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文章がとりとめもなさ過ぎて、なにが言いたかったのやら。最後のあたり爆発してるし(苦笑) 2000.10.30
私は自分ひとりでいる時に、笑ったり怒ったりつぶやいたりするようなことはあまりない。まぁ、自分に都合の良い事を妄想している瞬間は口の端が笑ってるだろうけど、基本的には不機嫌そうな顔をしていると思う。もともと喜怒哀楽表現が豊かなほうではないし、外に対して気を遣う必要性がないからだ。ってことは、人と接しているときにはかなりの確率で気を遣ってるってことになる。その割によく爆弾発言をしてしまうのは、気の配り方がおかしいってことだろうか。気の配り方がおかしいということは、独りよがりの心配りなわけで、それって程度や内容を問わず「お節介」の仲間ってことなんだろうか。まぁ、ともかくそういう必要過剰な社会性ってどうやって身につけていくものなんだろう? 誰しも大なり小なり内側の自分を持っているわけで、どんな薄い仮面も被らずに生きている人なんてそうそういないんじゃないかと思う。生まれたての赤ちゃんじゃあるまいし。
いつから外向きの顔と内向きの顔を使い分けるようになったか考えてみた。
○「嫌だけど言えない」っていうのは気配りとはちょっと違うかな。なんか幼稚園の頃に嫌だの一言が言えなかった自分を思い出す(このことは別の機会に)。能動態だと、気配りっぽいかも、「嫌だけど言わない」。嫌だけど言わないの記憶初めは、小学校2,3年生の時のこと。なんか気に障ることを言われたのに、相手に悪気がないことを知っていたし、自分のキャラクターを守るために開き直っておどけて見せた。記憶の中の自分はごく自然にそんな行動をとっているから、小学生にしてもそうやって「気を配りつつ自分を守る」ことはごく自然な行為だったのかもしれない。
○「当り障りのない受け流し」これも小学校かなぁ。このクラスで誰の髪が一番きれいかっていう話をしている子と目が合った。当時、髪の長かった私に彼女が「あ、とろろの髪もきれいだよね」と。「私のはただ長いだけだから(微笑)」なんて、ホントはうれしかったくせに彼女が気を使ってくれたのを自覚して受け流した(当時の私の頭はぼさぼさで、お世辞にも手入れしてるとは言いがたかった)。これなんて、相手の子とダブルで気を使いあって、社交辞令。あ、でも、今だったら「ありがとう」を最初につけるかな。
○私の仮面人生に決定的だったのは、中学生2年のとき。数日のうちに3回も「怒ってる??」って聞かれたこと。確かにその時の私はボーっとしていたけれど、ボーっとしてるのと、怒ってるのとは違うよね。「調子悪いの?」「どうかしたの??」って聞かれるのはわかるけど、怒ってるの?なんて聞かれちゃうんじゃぁ私の“ナニモカンガエテナイカオ=素の自分”が周りを不快にさせてしまう。じゃぁ、私は人の前では普通の顔できないじゃんってことで、基本モードを笑顔に決めた。人前に不機嫌な顔の私が露出しないように気がついたら口の端を持ち上げるように努力してきた。
これらのことって、気を使う自分を覚えてるのではなくて、それに付随するショックや喜びのために記憶に残ってたわけで、そう思うと人間の気遣い人生って、もっともっと小さい時から始まってるんだと思う。お母さんに嫌われたくなくて、必死に辛いのを我慢してる子だっている。「3つ子の魂100まで」なんていうけど、人の性質なんて他の人間がいてはじめて発揮される(意味をなす)ことを思うと、3歳の時に受けた人間関係のストレスがその後の対人関係に影響を与えているわけだ。処世術なしで人は生きられないなんて、人間って悲しい生き物だなー。まぁ、人と同じ人生歩んでるわけではないから、気遣いポイントなんて人それぞれ違うわけだ。私が気を遣っているポイントに他人が無頓着なのは当然のことだし、他人がすごく気を遣ってくれているのに気付かず能天気に腹を立てさせていることなんて、気づいてなくてもたくさんあるんだろうな。なにせ私と気になるポイントがずれてるんだから、それに気がつけるようになるためにはもっといろいろ経験していくしかないんだろう。その人にはその人の人生や世界観があって、独自の善悪のなかで生きてる。だから所詮私の気遣いなんて冒頭で言ったように人にとっては「お節介」である可能性もあるわけだ。結局のところ他人に迷惑をかけてないかとか、人のためになることをしたとか、自分の主観である限りは自己満足でしかありえない。ストレスを内にためつつ仮面を被ってワンクッションおいて人と接することでさえも、社会的行為だと考えていた部分こそが自己防衛に他ならないことだってあるだろう。万人が同じ価値観を持っているわけではないのだから、自分が正しいと思っていることを実行する行為っていうのは必ずそこにエゴがあるわけだ。でも、人それぞれ気遣いや心配りの形が違うことで集団としてうまくバランスをとっていけるのだから、それはそれでいいのかもしれない。他人の立場に立って考えてみたとしてもそれはその立場にある自分であって、考え方のシンクロを図っていかない限り、人と自分の考え方なんていつまでたっても平行線だ。
あぁ、言いたいこととだいぶずれてきたなぁ。上にあげた例のように、人との関係を潤滑にするためのエゴ行為として私は主に「なにも感じていない振り」という手法をとる。最初は多分純粋に社会的行為のつもりだったんだろうけど、今となっては諸刃の自己防衛手段と化しているわけだ。対面的に取り繕う行為は、結果的に自分の内側を覆い隠していく。
でも少なくとも自分の場合、内側の自分にもうワンクッションある。「なにも感じていない振り」を演じる自分に同調してそう思い込もうとする自分だ。あ、逆かもしれない。何も感じてないとマインドコントロールをかけることによって、実際に現れてくる感情をセルフコントロールしているのかな? 楽しい席でさえも、どこまでホントの自分が笑っているのかわからない。タノシクアルベキダカラワラッテルノ?
だって、腹が立つこと、悲しいこと、辛いこと、苦しいこと、といちいち自分の中で向き合っていたらいつまでたっても笑えない。自分のなかの笑顔の誓いを守れない。悲しいことを自分で悲しいと認めてしまったら、きっといつまで泣いていればいいのかわからなくなる。普通、その感情を受け入れてとことん苦しんだり泣いたりして昇華していくべきものなのかもしれないけど、感情を表に出すことによって昇華する技術なんて育ててこなかった。笑顔でかわすことだけですべて乗り切ってきた。悪いほうには考えない。自分を自己暗示にかける。平気なそぶりを口に出して、顔に出して、積み重ねて、空元気を元気にしてきた。腹が立ったことを、いちいち怒っていると自分の嫌な感情が増幅されて取り返しがつかなくなる。ひとりで怒ってみたって、不快なのは自分だけなのって、なんか理不尽じゃない。瞬間、ズキッと痛みが走っても、笑うことによって自分すらごまかしていける。結果「悩みなさそうでいいねー」なんて言われても、「実際へらへらと笑っていられるんだから、その程度の苦しみなんだろう。きっと悩みのうちに入らない」と更なる自己暗示をかけるだけだ。きれいなもので覆い隠したら、きっとどろどろとしたものは見なくてすむもの。
でも、最近だめなんだなー。弱い自分も外に出せると気が付いてしまってからは、いまいちポーカーフェイスに冴えがない。ついつい、そんな自分にも気づいてって主張しそうになる。そんな自分は嫌だ。どうして人間関係って、当り障りのない他人同士の距離を保っておいてくれないんだろう。自分の見せたくない内側をさらしたり、テリトリーを侵されることを、心を開くというのかしら。人には「あなたがまず心を開かなきゃ」とは言えるけど、自分が心を開くってなんて難しい。それは他人に依存することでも甘えることでもなく、その考えにいたる複雑な思考を理解してもらうってことじゃないの? わたしの表面的自己思想を打ち明けることをなやみ相談っていうのかしら。それに対して通り一遍な返事をもらってソウジャナイノニって思うこと? 自分の過去にひねくれてしまった部分を探し当てて、抱きしめてもらうの? あ〜〜、違う、違う! そんな自分がどこに存在してるんだろう。自分で思ってるだけじゃ、本当の自分じゃないんだよ。みんなに認めてもらってこそのキャラクターなんだから、私は私のままでいいじゃない。みんなが見ている私がほんとうの私のままでいいじゃない。性質は、その他大勢と客観的に比べてみて初めて評価できるものでしょう? 私の思ってる私は、ほら、本当の私だっていう証拠がどこにもない。表面的な私でもそれが私の真理であれば、きっとみんなは私の内側も見えているはずだから。
駄目な自分がポロッと出てしまっても、それが自分。ずっと笑顔でいられたなら、それが私。
とりあえず、今日も鏡の前で練習をする。
マダワラエルヨ
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