Crevice#2
電車をいくつか乗り継ぐうちに車窓に海が見えかくれしはじめ、ビルにおおわれた都心の景色が平屋の立ち並ぶ風景にとって変わる。平屋といっても閑静な住宅街にあるような豪勢なものではなく、昭和30年代か40年代の県営住宅のような小さな家で、すぐそこに迫る海岸線と線路との間の狭い土地に連なる低い屋根が、海に落ちていく夕日と相まってどこかもの寂しい印象を与える。
港に近い駅で日比野は降りた。
沿線の、時を遡ったようにさびれた空間の中で、ここだけはいつもたくさんの人でにぎわっていた。駅から流れ出る人波はゆったりと、数カ月前にオープンしたばかりの海辺の公園へとむかっている。夕暮れになるとレトロな街灯にともるほんわりとした橙色の明かりが、ブリティッシュ・ガーデンを基本コンセプトにした緑の多い公園をやわらかく包み込む。庭園の所々にはイルミネーションのゲートが設けられていて、落ち着いた公園の雰囲気に華やかさを添える。まだ目新しいせいか、海風の冷たい1月だというのに体を寄せあったカップルが何組も見えた。
日比野はそんな光景を横目に、公園を抜けて港のはずれへと足早に向かう。
さざめきが遠くなり、護岸に打ちつける波音が耳につくようになった。
慣れた道のりだ。
初めてこのあたりをさまよったときは、世界の果てまでたどりついてしまったかのような茫漠とした寂しさにとらわれたが、今ではなんの感慨もない。
オレがあんなふうに誰かと腕を組んで歩いていたのはいったいいつのことだったろう、日比野はふと考えた。
(「あの公園ができたらさ、一緒に行きたいね?」)
すごいロマンチックだと思うな、きっと。
そう言って笑った彼女の声が、頭の中にこだまするようによみがえる。語尾を上げるようにしゃべるのがくせだった。学部が違うこともあって、去年の夏に別れてからは学内で姿を見かけることもない。このまま月日がたてば、どんな声をしていたかすらも忘れてしまうのだろう。記憶の中の面影が次第におぼろになってゆくのと同じように。
眠いと文句をたれつつ講義をうけて、ふらりとサークルに顔を出しては飲みにいって騒ぎ、彼女と遊んだり喧嘩したり、その合間にはバイトもして。少し前までは、そんなありふれた大学生活が日比野の日常だった。たまに深刻になるといってもせいぜいが恋愛沙汰で、くだらないことばかりだった。
けれど。
自分が毎日をあのころのようにすごすことは、もう二度とないのかもしれない。
(はなから飲みに行くどころの話じゃなかったってことか)
日比野はひとりごちた。
考えてみれば、「あの日」からまだ2ヶ月しか経っていない。それなのに、泥に足をとられるように、だんだんと深みにはまっていく自分を日比野は感じていた。
このままではいけない。
そう思う一方で、ここに来ることをやめられない。
脅されたのは確かだ。彼らに身元を知られてしまった以上、来なければ間違いなく殺されるだろう、最初はその恐怖の念だけにつきうごかされて、なにが行われるのか承知の上で、わざわざこんな港はずれに出向いていた。
だが、今はどうだ、・・・ 日比野の足どりがだんだんと重くなる。
先ほどまでの浮き立つような気分に急に罪悪感を覚える。
かつては夢にさえ思いつきもしなかったような非日常が、平凡だったはずの自分の毎日を侵食していく。いわゆる普通の世界とは、大学に行くことで辛うじて繋がっているだけだ。大学という枷がなくなれば、簡単にあちら側の世界に堕ちていってしまいそうな気がする。
(けど、学校に行ってたって誰とも関わらないんなら同じことだよな)
ないも同然の枷。
自分はすでに「あちら側」の人間なのか?
そんな疑問を振り払うように、日比野は頭を振った。
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