあたって、理解しておいて欲しいことがある。それが、この「はじめに」である。私は、日頃あまりオープンマインドな人間ではないと思う。この「物思う時」を読む人々が、現実世界の私にどのような印象を抱いているかは、人それぞれであって、とても未知数だ。もしかして、現実世界の私を知らずに、とろろというバーチャルな人としてイメージを膨らましている人もいるかもしれない。私がこれから「物思う時」に記述していく内容は、ある時はおちゃらけた内容かもしれなし、ヒステリックだったり、哲学的だったりするかもしれない。それらすべての内容が私である。しかし私のすべてがその内容によって表現される得るものではない。これからここ「物思う時」に記述されていくであろうことは、多くの人には退屈であるかもしれないが、ボーっとしている時間の記憶を記録に留めておくことは、きっと今の私にしかできない作業なのだ。どう受け止めるかは自由だ。しかし一面的ではなく、多面的に私という一人の人格を感じ取ってもらえれば嬉しい。
以下の段落に"自分を表現する"ということに対する考えを述べる。それは私が論じきってしまうことに対する"逃げ"あるいは"言い訳"的内容である。つまり「物思う時に記述していく内容は、私の中の刹那的、流動的なものであり、絶対的な表現がなされていても必ずしもそれは、私自身の考えとイコールではないと言うことである。
妄想癖
私には妄想癖がある。妄想癖といってもファンタジックな世界にトリップしてしまったりするそれとは違う(いや、そういうところもあるけど)。限りなく現実的かつ具体的であるが、実際的でない物事を空想する。空想すると共にすっかりその世界の住人と化して、そのときの私の考えは「自身の考え」ではなく、トリップした世界の住人の考えになってしまう。空想段階でもそちらの世界の住人になってしまうため、文章を書こうとするときも、私の意思はともかく話の筋が一人歩きしていく。自分もその文章世界にどっぷりとつかって、まるで自分がそのような考えをもっていたかのような気分にさえなってくる。文章の流れにおいて自分の考えがコントロール不能になるのだ。考え方を変えると、私は文章を書いているときに初めて、自分がそのような考え方も持っていたという事実を知るのだ。
たとえば、「感動しました」と言う内容の作文を書こうとしたとしよう。私は、感動しましたという文章を書きたいがために、感動した過程と内容を記述していく。その中で、私の感情はその精神世界にハマッてどんどん勝手な盛り上がりを見せる。本当はちょっとだけ心が暖かくなっただけの出来事が、作文を書き終わった頃には、心臓をつかんで揺さぶられたかのような感動に摩り替わっているのだ。少なくとも、その作文を書いている最中の私は、すっかりその気だ。そして後で読み直してちょっと恥ずかしくなるのだけれど、そっちのほうが文章としてもいけているのだから仕方ない。夜中に手紙を書いて、書き直す状態と少し似ている。
これから書かれるであろう「物思う時」は、おそらく、空想世界にトリップした挙句、そのままの精神状態で、文章世界に入るという過程をたどって記述されると思う。この過程で、私の些細な思いつきや、小さな感情が、驚くほどに増幅または拡大解釈されて別人格に取って代わり、その精神世界の住人の考えとして文章に纏め上げられるはずだ。つまり、私の文章は、私が考えることに他ならないにもかかわらず、内容はかなりオーバーで行き過ぎたものになっている可能性が高い。自分でも制御不能なので、そのように理解した上で、読んで頂きたい。
本当の自分
よく「自分はそんな人間ではない」と思う。他人に自分の特性について語られたときだ。誰でも良くあることだろう。自分の考えている自分の人格と、他人に感じられている自分の人格は、程度の多少はあれ必ず違うものだ。
しかし私は、自分の感じている「自分」こそが作り上げられた人格であり、他人からみえている「私」が真の自分に近いと考えている。自分の判断する「自分」には、必ず理想の自分が含まれていると思う。「Aなところもあるのに」と考えるときは、「Aなところもないことはない」であることが非常に多いのだ。自分は、自分をあまりによく知ってしまっているがために、多少しかない自分の一面性を拡大解釈してしまう。確かに、Aな部分も0ではない。しかし自分がAな部分にこだわりたいのは、自分自身がAでありたいと考えているからではない、と胸を張って言い切ることができるだろうか? 自分の理想像に近づいたつもりで、気がついたときにしかAな部分を出せていないなんていうことはないだろうか。それはまだ完全な自分の姿ではないだろう。
Aがなりたい自分でないとき、Aは他人には見せていない自分の内面であるかもしれない。人付き合いの中で、確かに「本当の自分」と考えている性質を表現しきれない、あるいはあえて表に出さないこともあるだろう。しかし、その「本当の自分」を開放しようと考えたとき、果たして「本当の自分」を自分が考えていたように完全に再現できるだろうか? 実際に表現することのできない性格は、所詮、空想段階での性格でしかない。
ネガティブ思考の人は、Aが「直したい自分」であることもある。こういう一面を直したいと強く意識するあまりに、自分が意識するほどにAな部分が大きくないという事実に気がつけないでいる。もしくは、他人が許していてもその些細なAの部分が、自分の中で許せないという状態だろう。
他人から見えている自分は、客観的かつ総合的な自分であり、内に秘めている自分ではなく、表現されている自分のすべてである。Aの要素を持っていたとしても他人に見えるように表現しきれていなければ、それは私の性格の一部ではないのだ(わかり難くたとえるなら、表現型に現れてこない劣性遺伝子のようなもの?)。見えていない一面は、相手に見る目がないのではなく、自分が表現しきれていないのだ。自分が表現しきれていなかったり、あえて表に出さないようにしている一面を「自分はそんな性格ではない」と思ったところで、何の意味があるだろうか。性格とは自分の中で完結するものではなく、他人に影響を与えて初めて効力を発揮するものであり、そもそも自分で自己判断するものではない。その人が自分を理解していないのではなく、それがその人に見せている自分の全てである。
つまり「物思う時」において私が表現していくかもしれない「私」は、自分の考えている「私」であり、必ずしも正しい「私」ではない。記述されている表現を取って私という人間を判断するのではなく、そんなことを考える瞬間もあるのだという理解程度に留めて欲しい。本当の私は、文章上の私ではなく、現実世界で活動している私である。実際の私を見て(もしくはHOT HOUSE TOROROを見て)、客観的な立場において「私」を判断してもらえればそれで十分だ。自分が表現する自分には、細部を強調するという特徴がある。山を見失わないように読んで欲しい。
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