世論


9月23日
デジャヴ

質量を感じる日差し。雲ひとつない空。そして陽気。 夏ですか?

久しぶりに近所のモールへ。
今日は車でいけました。(連れて行ってもらいました。)
唯一の移動手段、バイクで何処でも馳せ参じる僕にとっては異例です。

米国のモールは車で来るお客さんを前提にしています。
当たり前です。
モールに入っている店舗数からは想像できないほどのキャパシティをもつ、
だだっ広い駐車場を備えています。
尤も、ほとんどの人がモールの入口付近に駐車するので、
全体の3分の1は使われないわけですが。

モールに来る度に思うこと。
「同じだな〜。」
どこのモールに行っても入っている店舗が同じなのです。
置いている商品も同じ。
変な出店の種類も同じ。
客層も同じ。
匂いも同じ。

考えてみると、恐ろしい事です。
一生懸命探して、やっと見つけたお気に入りの一着。
次の日ルンルン気分で学校に着ていくと
クラスで一番の嫌われ者が同じ服を着ている。
これが実際起こりうるんです。高い確率で。

米国の店舗はこうした
「平民に対する戦略的物資供給」に非常に長けていると思うのです。
実際に米国で暮らしてみると、日本で想像していたよりお金が掛かります。
何かが取り立てて高いわけではありません。
全部中途半端な値段だから、なのです。

その根っこには、「選択の自由」の幅の違いがある、と思うのです。
日本はそれこそピンからキリまで多種多様な選択肢が取り揃えられています。
昼飯を300円で済まして、ホテルでフレンチフルコースのディナーも出来れば、
チョコレート菓子を買うときに、
ポッキーかコアラのマーチかパイの実かチョコあんパンかコロンで悩む事も出来ます。
値段に基づく選択肢と種類の基づく選択肢が織り成すハーモニー。

米国にはそんな甘美な響きはありません。
言うならば軍靴の音。
「選択の自由」といったら、通常サイズと徳用サイズの間にあるくらいのものです。

あるモノが欲しいと口にする。
問答無用でそのモノが突きつけられる。
「モノはある。嫌ならいいんだぜ。」
モノの対価としては不相応ながらも、その必要性から泣く泣く購入に至る。
まるで場末の武器ブローカーです。

つまりは、「買い物がし辛い」ということ。
少しでも安いところで買う、という日本の賢妻の知恵はココでは発揮できません。
どこで買っても同じ値段です。
多少安かったとしても、そこに移動する時間と経費を考慮すると、選択の余地はありません。
この構造が、消費者の購買好奇心を著しく低下させます。
あとは相手の思う壺。
深く考えず、「そこにあるもの」で間に合わせる、という習慣が生まれます。
その無関心は商品のアイデンティティの消失を許します。

その結果が現在の米国モール事情だと思うのです。
どこも似たり寄ったり。
オシャレという言葉を忘却した商品展開。
強気なお値段。
彼らに現状を変える気はありません。必要がないのです。
なぜか。
それは重要な「物資供給拠点」だからに他なりません。
西友やダイエーが嫌なら、ユニクロへ。
小洒落れたモノが欲しければ渋谷に行けばいい日本とは根本的に違います。
米国平民にはココしかないのです。

と、モールにまつわる妄言を並べてみましたが、今日はいい買い物が出来ました。
普段中途半端な価格設定をしているだけあって、セールの時は買い得感満点ですな。
特に閉店セール。
彼らのデタラメな商売も悪くないのかも知れません。ハイ。