大和朝廷「日本国」出生秘話 《 つぶやき: 「 古代 」 041 》
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ
白村江戦い前、東西枢軸国の唐国・新羅・『秦国』の侵略に対抗するため、九州王朝倭国が「難波副都」でその軍事力を背景に、巨大徴税システムである「天下立評(=全国評制施行)」し、日本全国長門以東を実効支配したが、その司令官が「両京制」・「兄弟王朝」である 倭国の倭王家 〔分家の弟王家〕 である。
日本書紀の〔舒明・皇極・孝徳・斉明・天智・(大海人皇子、持統の夫で、草壁尊の父の)天武・持統〕のとりわけ和風諡号に 「天□□」 を持つ5代の各天皇はこの倭王家 〔分家の弟王家〕 の出身である。
倭王家 〔分家の弟王家〕 が「天下立評」での軍事力・財力で飛鳥・葛城『秦国』王家の蘇我氏を取込み、更に東の「蝦夷・粛慎」を征服・懐柔・皇化する一方、白村江戦い・壬申乱を経て後、連邦国家『九州倭国』の王権の禅譲を受けをクーデター「プロト大化の改新」で乗っ取り、倭国連邦の解体・改組してのち成立したのが、奈良の中央集権国家・文武天皇(大宝元年:701年)の大和朝廷『日本国』である。いわば倭王家 〔分家の弟王家〕 はプロト大和朝廷である。
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2010年 4月 2日 発行
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(000) 『大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
大和朝廷は(「天下立評」で難波副都に派遣常駐した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ ../../../www.geocities.jp/waikoku/yamato.html
2:32 PM Apr 2nd webから
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(737) 『日本側に無い『開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使』では、何が交渉されたのだろうか?』 2011年8月18日(木)
【古事記の序文】の中の「南山」は、中国の「終南山」の別名である。
⑤「蝉蛻於南山」の南山は、中国の【終南山】の異称。
【終南山(しゅうなん‐ざん)】: 中国、陝西(せんせい)省の西安の南東にある山。古来、詩によく詠まれた。南山。チョンナン‐シャン。また、コトバンク(KOTOBANK)で【蝉蛻】とは?
【▼蝉▼蛻(せんぜい)】(名)スル
(1) セミの抜け殻。転じて、外形のみで中身のないこと。
(2) 迷いから覚め、悟りの境地に達すること。蝉脱(せんだつ)。「濁世の汚穢(おわい)を被り、容易に之―すること能わず」〈織田訳・花柳春話〉
(1)蝉(せみ)のぬけがら。うつせみ。(2)俗世間から超然としていること。蝉脱。「蝉蛻於南山」:「
南山に居た時は、蝉蛻(せみのぬけがら)のようだった。
⇒ 南山に居た時、迷いから覚め、悟りの境地に達した。(俗世間から超然とした修行中だった。)」
★ 私が、この「蝉蛻於南山(=南山に居た時、迷いから覚め、悟りの境地に達した)」を、今にして振り返ると、次のようだったと思うのだが。はて・さて…
『 倭国軍の白村江敗戦後に唐が進駐・占領したであろう倭国の直轄地・九州島の混乱。及び、倭国軍の白村江敗戦後に、長門以東を直接支配の守備・残留倭軍(=日本余噍)即ち近江朝天智天皇の唐占領支配への抵抗、反乱。更には、日本国独立宣言。この事態をすみやかに、収拾できるのは、唐の都・長安に拘束中のこの自分(=白鳳王「倭王」薩夜麻)しかいないという自覚・決心の「蝉蛻」だった。 』
(だれに師事したか?たぶん唐高宗の紹介で、南山律宗の開祖の【道宣】だっただろう。)
何故か、古事記序文のこの箇所は、むしろ、誇らしげに特記されているといえよう。』
だが然し、倭王・薩夜麻は、唐高宗の明らかに、川端 俊一郎氏が
『隋唐帝国の北東アジア支配と倭国の政変』
の中の『囚われの筑紫の君、【薩野馬 サチヤメ】の帰還』の項の中で指摘する【羈縻支配(=降伏した諸国の王を唐都へ連れ帰って再教育し、征服地の戦後改革が済んでから、時機を見て故地へ送り返すというのが、唐の冊封体制における羈縻支配というものであった。羈(キ)とは馬の手綱、縻(ビ)とは牛の鼻綱で、これで牛馬も御すことができる。)】を受けていた。
今で言う「傀儡(かいらい)政権」である。と言うにも関わらずだ。
【持統紀 はなかった: 飯田満麿著】
の中で『1.動かせぬ歴史事実』の項に、『太安萬侶の序文によれば、『古事記』は和銅4年9月(711年)の詔勅を受け、和銅5年正月(712年)朝廷に献上されている。これは明らかに元明天皇(707-715年)治世下の歴史事実である。
●『続日本紀』元明天皇、和銅7年(714年)2月10日、戊戌、
「詔 従六位上 紀朝臣清人。正八位下 三宅臣藤麻呂。令 撰修 国史(=『日本書紀』)
即ち、711年の詔勅は消され、714年の詔勅は明記された。』
そして、同著【持統紀 はなかった: 飯田満麿著】の末尾、『9.結びにかえてー外国史書の証言』の項には、
『『新唐書』の場合、これは恐らく長安(701)の粟田真人奉呈の国書、によったと推定される。この時の日本国王名表は、当然和風諡号だった。
これは「唐」側として、甚だ意思疎通に欠けるもので、不満の意が表明されたと思われる。この事態を受けて、「近畿王家」は大陸の風に倣って急遽漢風諡号を制定した。これは「唐」側に記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使によって報告されたと推定される。
但しこの開元初年の遣使記録は日本側には記録されていない。
713年は和銅6年に当る時の天皇は元明天皇であるが、この漢風諡号の原資料は大宝元年(701)の遣唐使の報告であると推定される(付記参照)。』
711年の『古事記』編纂の詔勅は消され、714年の『日本書紀』編纂の詔勅は明記された。
この間にあったはずの「唐」側にのみ記録されている、開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使。
日本側に無い『開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使』では、何が交渉されたのだろうか?
私には、この辺に、非常に重要な「鍵」が隠されていると思えてならない。
『開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使』
は確かにあったと思われる。この新唐書には、【 開元初 粟田復朝 請從諸儒授經 詔四門助趙玄默即鴻臚寺爲師 獻大幅布爲贄 悉賞物貿書以歸 】とある。
『続日本紀』は、まともな史書と思っていたが、…そうでも無いようだ。
命がけだったと言う遣唐使派遣記事をばっさり削除しているのだからね。
記載すると何か余程まずい何かがあったということだ。それは何だろうか?
この時、『古事記』を隠匿・隠蔽し、『日本書紀』の新たな編纂が唐朝側から内諾が得られた、ということだろう。
九州王朝「倭国」史を抹殺し、附庸国の秦国史を改編する。内諾を得たということだ。大和朝廷は、何を取引材料にしたのだろうか?
今の私には、残念ながら、さっぱりで想像もつかない。
『開元初年(713)の粟田真人を正使とする遣唐使』が派遣時の皇帝は、
『唐の歴代皇帝と陵墓』・《魚拓》
を参照すると、6代目の玄宗皇帝(712~756)になったばかりだと分かる。
(738) 『「学ぶ」そして自身の再検証を通して「問いを発する」ことこそ、「学問のあり方」と信じるからだ』 2011年8月19日(金)
■
古田史学会報no105【「論争のすすめ」:福岡市 上城誠氏投稿】を抜粋・転載する。
古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】
について、以下三点に絞り考察を進めてみたいと思う。そのことによって氏が今迄発表された、各論文に対する研究及び再検証が活発になれば幸いである。
一、「古事記」序文の解釈について
氏は会報の6ページにおいて「古事記」序文の読み下しを次のように整理された。
<①~⑥途中略>
①~③は古賀氏の分析どおり、「夜水」は筑後川の別名、「南山」は高良山と考えられ、天武の「筑後」雌伏を示し、④は壬申乱での天武の活躍を述べたものだが、問題は天武の帰還地を示す⑤だ。
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也著】
に依拠されたのだ。しかし、私達の前に、その再検証過程と依拠される理由は示されていない。
そのことに私は大きな違和感を覚える。古賀氏の研究論文に「学ぶ」そして自身の再検証を通して「問いを発する」ことこそ、「学問のあり方」と信じるからだ。
《以下は私の意見ですので、悪しからず》
正木裕氏の肩を持つようだが…、上記会報no103を読み直してみても、古賀達也氏のをそっくり転記されているようだ。
『「学ぶ」そして自身の再検証を通して「問いを発する」ことこそ、「学問のあり方」と信じるからだ。』と、そう、まさに、おっしゃる通りだが…、はて・さて?
ところが、「学ぶ」そして自身の再検証を通して「問いを発する」、そして、自分も納得した箇所は、ことさら、論:あげつらう必要ないのではないか?
いくら「学問のあり方と信じる」からと言われても、紙面の都合もあろうに、と思う次第。
私は、
古田武彦著の『壬申大乱』・
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也著】・
古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】を読み(学び)、そして自身の再検証を通して、ネットの検索でふんだんに「問いを発した」結果、
結論が不幸にも、【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】と結論付けた。
これは、先日来のここのブログを読んで頂けた方には、その四苦八苦ぶりでも、わかっていただけると思う。
今の私にとって、南山が吉野であっても、高良山であっても、さらに夜水が筑後川であっても、
「同じ穴の狢:むじな」である。
最近、正木裕氏の著作を読ませて頂く機会がすごく多い。
もちろん、「なんだ・こりゃー」と思う箇所も確かにある。
でも然し、批判するにも批判する対象・記事があってこそである。
活躍できる時は、さほど無いものでもある。
油ののった時を逃さずに、「ばん・ばん、せっせ」と書きなぐって欲しい。
批判は、「後の方が手ぐすね引いて」、待っているものなのだから、
「米田良三氏のように潰されない」ように、みんなで盛り立てようではないか。
その為には、細心の注意が必要ではないだろうか(と偉そうに…呟く^^)。
■
古田史学会報no105【「論争のすすめ」:福岡市 上城誠氏投稿】を抜粋・転載する。
<途中略>
上城誠氏は、その投稿記事の末尾に次のように語る。
本稿の目的は、「古田史学の会」の論者相互の論争のすすめである。「会報」を見れば判るとおり、各論者が自己の仮説を発表しているだけで終わっている。そして、その大部分に対して検証・反論なくまま仮説が積み重なってゆき、いつの間にか「古田史学の会」が認めた「定説」であるかのように、インターネット上にホームページを有する論者が扱い、また自説の根拠として利用したりしている。
それで良いだろうか。
もっと会報上で論戦を繰り広げるべきであろう。古賀、正木、西村という関西を背負う論者諸氏が相互に礼節を伴った論争を繰り広げ会報上にその論争が展開される日が来ることを望むのである。
「古田史学の会」を設立するにあたっての古賀氏の精神的、肉体的苦闘を知る者の一人として「会報」が一〇五号を数え、その発行する「古代に真実を求めて」が一四号のも及んだことを大いに喜び、古賀氏を中心とする関西の諸氏の努力に頭を垂れつつも、現在の会のありようには、言葉に表現できない、大きな違和感を感じざるをえない。それを解消する第一歩として、会員諸氏の大いなる論争の開始を願って、この稿の結びとしたい。
■
《以下は私の意見ですので、悪しからず》
上記には、『本稿の目的は、「古田史学の会」の論者相互の論争のすすめである。「会報」を見れば判るとおり、各論者が自己の仮説を発表しているだけで終わっている。そして、その大部分に対して検証・反論なくまま仮説が積み重なってゆき、いつの間にか「古田史学の会」が認めた「定説」であるかのように、インターネット上にホームページを有する論者が扱い、また自説の根拠として利用したりしている。』
⇒ 上記で、私は、以下確認したいことがある。
【「古田史学の会」が、そのホームページ上に公開の論文は、「古田史学の会」が認めた「定説」である。】と思っている。
上記の場合だと、
【『古事記』序文の壬申大乱:京都市 古賀達也著】
は、「古田史学の会」のホームページ上に公開されいるので、「古田史学の会」が認めた「定説」である。然し、
古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】
は、私が賛意を持って、ネットにも広く知って欲しくて抜粋・転載しているものなので、「古田史学の会」が認めた「定説」ではない。ということになる。
ところで、この公開が前提だとすると、
「古田史学の会」が認めた「定説」とは、だれが検証し、だれが認証するシステムになってるのだろうか?確認したいものだ(まさか、上城誠氏が認証するわけではないよな!)。
また、
【古賀達也の洛中洛外日記】
での扱いは、「古田史学の会」が認めた「定説」だとなるのだろうか?やはり、確認したいものだ。
いまどき、上城誠氏は「会報」だけが「論戦の場」だとされてるみたいだが…、もう少し扱う「情報媒体」を広く検討された方が、氏自身も良いと思うのだが如何?
(739) 『空海は九州王朝を知っていた(多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ):古賀達也著』 2011年8月19日(金)
■
今、なにげなく、
『古賀達也の洛中洛外日記』第323話 2011/06/11【空海の遺言状】
を、読んでいると、古賀達也氏が若かりし時の【『市民の古代』第13集 1991年 市民の古代研究会編 ●研究論文】の下記紹介記事が目に飛び込んで来ました。『空海は九州王朝を知っていた(多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ):古賀達也著』
です。
■
「南山は、中国・西安の終南山である」と先日来よりの検討結果たどり着いたわけですが…、
「蝉蛻於南山」:「
南山に居た時に、蝉蛻(せみのぬけがら)のようだった。
⇒ 南山に居た時、迷いから覚め、悟りの境地に達した。(俗世間から超然とした修行中だった。)」● だれに師事したか?たぶん唐高宗の紹介で、南山律宗の開祖の【道宣】だっただろう。
とし、● 南山律宗の唐招提寺の鑑真は、何度も今の上海あたりから日本へ渡海を試み、5~6度の船の難破とかで失敗したにも関わらず、敢えて入朝した動機は何だったのか?
更に、空海との関係は?とか、と想像しました。なので、何か機会があったら、
【弘法大師・空海(774-835)】・《魚拓》
について、詳しく調べてみたいと思っていました。
なーんだ、すぐそこにありました。
まだ、読んでいませんが、助かりました。
『空海は九州王朝を知っていた(多元史観による『御遺告』真贋論争へのアプローチ):古賀達也著』
には、目次:
1 千年の論争、弘法も筆の誤りか
2 『御遺告』の空海帰国年
3 隠された帰国年、『続日本後紀』空海崩伝
4 直弟子の証言、『空海僧都伝』
5 空海の証言、帰国と着岸
6 空海は九州王朝を知っていた
7 大同四年入京説批判
8 隣国の証言、『三国史記』
9 九州王朝の滅亡、被征服か禅譲かとあって、空海の帰国年が、いつか大同元年(806年)か、大同二年(807年)かを、決めかねてると判ります。
この結論は、平安・京都王朝開闢直後の九世紀初頭であっても、九州王朝が存続しているという認識が空海にあったということのようです。
■
『6 空海は九州王朝を知っていた
その約百年後(大同元年・八〇六)に空海が筑紫を経由して近畿へ帰ったのであるが、その時点でさえ空海は筑紫に帰着したことをもって「帰国」とはせず、「着岸」と表現している。なぜか。大変こわい帰結だが、〔 九 x
七x 〕世紀初頭においてなお、空海にとって筑紫は「我が本国」すなわち日本国ではなかった、このように考えるしかないのではないか。
そして翌大同二年(八〇七)に近畿へ、すなわち「我が本国」へ帰国したのではなかったか。』とあります。
■
思うに、え・えー、ま・まさか、ほんとう?。 ですよね
大和朝廷が、「プロト乙巳の変」で九州王朝「倭国」の高市天皇を暗殺し(696年)、政権奪取して、ちょうど百年経過しているにも関わらず、巷間(空海を含め)市民の間ではそういう認識だったということでしょうか?
私の
『大和朝廷は(難波副都で「天下立評」した)九州王朝倭国の倭王家〔分家の弟王家〕だ』
説であれば、さもありなん、なのですが…。
更に、既にこの時点で、《9項に、『九州王朝の滅亡、被征服か禅譲か』》とあります。昨年の
【古代に真実を求めて(古田史学論集 第十四集)】の禅譲・放伐論争シンポジウム』
の火付け役は、古賀達也氏だったんですね。
今日はお風呂の母湯に、肩まで浸かった。
久しぶりだー^^ う・さむかったちゃッ
秋芳洞の「青の洞門」を過ぎて、「千枚田」の次だっけ、「ちりめん岩」小学生の頃遠足で行った時は、「きら・きら」光ってた。 今は、観光客が持ち込む土埃で汚れてしまったけど…
(740) 『「九州王朝新発見の現在」阿蘇山問題・隋書俀國伝◎【有阿蘇山“其石無故火起”接天】の新解釈』 2011年8月21日(日)
■
な・なーるほど、そう読むのか?“え・えらい違いがある”もんだ…。
古田史学会報no105(2011年8月8日)【(二〇一一年度 久留米大学公開講座)古田武彦講演「九州王朝新発見の現在」要約」:文責=大下隆司】を抜粋・転載する。
一、阿蘇山問題・隋書俀國伝
■ 【有阿蘇山“其石無故火起”接天】これを一般的には、
“その石は、故なくて火が起こり”と読まれている。が、これでは意味不明でおかしいと思っていた。
① 天が起こしたものが“災”であり、人が起こしたものが“火”である。
この文章の“火”は人が起こしたことを意味している。また「無故壇入」という熟語があるが、これは「無用の者猥に入ることを禁ず」で、「無故」禁止の意味。
“接天”とは、天に高くそびえていることである。
② これらから、
“其石”とは「阿蘇山の石で作った要害=神籠石山城」である。
更に、その中では祭事が行われていて、火を起こすことが禁じられている。
と言う意味であることが分かった。
③ 「神籠石」は敵に対して作られた山城であると同時に大自然という敵に対して作られた霊域でもある。
④ 【如意宝珠】:宝珠とはイサナ(鯨)の目で作られた、俀国の宝珠である。
④ 【天災】:瀬戸内海が出来た時のプロセスは「縄文海進」というきれいな言葉が使われて、だんだんと海面が上昇してきたような印象がもたれるが、実際、その時代は大地震、大津波の連続の時代だったのではないだろうか。
そして、その時人々は天に祈るしかなかったのではないかと考えています。
⑤ 【高地性集落】:第一の敵は大自然で、天災に対する恒久的な逃げ城として作られた。
第二義的に敵の攻撃に対する防御の意味を持った。
⑥ 「神籠石山城」も「高地性集落」の延長として、倭国が“自国民を守るために作った天に祈る場”であると同時に、“敵の攻撃を防ぐ山城”であった。
■
思うに、上記で肝心な箇所で、古田武彦氏は、『“其石”とは「阿蘇山の石で作った要害=神籠石山城」である。』と迄、言われている。
漢籍に不如意な私ですので、もう少し、「石=石山城」の説明が欲しいところです。
また、④で、「縄文海進」について触れて居られる、これについて米田良三氏は、『日本だけが、「縄文海進」するはずも無く全世界規模で、「縄文海進」が起こるはずのものだが、そんな話は聞いたことも無い』と確か言われてた。
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『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』第2章 暘谷論 4 列島合体 p81には、次のようにある。
①、「縄文海進」…縄文時代の一時期気温が上昇して海水面が上がったと言う説。
が、事実は関東平野に見るように大地が隆起しただけである。海のなかの根(ね)が隆起し大地となり、そこに暘谷から逃れてきた人々を中心に生活の場が作られ、貝塚が築かれたのだ。現在に心配されるような、温暖化現象による水位の上昇はなかったと考えられる。と書かれている。
まー、この本は、p59に『そして四〇〇〇年前に東日本と西日本が合体する。(暘谷海の)海流はせき止められ、さらに火山活動が活発になる。二〇〇〇年に近い火山活動の結果、主なものを挙げても北から、妙高、黒姫、蓼科、八ヶ岳、富士山、箱根の火山ができたのである。』とあり、そんなに最近富士山ができたのかって、いぶかる方も居られるかと思いますが…、最近、「東日本大地震」を直接経験すると、「ひょっとすると、ひょっとするかも知れない」と思う次第です。
期せずして、古田武彦氏も同じようなことを、おっしゃってると思い、敢えて『列島合体から倭国を論ず:米田良三著』を紹介します。
確かに、関東では、浅間(あさま・せんげん)神社が多く祀られていて、ここ横浜でも横浜駅と三ツ沢グランドの間の浅間交差点の近くには浅間(せんげん)神社があり、その上の尾根には前方後円墳があったとされています。富士宮神社は源頼朝が伊豆で挙兵して祀ったのが始めでつい最近のことのようです。古くは浅間神社のようです。
あとひとつ、八ヶ岳の山麓には「縄文遺跡」があると聞いている。
縄文文化は一万年前起源だと聞くので、平野にあった縄文遺跡が四〇〇〇年前に、八ヶ岳の山麓に隆起したと考えれば、充分納得可能でもある。
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そうだ、今日は“ トンイ ”がある。
これって、韓国の方から見ると、
“ おごう ”みたいな少女趣味、少女マンガ、ぽいのかもしれんなー
(741) 『六九五年のクーデターで戦略を立て、太公望に比すべきは不比等であった。』 2011年8月21日(日)
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古田史学会報no105(2011年8月8日)【斎藤里喜代さんへの反論:奈良市 水野孝夫氏投稿】を抜粋・転載する。
■
会報一〇三号の「入鹿殺しの乙巳の変は動かせない:小金井市 斎藤里喜代著』に反論。
<途中略>
《余談》
『続日本紀』天宝宝字四年(760)には先朝太政大臣藤原朝臣(不比等)に対する表彰記事がある。死後四十年、異例に持ち上げ、「宣依齊太公故事」「近江国十二郡を追加し、封じて淡海公と為す」。(近江に封じたのなら「近江公」でよいはずなのに、なぜ「淡海公」なのか?。近江=淡海を強調する作文である。)
「齊太公故事」とは司馬遷の『史記』に登場する 「太公望・呂尚」、つまり大戦略家を得て成功した話。
『日本書紀』及び『藤氏家伝』によれば、戦略家として功績があったのは鎌足であり、不比等ではない。
鎌足及び不比等の墓はどこだか定説がなく二人の墓は混同され続けている。『藤氏家伝』には鎌足伝があって「史(ふひと)伝は別に」と記載されてはいるが、伝わってはいない。
六九六 x
六九五x 年のクーデターで、戦略を立て、「太公望」に比すべきは不比等であった。これが六四五年では不比等は登場できない。そこで戦略家は鎌足と作文されたのだと理解する。
<以下略>
■
① 水野孝夫氏の『戦略を立て、「太公望」に比すべきは不比等であった』は、『戦略家は鎌足と作文されたのだと理解』で私の同じだ、「はたッと」膝を打つ次第だ。
② いまひとつ、水野孝夫氏は指摘されていないが、上記記事に、
『『続日本紀』天宝宝字四年(760)には先朝太政大臣藤原朝臣(不比等)に対する表彰記事がある。』
とあるのですが、その中に見落としかねない「先朝」という表現がある。
この「先朝」とは、『続日本紀』の書かれた大和朝廷を「今朝」とした場合の表現であろう。であれば、「先朝」とは、『日本書紀』に書かれた朝廷の事を言ってることにならないか?即ち、大和朝廷とは違う九州王朝「倭国」のことだろう。
『日本書紀』が、建て前として「同じ大和朝廷の歴史事実を書いた」のであれば、「先朝」という表現ではなく、「持統朝」とかの表現が適切・妥当だと思うのだが如何。
ーぽろっと、その嘘がばれてしまったのだー。
(742) 『鹿島神社のように、しめ石に「潜龍随時・游雷應期」とあるのは、全国でここだけかどうか?探しています』 2011年8月22日(月)
■
鹿島神社のように、しめ石(写真)に「潜龍随時・游雷應期」とあるのは、全国でここだけかどうか?探しています。
もし、ほかにあればぜひ教えてください!
■
検索では、ホームページ
『 おみや 』
さんが、ヒットしました。でも、文面からは同じ「鹿島神社のしめ石」の「潜龍随時・游雷應期」の事のようです。
■
こうのさま、お元気そうで何よりです。
今朝、足がつって、
激痛で目が覚めました。
しかし、つったまま、寝てしまったので、
筋肉に変なクセがついてしまい、今から職場近くの風呂に入って、温泉療法です。
雷鳴を句によむことが、私にはできません。
職場の近くの神社には、石文に次の漢字が刻まれています。潜龍随時、雷遊応期。
河野水軍に関係がある言葉ではないかと思います。
また高浜虚子の石像が柳原にあります。
道のべに阿波の遍路の墓あはれ ?
という句だったか、句碑もあります。
私は、俳人ではありませんが、車で虚子の石像の前を通りすぎるとき、大きく両手で、拍手、一本締めをすることが、習慣になっています。
五十年後、こうのさんの句碑が、松山にたったらいいなぁ。
もちろん、さきさんもソクサイで。
| しゅう | 2010/05/12 8:14 PM |
■
《参照》
【「潜龍随時・游雷應期」:「濳龍體元・洊雷應期」どう違うのかな?】
【(2)お火舷祭と火事祭り②(ウ)鹿島神社の秋祭り】には、
【鹿島神社しめ石(写真4-1-20参照)「潜龍随時・游雷應期」】
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【(2)お火舷祭と火事祭り②(ウ)鹿島神社の秋祭り】・《魚拓》
には、「潜龍随時・游雷應期」:鹿島神社のしめ石(写真4-1-20参照)に刻まれた文句は、漁民の守り神・農民の守り神を示しているのです。向かって右に、『潜龍随時(潜龍(せいりゅう)時に随(したが)い)』、左に、『游雷應期(游雷期(ゆうらいき)に應ず)』とあります。
■ところで、「潜龍随時・游雷應期」:「濳龍體元・洊雷應期」どう違うのかな?
漢籍に疎い(うとい)吾が輩としては、辛い試練かもしれん知れないな。
古田史学会報no103【「筑紫なる飛鳥宮」を探る:正木裕氏投稿】②
で正木裕氏は、三、『古事記』から探る天武の即位宮・項の、
2、『古事記』序文の「壬申の乱」・項の、
①飛鳥の清原の大宮に大八洲御しめしし天皇の御世に曁(いた)りて、潜龍(せんりゅう=太子、ここでは天武)元を體し、洊雷(せんらい同)期に應じき。
とあって、【『潜龍(せんりゅう』 ⇒ 「太子」 】と解されている。
いっぽう、
【乾為天(けんいてん)】:『潜龍勿用(せんりゅうもちうるなかれ)』・《魚拓》
の占い?頁では、「潜龍」とは田んぼの中に潜む龍の姿。未熟で若い潜龍の時、力不足。時期整わず能力発揮できない時。会社でいえば新入社員。まだ自分で思っているほど実力はありません。いい格好をしても周囲の人も認めてくれません。このような時は、逸る気持ちを抑え、隠忍し、じっと我慢して力を貯え、時期を待つ時なのです。じっと耐えながら頑張る姿はきっと、有識者の目にとまるはずですから。
とあって、【「潜龍(せんりゅう」 ⇒ 「未熟者」 】と解されている。
同じ【潜龍(せんりゅう】 でも「太子」と「未熟者」と解釈が違っているのだ。私は「未熟者」と解釈しょう。
で、「濳龍體元」とは、⇒ 「はじめに、私は「未熟者」だった。
⇒ 『倭王・薩夜麻は、血気にはやり即位もそこそこに、州柔戦へ出征し、まぬけにも・まんまと捕われたしまった。(少し飛躍しすぎかな^^)』
■「游雷應期」⇒ 「 游(ゆう) 」:泳ぐ、遊ぶ ⇒ 游(=じっと我慢して力を貯え)、好機が来たら、雷の如く轟くぞ(暴れるぞ)。
■「洊雷應期」⇒「 洊(せん) 」:しきりに、たびたび ⇒ 私の漢籍では、なんとも落着かない…。本当に古事記・序文は「洊雷應期」と書かれているのだろうか?
◎鹿島神社のしめ石(写真)の「潜龍随時・游雷應期」の方が原型だと思われて仕方が無いのだが…。
(743) 『「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」説で、これまでの(万葉集27)他を見直してみよう』 2011年8月23日(火)
「南山は、中国の【終南山】の別名」とする説での『古事記:上卷并序』解釈の■ 最終総まとめ ■
で分かるように、【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】と結論付けた。
ところで、私は『 淑人の よしとよく見て 好し言ひし 芳野よく見よ 多良人よく見 : (万葉集27) 』を、ブログの
『天智が近江で即位し、内外に「日本」と言う名を宣言したとなっていますが、それが認められたかどうか怪しい』
において、【天武は『淑人(=倭王薩夜麻)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時倭王薩夜麻が賛成してくれて良かった)』】
この歌の、『よしとよく見て、好し言ひし』は、果たして、どういう意味だったのだろうか? 思うに、次のように解釈できないか?
『唐占領で混乱の筑紫倭国から、長門以東天智近江朝の「日本国」独立宣言は、あくまで唐占領に対してであり、筑紫倭国に対してではありません。倭王薩夜麻(=淑人)あなたが、ご帰国された今、長門以東近江朝の「日本国」独立宣言は撤回しましょう。
その代わり、唐占領軍は撤収させてください。更に、近江朝(=灘波副都弟王家)の長門以東を州柔・白村江敗戦以前の天下立評時の委託統治支配をお認め下さい。』と解析した。
が、この時の前提は「芳野」は、「吉野ヶ里」付近として観点で、である。
そこで、上記観点の【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】説では、どうなるか、検討しょう。
考えられるのは、淑人(=唐・高宗)と解釈可能でもあり、
天武の大海人皇子は『淑人(=唐・高宗)』が、『よしとよく見て(=きっと了解してくれると読んで)』、『好し言ひし(=分かったそれで良いと言ってくれた)』更に、『芳野よく見よ(=郭務悰へこの作戦でどうだ、良く検討するように)』と、『多良人よく見(=あの時、倭王薩夜麻の唐・高宗への提言は正しかった)』流石だ!。
となる。
この歌だけだと、大海人皇子の天武天皇は倭王薩夜麻を絶賛してるだけで、出番は全く感じられない、語られていない。ことになる。
私は一方で、
【『壬申の乱』とは、唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である】ともしているが、極端には、【『壬申の乱』と、唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」とは全く別事件である】となってしまうのだが、はて・さて?
要するに、この大海人皇子の天武天皇歌(万葉集27)だけでは、分からないという事なのだろう。
そこで、『壬申大乱:古田武彦著』第四章 天武天皇の秘密 第一節 p145、に次のようにある。
前段階は終わった。本番に当面することとなった。それは「壬申の乱」の主人公である天武天皇(大海人皇子)自身の歌だ。
「文章」ではなく、「歌」ではあるけれど、一番の当事者の「声」だ。すなわち直接史料である。文字通りの第一史料であるから、これを慎重に、そして的確に、理解しなければならぬ。それは巻一冒頭部の有名な歌だ。
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【 天武天皇(大海人皇子)の御製歌 】
み吉野の 耳我(みみが=長官が居る)の嶺(みね
=三根という地名)に時なくそ 雪は降りける 間(ま)なくそ 雨は零(ふ)りける
その雪の 時なきが如(ごと) その雨の 間(ま)なきが如(ごと)
隈(くま)もおちず 思ひつつぞ來(こ)し その山道(やまあいのみち)を
:(万葉集25)
を挙げられている。(ご注意:詳細は同書参照されたく)
大海人皇子の天武天皇御製歌(万葉集25)は、(万葉集27)の直前に置かれている。
ということは、大海人皇子の天武天皇御製歌(万葉集27)に直接関与してると見て良い。●大海人皇子の天武天皇が、『淑人(=倭王薩夜麻)』に直接話しかけている。
●「芳野」は、「吉野ヶ里」付近だとする観点で良いことになる。
●【『壬申の乱』とは、唐から解放・帰国の倭王・薩夜麻の「倭国再統合・倭王復位戦」である】として良いことになる。
要するに、、『淑人(=倭王薩夜麻)』の「状況証拠」と言う奴だ。
(744) 『九州王朝「倭国」の源流の長江中流域と、『古事記』序文の倭王・薩夜麻(=天武天皇)』 2011年8月25日(木)
「南山は、中国の【終南山】の別名」とする『古事記:上卷并序』解釈の■ 最終総まとめ ■
で、【「南山」は中国・西安(=唐の長安)の「終南山」である】と結論付けた。
さらに、昨年のちょうど今頃、
【吉野ヶ里遺跡は九州王朝倭国の歴代の王墓だった。長江中流域に甕棺のルーツがある】
として、このブログを紹介しました。
そのわけも、特に下記の画期的発見といえる、
【日本のイネの中に朝鮮半島にない遺伝子があった】・《魚拓》
を、紹介しました。
さらに、ここに
『古代日本のルーツ長江文明の謎(長江文明に遺されていた日本文化の痕跡…。その衝撃の真相を環境考古学の第一人者が解く!):安田喜憲著』
がある。
先ず、例によってこの著書の ■目次■ を紹介します。
古代日本のルーツ長江文明の謎 ■目次■
●プロローグ 日本の源流としての長江文明
①古代史を書き換える発見
②「文明誕生一元史観」とは何か
③日本人の歴史観
④文明は同時多発的に誕生した
⑤日本人のルーツと長江文明の関係
⑥再生と循環の思想
●第1章 長江文明とはなにか
①長江文明発見の衝撃
②城壁、神殿を持つ幻の古代都市
③長江流域という特異性
④湿潤と乾燥のはざまの大河のほとり
⑤環境考古学が明らかにしたこと
⑥五七〇〇年前の地球
⑦長江文明の担い手たち
⑧稲作農耕民と狩猟・漁撈民の融合
⑨「森の文明」の存在
●第2章 稲作の源流を辿る
①人類の起源をめぐる二つの説
②気候の変動と農耕の起源
③ヤンガー・ドリアスと麦作の起源
④稲作のルーツをさかのぼる
⑤農耕開始以前に作られていた土器
⑥「東亜稲作半月弧」と「西亜麦作半月弧」
⑦河姆渡遺跡と縄文文明
⑧なぜ、縄文時代に稲作が広まらなかったのか
⑨稲作農耕民が信仰した「太陽」と「鳥」
⑩「龍の文明」と「太陽の文明」の覇権争い
⑪中国大陸を席巻した「龍の文明」
⑫稲作農耕民にとっての「目」
●第3章 稲作農耕民が築いた長江文明
①六〇〇〇年前の文明の痕跡
②龍馬古城宝墩(ほうとん)遺跡が導いた「仮説」
③城頭山遺跡の発掘
④城頭山遺跡の「祭壇」が持つ意味
⑤玉器に見る「長江文明」の高度な技術力
⑥礼器のルーツを探る
⑦金属器を持つ文明 持たない文明
⑧出土した多数のフウの木
⑨長江文明を受け継ぐ苗族の存在
⑩苗族が長江流域を離れた理由
⑪なぜ長江文明は滅んだのか
●第4章 謎の滇(てん)王国を追う
①雲南省と日本文化を結ぶ線
②長江文明の流れをくむ滇王国
③森の文明に繋がる「蛇信仰」
④「ダブル・スパイラル」とは何か
⑤貯貝器の蓋に刻まれた「生け贄」の風習
⑥男根状の出土品と母権制社会
⑦滇王国と弥生時代の接点
⑧なぜ滇王国の繁栄は続かなかったか
⑨倭国の大乱と滇王国の崩壊
⑩雲南、台湾、そして日本列島へ
●第5章 長江文明と日本人
①古墳文化のルーツはどこにあるか
②日本の神話に残る長江文明の影
③稲作漁撈民としての日本人のルーツ
④日本列島へ渡った「羽人」の痕跡
⑤古代日本の王権と長江の民
⑥「二重構造」としての古代王朝
⑦日本列島に流入した「家畜の民」
⑧継体天皇の即位と長江の水軍
⑨天武天皇の即位が持つ意味
⑩『古事記』を貫く長江文明の世界観
●エピローグ 「美と慈悲の文明」としての長江文明
①世界が直面する「危機」
②「力と闘争の文明」を越えて
③歴史観・文明史観の転換
④「美と慈悲の文明」が世界を変える
⑤アンデス文明と長江文明
⑥日本文明の源流を誇りに思う
■
【『古代日本のルーツ長江文明の謎(長江文明に遺されていた日本文化の痕跡。その衝撃の真相を環境考古学の第一人者が解く):安田喜憲著』の■目次■の中に●第2章・稲作の源流を辿る⑩「龍の文明」と「太陽の文明」の覇権争い】がある。もう、おわかりでしょう。『古事記』序文の「龍」の事です。
私は、『古事記』序文の天武天皇の内実とは、倭王・薩夜麻(=天武天皇)の倭国再統合と倭王復位の事だと考えているわけですが…、このモデルを、とりわけうまく説明できるのが、
安田喜憲氏の『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、2001)・《魚拓》
だと思うのです。
■
おかしいよ、議員内閣制の首班指名選挙って、キングメーカーの掌で踊ってる。
国民は、情けないよね…。
小沢のニヤついた顔見るだけで反吐がでる。
カダフィーも若い時は、精悍でいい男だったけどなー、
なんか年取って顔が汚くなった^^
気持ち悪くて、見てられない。
(745) 『転載:【朝鮮半島には存在しない、中国固有の水稲が出土!(静岡大学農学部助教授 佐藤洋一郎氏)対談】』 2011年8月28日(日)
■
下記は、
【朝鮮半島には存在しない、中国固有の水稲が出土!(稲のたどってきた道:静岡大学農学部助教授 佐藤洋一郎氏)対談】・《魚拓》
からの抜粋・転載ですので、悪しからず。 詳細は該当頁にてお願いします。
■
──ところで、弥生時代の稲作でも興味深い発見があったとか。
佐藤 1995年に、私の勤務する静岡大学近くの曲金北(まがりがねきた)遺跡で、約5万−uもの広さを持つ水田跡が発見されました。この水田跡は、古墳時代のもので、3−4畳半程の小区画が連続しているという形状をしています。
──5万−uとは、また随分広いですね。
佐藤 収穫量を計算してみたら、少なく見積っても15tくらい。100人以上が米だけで暮らすことのできる量ですが、当時のその地域の人口はそんなに多くなかったのです。
そこでその一角の土を調べてみたところ、水田ではなく休耕田が含まれていたと判明しました。結局、100の小区画のうち、水田はたった22区画だけだったんです。さらにDNA分析をしてみると、近在栽培されていた稲は、2割が水稲、4割が陸稲でした。
──せっかくの水田で陸稲を栽培していた!?
佐藤 そうなんですよ。確かに見掛けは水田ですが、やっていたことは焼畑などの雑駁農耕だったんです。これは曲金北遺跡だけでなく、全国の弥生遺跡に共通する特徴です。
そうしたことから私は、ひょっとすると縄文晩期から作られたごく初期の水田は、縄文人が朝鮮半島を訪れ、そこで目にした水田を見よう見真似で作ったものではないかと思っているんです。縄文人というのは、もともと流浪の民ですから、フットワークはかなり軽くて、朝鮮半島まで行くのなんて朝飯前だったんじゃないかと(笑)。だからこの曲金北遺跡のように、水稲も陸稲もごちゃ混ぜの農耕を行なっていた可能性があると思うわけです。
──なるほど、縄文人も外国の流行を取り入れたというわけですね(笑)。確かに、朝鮮半島から渡来した人達が水稲を伝えたのではなくて、縄文人が朝鮮半島から持ち帰ったという推測もあり得ます。それにしてもDNA分析というのは、本当にいろいろなことが分りますね。
佐藤 これだけじゃないんですよ。実は、大阪の池上曽根遺跡や奈良の唐古・鍵遺跡から出土した2200年以上前の弥生米のDNA分析を行なったところ、朝鮮半島には存在しない中国固有の水稲の品種が混ざっていることが分ったんです。
■
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中国から日本へ稲作が直接伝来した裏付けとなる
「RM1-b 遺伝子の分布と伝播」。日本の各所に点在するRM1-b遺伝子。
・中国では90品種を調べた結果、61品種に、RM1-b遺伝子を持つ稲が見付かったが、
・朝鮮半島では、55品種調べてもRM1-b遺伝子を持つ稲は見付からなかった。なお現在の日本に存在する稲の遺伝子は、RM1-a、RM1-b、RM1-cの3種類
■
──水稲でも、朝鮮半島経由ではない品種があったということですか?
佐藤 はい、これは稲が朝鮮半島を経由せずに直接日本に伝来したルートがあることを裏付ける証拠になります。
──確かに、有力な証拠ですね。
佐藤 求められるのはいつもそこですから(笑)。実際、柳田國男氏が「海上の道」と呼んだ、熱帯の島々から琉球列島を経て九州に達するといわれる道筋は、南西諸島に稲作跡がないのを理由に、物語としてしか扱われていなかったですからね。
──お話を伺って、縄文時代だけでなく、弥生時代のイメージも随分と変りそうです。
佐藤 余談になりますが、私は卑弥呼も弥生人ではなく縄文人だったのではないかと思っているんです。というのも、まず入れ墨をしていた、そして海に潜って魚を獲っていたというのが弥生人らしくないですよね。さらに、生姜やみょうがなどのハーブ類を食べなかったというのも気になります。生姜やみょうがというのは、中国大陸から伝来したものですから、渡来してきた弥生人が食べないはずがないんです。
──そういわれてみると、卑弥呼がお酒を飲んでいたという記述も気になりますね。
本日は、大胆な仮説の数々を大変楽しく伺わせていただきました。ところで、今後はどのような研究をお考えですか?
佐藤 日本中のいろいろな時代のいろいろな遺跡の稲のDNAを調べて、どこからどのルートでその遺跡に稲作が伝わってきたのかを調べたいですね。それにより、日本人のルーツさえも見えてくると思うんです。
これまでいくつかの新説を発表してきましたが、周囲からは最近「今度はあなたが追われる番ですよ」なんていわれているんです。覚悟しなければ!
──いやいや、今後も新しい発見を伺うのを楽しみにしております。本日はありがとうございました。
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