後悔

 彼の目の前には、すべての血が体中から抜かれ、ただの骨と皮だけとな
った女性が寝かされていた。生前、彼女は村中で評判だったほどの美女だ
った。そして、分け隔てなくすべての人々を愛する優しい女性だった。
 だが、その誰にも注がれる彼女の無限の愛が、彼女と彼の運命を狂わせ
た……。
 『なぜだ……なぜ俺は………………』
彼は彼女の死体を目の前にして、両目から大粒の涙をこぼした。その涙は、
彼女の死を悲しむのももちろんだが、何より自分自身への怒りと憎しみの
ために流された涙だった。
『それに……なぜあなたは………………』
彼は涙を流しながら力いっぱいに歯を食いしばった。彼の口からは一滴の
赤い血が……そして異様に伸びた八重歯が見えていた。
 彼は両目を閉じた。そうすれば、目の前にある彼女の死体は自分の目に
写る事はない。目を閉じれば、自分が普段見なれている光景――闇――し
か自分の視界に入ってこないと信じていたから。しかし……。

――行きましょう。あなたにも、神の愛は届きます。

 しかし、彼が目を閉じるたびにその暗闇の果てに見るもの……それは、
かつて自分が背を向けた太陽の世界と、たった今自分が命を奪った彼女の、
太陽のような笑顔だった。そのたびに、彼は悪夢にうなされていた子供の
ように目を開き、額を両手で抱えて苦しむのだった。
『神よ……これがあなたに背を向けた俺への罰なのか! これが……こ
れが彼女の命を奪った俺が成すべき贖罪なのか!!』
 彼は太陽に背を向けたその瞬間から、神への信仰を捨てていた。だが、
この死ぬよりも辛い苦痛に、彼は神の存在を感じずにはいられない。神と
太陽に背を向けた自分への、神からの罰であることを彼は感じ取った。
 彼は異様に伸びた爪で、自分の腕を掻き毟った。何度も何度も掻き毟っ
た。両腕は引っ掛かれたことによって皮膚がところどころ剥ぎ取られ、そ
こからは血がにじみ出ている。彼はジッと自分の腕からにじみ出る血を見
た。しかし、自分の心の奥底に眠るどす黒い欲望は顔を出さなかった。
 『なぜだ! なぜ自分の血ではダメなんだ!!』
彼は彼女の死体が寝かされている石のベッドに自分の顔を打ちつけた。何
度も、何度も。やがて眉間はパックリと割れ、そこからはおびただしい量
の真紅の血が流れ出た。
『それならば……それならば、俺があなたの命を奪うなんてことはなかっ
た……』
 やがて、彼の両腕と眉間の傷は塞がる。彼が神への信仰を捨てた代わり
に手に入れたもの……おぞましい闇の力は、彼が望む望まないに関係なく、
彼の傷を癒していく。
 彼の両目から流れる涙が、彼女の死体へとしたたり落ちた。骨と皮だけ
となってしまっている彼女の体に、彼の涙は吸い込まれて行った。
 彼は死体から目を背けると、再び目を閉じた。このとき彼の瞼に写され
た映像は、光の中にたたずむ彼女の姿ではなかった。

 『近づかないでくれ。俺はあなたが考えているような者じゃない。ひょ
っとすると俺はあなたを殺してしまうかもしれないんだ。』
だが、彼女は彼の言うことを聞かなかった。彼女の聖母のような優しさが
そうさせなかったのだ。彼の周囲を取り囲んでいる深い絶望と悲しみを拭
い去らなければ、彼は本当の意味で幸せにはならない。彼女がそう感じた
とき、彼の制止は彼女の前では無力だった。
「そんなにボロボロの心と体で、あなたは人の愛を拒絶するのですか? 
あなたに今もっとも必要なものは、神と人の愛だと言うのに……。」
『俺は神への信仰を捨てている。』
「神は例え信仰を捨てているあなたへも無限の愛を注いでくれるのです。」
『それに、俺はあなたを愛している……だから、だからあなたには俺に近
づいて欲しくないんだ!』
彼の言葉を無視し、彼女は彼に近づいてきた。彼女が1歩1歩彼に近づく
たび、彼の心の中で巣食うどす黒い欲望がキバを剥き始める。彼は自分自
身の中で少しずつ大きくなってくる自分の中の怪物を必死に押さえた。
「私では、あなたを癒すことは出来ないのですか……?」
彼女はその細い腕で彼を優しく抱きしめた。彼女の優しさが、彼の心の傷
を癒そうと今、そのすべての愛と暖かさを彼に注いだ。
 しかしこのとき、彼が必死に押さえていた黒い欲望が、ついに彼の抑制を
離れ、彼の体を乗っ取った。黒い欲望は彼の体を奪い去り、彼女の首筋へと
そのおぞましいキバを突き立てた………………。

 彼は両目を開いた。その目の前には、自分の欲望の犠牲となった彼女の、
あわれな亡骸が寝かされていた。首筋には、彼の欲望に襲われた印――噛
み傷――があった。
 『こんな辛い目を見るとわかっていたなら……神に背を向けるなんて
しなかった……』
彼は自分が神への愛を捨てる代わりに手に入れたこの体を、今になって憎
んだ。あの日から数百年、自分は神の子羊たちとは次元の異なる、神の愛
などいらない孤高の存在だと思っていた。その自信が今、音を立てて崩れ
落ちた。己が愛する者を殺さなくては生きていけない存在など…………。
 『神よ、俺はあなたへの信仰を取り戻したわけではない』
窓の外がにわかに明るくなってきた。明るい光が部屋の中を照らし始め、
彼は数百年ぶりに太陽の洗礼を受けた。
『だが、彼女を死なせてしまった自分自身への罰は受ける。今、この体を
あなたの手に再び返そう』
 彼の体が光に包まれた。彼はもう長い間感じてなかった太陽の光の暖か
さを感じ、この心地よいぬくもりに、序々に眠気を感じ始めた。
『神よ……あなたの愛はこんなにも暖かいものだったのか……』
彼は目を閉じた。その目を閉じる瞬間、彼の視界に飛び込んできたのは、
まぶしい太陽の光ではなく、目の前に眠る変わり果てた彼女の死体でもな
く、彼に向って優しく、慈愛に満ちた笑顔を向けてくれる、聖母のように
優しく美しい彼女の笑顔だった……。

 数時間後、村人たちは美しさと聖母の優しさが同居した女性の変わり果
てた姿と、人の姿に積もった大量の灰を見つけた。