■■畸型楽園 IV:小動物 ■■







 
庭先には、午後のやわらかな日差しがみちていた。
時折風が吹いて窓硝子をやさしく揺らし、障子がはたはたと音をたてる。
白木蓮の花はひかりを受けて、ぼんぼりに灯りをともしたようだ。石組みだけの無骨な庭も、はなやかであたたかくみえる。
僕は縁側にごろりと寝転がったまま、ぼんやりと庭を眺めていた。
平日の昼下がりは通りを走る車も道ゆく人もなく、うそ寒いほどに静かで、日差しの穏やかさだけがこの胸を刺す。

毎年のこととはいいながら、今年もこの1週間はひどく忙しかった。
卒業式に学部の謝恩会、ゼミの打ち上げと行事が続き、隣の講座の打ち上げにまで呼ばれたりしたが、昨日でようやくすべてが終わった。
これでどうにか春休みらしく、ひと息つけるというものだ。
もっとも、明日からはまた忙しい日々が始まる。
4月に入ったらすぐに、教授になってはじめての留学に出ることになっている。そろそろ準備を再開しなくては、いいかげん間に合わないだろう。1年間の留学の間、この家を預ける相手にも会っておかなくてはならない。

ゆっくりできる日は今日くらいしかないというのに、酒がのこって頭が重い。
なんとなく胃のあたりも痛い。
連日出歩いて、飲んでばかりいたから、また熱でも出ているのかもしれない。
このところ、めっきり体が弱くなったようだ。留学を前にしてこれでは、なんとも先が思いやられる。
とりあえず体温でも測っておこうかと思ったが、面倒で起きる気がしない。
これが研究室なら、院生たちが文句を言いながらも心配してくれるのだろうが。
そう思ったとたん、自分以外の誰の姿もなく誰の声もしない、ひっそりとしたこの家の静けさにぞくりとした。
さして広くもない家の中はしんと静まりかえって、ことり、とも物音がしない。
僕は、知らず、息をつめ、窺うように奥に目をやった。

この家から生活の音が消えて、どのくらいになるだろう。
別居を幾度となく繰り返し、ついに僕に愛想をつかして出ていった彼女。
結婚する以上はうまくやっていこうと思っていた。あんなふうに別れてしまうことを望んでいたわけではない。
だが、彼女と一緒にいると、僕に人並みの愛情が欠けているのか、それとも彼女の愛情が過多にすぎるのか、それがよくわからなくなっていらいらした。
彼女だけじゃない。
女の感情は僕にはいつでも重たい。

もう、顔も声もおぼろにしか思い出せないのだと白状すれば、彼女は怒るだろうか。
それとも、そんなものだろうと諦めるだろうか。

かつて鏡台があり、たんすがあったその場所は、光もとどかず、ただの暗がりになっていた。
 

* * * * *
 

毎年、学生たちを送り出したあとはなんともいえない淋しさが心を覆う。
大学にひとり取り残されるような、そんな気分に襲われて、無性に叫びたくなる。
春が希望の季節だったのは、前世みたいに遠い昔のことだ。
空気がぬるんで色とりどりの花が咲き、そして、永遠に変わらないかのようなこの日常がまた延々と続いていくだけ。

僕は溜め息を吐いた。

いま思えば、自分の学生時代はなんと愚かしかったか。
分もわきまえずにやみくもにあちこち突き進んでは、人と衝突した。
そのうえ哲学癖のあった僕は、議論をしたいばかりに言いがかりのような問題をつきつけて、相手を言い負かして得意になっていた。僕にとっては議論の内容にはあまり意味がなくて、議論という言語を駆使したゲームの勝ち負けが重要なのだった。
大概の人間を言いくるめることができる自分に僕はすっかりうぬぼれていたが、僕の言葉がどれほどの人をざっくりと切り裂いたか、考えるのも空恐ろしい。
バイトに飽きて収入がなくなれば、友人の家にころがりこんだ。
女の世話になるのはさすがに避けたが、いつのまにか自分のアパートに女が住みついていることはよくあった。来てしまったものはしようがない、などと自分に言い訳をしながら、彼女たちと自堕落な日々を送った。それがあのころの僕の日常。

やりたいことが見つからない。やりたいことが分からない。
かつての僕の口癖だった。
人生に焦っていたのだ。歩いても歩いても、行く先になにも見えてこない。
振りかえっても過去の自分が間抜けな姿をさらしているだけ。
なのに、気がつけばいつのまにか研究室に残るはめになり、教壇に立つようになり、学生たちに居眠りされながらも毎日の講義をこなしている。それが僕の今。

これは僕の望んでいた生活なのだろうか。
そういうばかげた考えが頭をよぎるときもあるが、結果的にこうなっている以上、これが僕の望んだことなのだろう。
なんにせよ、ものごとは深く考えないに限る。
仕事以外の場面で考えごとなんかしていたら、この長すぎる人生をのりきれそうにない。
 

* * * * *
 

鴬の声を聞いたような気がした。
いつのまにかうとうとしていたらしい。僕は体を起こして、庭先を見やった。
白木蓮に目をやり、隅にある梅の木に視線をうつす。
案の定、ちいさな緑褐色の鳥はそこにいた。枝から枝へと気忙しげに飛びうつり、しきりに高い声で鳴いている。

−鶯はね、「うめにきてなく」というんですよ、

唐突にこの間の言葉がよみがえった。
うちに遊びに来た国文の助教授がそう言ったのだ。

彼とは前任校が同じだったこともあり、学部が別であるにもかかわらず、よく一緒に出歩いている。
聞き上手な彼といるのはかなり気が楽で、彼を相手に喋りながら論文の構想を組み立てることもある。
たまに昔の癖がでて議論をふっかけてみても、面白そうな顔でつきあってくれる。
しばらく一緒に出かけたりするうちに彼が高校の後輩でもあることが分かったが、そのせいか、彼は勝手に僕に親しみを覚えて、家にまで遊びに来ることがしばしばになった。
彼の来訪は確かに頻繁すぎるが、さほど煩わしいと思ったことはない。
来たからといって特にかまってやらなくても、文句も言わないのだから、こちらにしても楽なものだ。

その彼が、この間はめずらしくも手土産を持参してきた。
僕が留学に行く間この家を賃貸に出そうとしていること知って、自分に貸してほしい、というのだった。

「この庭、すてきですよね」
勝手知ったる人の家、という感じで、縁側の窓を開けて庭におりた彼は、隅に植えられた梅の木に目をやりながら、いかにも感心したように呟いた。
「特にあの梅が、ね。小さいながらも枝振りがみごとだ」
「ああ、あの紅梅。花の時期は離れていてもいい香りがするよ」
「でしょうね、・・・ところで、ご存知ですか。鶯は"うめにきてなく"んですよ」
意味をつかみかねて黙った僕に彼は微笑した。
「かけことばですよ、」
わかりませんでしたか?
庭先から僕を振りかえって愉しそうに笑った彼の表情には見覚えがあって、僕は少し身構えた。
彼がこういう顔つきをしたときに、いい思いをしたことはほとんどないのだ。
彼はいつも、僕にろくなことを教えない。
鶯がまた、一声高く鳴いた。

こんなに柔らかくて暖かな春の光の降り注ぐなか、いったいお前はなにを埋めに来たというのだろう。
お前の声はどうして、そんなに哀しく聞こえるのだろう。それなのに、とても透明で明るい。
そう、まるでこの春の日差しのように。

−お前はいつもくだらないことばかり、私に教えるんだな、
僕はいささかむっとしていた。
彼がご丁寧にかけことばの解説をしてくれたおかげで、春を告げるちいさな鳥は、僕の中で急に不吉なイメージをまとうようになった。
彼は、心外な、と肩を竦めたが、さらにろくでもない言葉を続けた。
−案外、梅の木の下にはなにかが埋まっているのかもしれませんね、
 

* * * * *
 

僕はいつしか眠りに落ちたらしかった。
目が覚めるとすべては赤い霧のなかにあって、混沌としていた。
縁側も庭も、梅の木も、ない。
赤い空間のなかに僕が浮かんでいる、それだけだった。

まだ夢をみているのか。
そう思ったとき、霧の向こうでなにか黒いものが動いたように見えた。
僕は目を凝らしてみた。
黒いものは群れをなしてこちらへとやってくる。
「おかあさん、・・・おかあさん、・・・・・・」
赤ん坊だった。
異様な風体をしている。頭だけがやけに大きく、蒼ざめて黒ずんだ肌をした彼らは、すすり泣いて僕にまとわりついた。
気味が、悪い。
振り払おうとしたが無駄だった。払っても払っても、赤ん坊たちはかわるがわる僕にしがみついてくる。
ぬらぬらと魚めいた肌の感触の不気味さ、おぞましさに僕は気も狂わんばかりだった。
はやく目が覚めればいいのに、この悪夢はなかなか僕を解放してくれない。

表で扉を叩く音がする。
誰か来たのだ、はやく目を覚まさなくては。
起きて出て行かなくては。

なのに、夢は終わる気配がない。
・・・あの音は、現実の音なのだろうか。誰かがそこにいて扉を叩いている、これは正しい感覚なのだろうか。
僕がいるここは、本当に夢なのだろうか。
そのうち、あることに気がついた。
僕にしがみつく赤ん坊たちは皆、コピーでもしたかのように同じ顔、同じ体をしているのだ。
その顔に、見知った女の面影を見出して、僕はぎょっとした。
若いころの怠惰な日々、あだな楽しみをともにした年上の女の、顔。

−こどもができたみたいなの。
切り札のように告げた彼女に、僕はなんと言っただろう。
やりたいこともみつからないのに? やりたいこともわからないのに?
こんなことで僕はあんたにつかまるわけ?
僕の言葉に彼女はなんと言っただろう。どんな顔をしただろう。

赤ん坊の面上に現れた女の印象は、だが、みるみる変わり、別の顔が現れた。
僕の、顔?・・・・・・
もしや。
思わず手を口に当てた僕を見て、赤ん坊たちがにやりと薄く笑んだ。目がぎらりと光を放つ。
たくさんいた赤ん坊たちは、すうっと重なり、やがて一人になった。
「忘れたなんて、いわせないよ」
彼は僕の首めがけて飛びついてきて、力任せにぎりぎりと締め上げた。

扉を叩くのにも似た音がしている。
どしんどしん、という振動が伝わってくる。
「先輩、いらっしゃらないんですか?!」
僕を呼ぶ声も、聞こえるような気がする。

僕の目を見据えて、赤ん坊が笑った。
締め上げる彼の力はさらに増したようだった。僕の腕はもう彼を振り払うほどの力も入らず、だらりと下に垂れるばかりだった。
・・・・・・すっかり忘れていた。
彼は紛れもない、僕の子どもだった。
中絶されて生まれてくることのできなかった、僕の、・・・・・・


fin  99/05/10