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まりあの一日 |
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帰ってきた頃は、体重が生まれた時の重さ位で、服はみんなぶかぶか、顔は青白く、目だけギョロッと大きく、目の周りは更に青かった。鳴き声も弱々しく、別の部屋に寝かしておくと鳴き声が聞こえず、少しドアを開けて置いたり、ちょくちょく見に行ったりした。
夜、一緒に寝ていても、息をしているか、苦しくはないかと気になり、何度も隣の顔をのぞき込んでいた。夜中、世間も寝静まり、しーんとしている中、
「ざっ、ざっ、ざっ、」
と何か兵隊が行進しているような音が、聞こえる。
「なんだろう?」
と思い、音の発信源を探すと、まりあだった。本人から30cmぐらい離れても雑音のかかった心音が聞こえるのだ。ちょっと不気味だった。
この頃、夜10時位からぐずりだし、ミルクが足らないのかと思い、追加すると飲み過ぎたらしく、顔が真っ青になり、がーっとその後沢山吐いたりする事が多かった。私はまだ母乳にこだわっており、母乳をあげ、体重を量り、足りない分ミルクを足した。ミルクを足すと、母乳も出なくなるので、寝る前だけなどにしていた。母乳は少しづつだが増えており、20、30、60と出るようにはなっていた。ミルクの飲み方は病院のようにいくらでもとは行かなくなり、80〜100ml飲むと、もういらないようだった。
体重は増えたり、減ったりしていた。
お風呂は夜、夫が入れていた。入院前はお風呂好きで、全然泣かなかったが、今度はかなり泣くようになり、慣れるまで時間がかかった。裸にすると、手術の傷がまだ痛々しく、左の側腹部から背中にかけ、15cm位の傷があり、まだ2、3カ所完全について居らず、心配だった。 |
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1月4日 |
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退院後初めてのJ医大受診。CTRは50%と良好だったが、体重の増えが少ないとの事で、
「母乳の役目はもう終わったので、ミルクを足して下さい。」
とK医師に言われ、ショックだったが仕方なかった。体重は3120gだった。退院し、殆ど増えていなかった。足の脈は良く触れているね、と言われ、一安心。インフルエンザも流行っており、小児科へ受診すること自体が命がけだった。
今日から、主人は仕事、長女も保育園となり、日中は二人になった。長女の時と違い、寝ると、4〜5時間寝ることもあり、寝ないでも心配、寝過ぎても心配して、なんだか馬鹿みたいと思った。
TVで、小猿のミイラになった、紙みたいな死体を、母猿が背中にヨイショと背負って、歩いて行くシーンがあった。母猿は高齢で、母乳が出ず、小猿は死んでしまったと言うことだった。それでも愛着は変わらず、そうして、いつまでもつれて歩いているのだと。現代にはミルクがあって良かったと思った。
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お祖父ちゃんの死 |
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私にも、夫にも、もう父が居なかった。だから、お祖父ちゃんと呼べる人は、唯一、夫の祖父だけであり、又、祖父も私や、長女(曾孫)をとてもかわいがってくれた。
まりあが生まれた日、元気そのものだったお祖父ちゃんは、
「疲れる。」
と言って、病院へ受診し、緊急入院になってしまった。末期ガンとのことだった。私はまりあの病院へそのまま付き添いになってしまったので、会いに行けなかったのだが、病床の身で、曾孫達にお年玉を準備したり、まりあにお祝いをくれたりして、気丈な人だった。がんばってきた、お祖父ちゃんも、1月8日、帰らぬ人になってしまった。
まりあが手術を乗り越え、家に帰れるようになったのも、お祖父ちゃんが代わりになってくれたように思えてならない。最後にまりあを見せてあげたかった。
ご冥福をお祈りします。
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私の決断 |
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私は、結婚し、長女を生んでからも、夫の協力もあり、7年間、仕事を続けていた。現在は産後休暇中であったが、この後の育児休暇をどうするのか、職場から催促があった。
長女の時は生後3ヶ月から保育園へ預けていたが、毎月熱でお休みは当然、一歳6ヶ月迄に2回肺炎で入院したりして、その度病室から出勤したり、遠くにいる私達の親に来てもらい何とか仕事を続けていた。
まず、まりあの場合は心室中隔欠損の手術が終わる迄は、保育園へ預けることは断念しなければならなかった。細菌性心内膜炎などになったら、命に関わるし、保育園がいまの状態で預かってくれるとはとても思えない。夫とも話し合い、私は退職することに決めた。育児休暇は職場復帰が第一条件だし、術後、すぐには保育園は無理であろう、私達も心配である。
一生仕事を続けるなどと偉そうに思っていたわけではないが、もう仕事は私の一部になっていて、辞めるとなると、私が無くなってしまうようで、とても寂しかった。事情が事情だけに上司も、反対せず、送別会も私の方から、お断りした。そんな精神的に余裕がなかったのである。今思えば、最後ぐらいみんなとゆっくり、話をすれば良かったカナとも思っている。 |
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退院後初めてのT医大受診 |
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この年は、香港A型インフルエンザが猛威を振るい、お年寄りや、子供が、死亡したりしていた。幸いにも家族にはインフルエンザは今のところお目見えせず、長女と私が鼻風邪を引いていたぐらいであった。
1月18日、久々のT医大で、少し緊張気味。T医師は、心電図も、良いし、CTRも49%で、体重も増えているので、順調だね、と言うことだった。
ラシックス、アルダクトンも5mgずつになり、一日一回になった。
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