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■ 畸型楽園 V: 逝く日 |
「あ、起きた、よかったわ」
僕の顔を覗き込んで彼女はそう言った。
「なに。こんな夜中に」
思い切り不機嫌な声を出してやる。
朝早くに起こされるのも嫌いだが、寝入りばなに起こされるのはもっと嫌いだ。
むっとしたまま、僕は背の高い彼女を睨みあげた。
「そんな顔しないで。悪かったわ、こんな時間に起こして」
わかってるなら結構だ。
まったくなんだっていうんだろう、
こんな時間に起こすなんて。
けれど見上げた彼女の顔はふだんと変わらず、
なにか切迫した事態があるとも思えない。
いや、どちらかといえば浮かれている、のだろうか。
妙に嬉しそうに笑っている。
なにが楽しいのかは知らないが、彼女はどうも僕に気安すぎる。
小さい頃から一緒に育ったせいもあるのだろうけれど、
ここはやはり説教のひとつくらいしておいたほうがいいか、
そう思って口を開いたときだった。
彼女はさらりと告げた。
「でも、お別れだから」
「・・・は?」
僕は言われたことが分からず、間抜けな声を出した。
お別れ。
たしかにそう聞こえた。
「どういうこと」
聞き返すと、彼女は笑顔のまま涙をはらりと落とした。
その表情に僕はどきりとした。
だがそんな僕の戸惑いをどう受け取ったのか、
彼女はちいさな子どもにするみたいなやさしい笑みを返した。
「みんなとお別れなの。今日は風が吹いているからちょうどいいわ」
話が見えない。なんでお別れなんだ?
それもこんな夜中に。
まさか。
「自殺するつもりかい」
彼女が、こくり、と頷いた。
そうして顔を俯けた。
僕に泣き顔を見せまいとするかのように。
眠気も寒さも一度に吹き飛んだ。
最初に思ったのは、
なにをばかなことを考えているのだろう、ということ。
僕は彼女をまじまじと見つめた。
この庭で一番きれいな椿。
いや、梅よりもれんぎょうよりもつつじよりも。
遅い春を豪奢に彩る八重桜よりも。
誰よりもきれいな、椿。
それが彼女。
僕と彼女は隣り合って植えられていて、兄妹みたいなものだった。
僕は、椿に比べればあまりぱっとしない雪柳ではあるけれど。
彼女より一足早く花をつけだした僕を見て、いつもいつも羨ましそうにしていた。
去年、ようやく彼女は花をつけた。
艶やかで大きな紅い花。
僕はその姿にぼうっと見とれたものだった。
「理由が、わからないね」
僕の声は震えていたかもしれない。
彼女は困ったような顔で首を少しかしげた。
「ずっと一緒だったんだ、そのくらいは教えてくれるんだろう?」
「うん、・・・」
涙がまたはらりと落ちた。
誰かになにかされたのだろうか。それともなにか言われたのだろうか。
死にたくなるほどのなにかを?
「私の姉さん、憶えてる?」
彼女はしばらくの沈黙の後に小さく聞いた。
憶えてるもなにも。
この庭の木々の中で一番美しくって、優しくって、気高くって、
ああいうのを真の貴婦人というのだ、と雀たちがよく噂していた。
僕だって、憧れの目で彼女を見ていた。
急な病で亡くなってから数年が経つけれど、その姿はまだ鮮やかに僕の脳裏に残ってる。
「残念だったね、急なことで」
「そうね、気づいたときにはもう手後れで。
花も、みんなすぐに黄色く枯れてしまったわ」
鈍感な僕はあの時、単に体調がすぐれないのかとしか思わなかった。
けれど本当はそうじゃなかった。
「私、見ていてかわいそうだった。なのにね、」
咲くそばから枯れていく花を見て、この家の人は何を言った?
思い出すだけでも腹が立つ。
そう、今でも。
−汚らしいわね、もうだめなのかしら、切っちゃう?
「だって、姉さんは。これが最後だと思って精いっぱい花を咲かせようとしたのに!・・・」
うん。そうだよね、
君から聞いてあの憧れの貴婦人が死病におかされていることを知った。
残された時間でせめて一瞬でもいい、きれいな花を咲かせて。
そう願った貴婦人の思いも、人間には通じなかったんだ。
汚らしい、だってさ。
あの時はこたえた。盛りのときを過ぎたら、きっと僕も用済み。
少しでも病の兆候を見せれば、貴婦人のように切られておしまい。
かつて貴婦人がしとやかに立っていた場所には、きんもくせいがいる。
年甲斐もなく派手な格好をした、香りのきつい女だ。
あれを見ているといらついてしようがない。
いつもふてくされていて、僕らにはろくに挨拶をしたためしがない。
そのくせあの香りでしっかりと自己の存在を主張しているのだ。
ほんとうに、鬱陶しい。
「それでね、私もどうせなら若いうちに死んじゃおうかと思って」
「・・・だからって! 気持ちはわからないでもないけどさ」
まだお前は花をつけたばかりだろう、まだ十分に生きていないだろう!
そう言いたかったのに。
彼女の落ち着いた口調が僕の言葉を遮った。
「馬鹿みたいなんだけどね。少しでも私のこと、かなしんでほしいの。」
まだ若くて美しいうちに死んでしまえば、
ひとの記憶にきれいなままで残ることができるでしょう?
彼女はそういって微かに笑った。
ああ、そうか。
君は人間が好きなんだ。
僕は彼らを好きだと思ったことはないけれど、
でも、君は彼らのために死ぬんだね。
醜い姿を見られたくないから?
少しでも自分を愛してほしいから?
優しく微笑む彼女に、僕は言葉をなくした。
「それがお前の意志なの」
それしか言えなかった。
止めたくても止められない。
彼女は逝くことを決めてしまったのだ、
そう感じ取ったから。
僕を見つめていた彼女のまなざしから柔らかさが消え、
ふいに真剣な色を宿した。
「そう、・・・ずうっと考えてたの。あの日からずうっと」
決めたのよ、
彼女は呟いた。
他の誰からもばからしいといわれるだろうけれど。
でもこれが私の選択だから。
半分は復讐。半分は祈り。
あわただしい日常、他者とせめぎあう日々の中で、
どれほどひどいことをしていようと。
どれほどひどいことを言ってしまっても。
それはきっと本意ではない。
本当は、心の奥底の奥底には、一欠けらの優しさが眠っているのだと。
彼女はちょっと言葉を詰まらせた。
いままで、ありがとう。
とても幸福そうに言う彼女に僕はただ首を振った。
告げる言葉もなにも浮かんではこなかった。
いつのまにか冷え冷えとした強風はやみ、
雲の切れ間から、海の底で輝く真珠のような白い月が顔を覗かせている。
夜風が誘うようにやわらかに吹いてくる。
彼女は空を見上げた。それから僕を見た。
お別れのときが来たんだね。
「さよなら」
それだけ言うのがやっとだった。
行くな、と言いたかった。
泣いて、叫んで、そうして彼女を引き止められるのなら、
僕はきっとそうしていただろう。
彼女は頷いた、そうして
「本当に今までありがとう、あなたの凛とした姿、好きだった」
優しく僕に触れたかと思うと、風が少し強くなり、
彼女はひとひらずつ、散っていった。
紅い花吹雪に視界が閉ざされ、僕は酔ったようにその光景に見入っていた。
死ぬときでさえ、君はこんなに美しいなんて。
もう、会えない君。
哀しくて、すごく哀しくて、僕は君の名前を呼んでみた。
哀しいよ、でも少し羨ましい気もする。
残されるもののことも考えないでいってしまった君はひどく正直だ。
花は全部散ってしまった。
椿は静かに死んでいった。
僕は自分の足元に、君のかけらが落ちているのを見つけた。
紅い花のひとひら。
「死ぬことなんて、なかったじゃないか、・・・・・」
涙が落ちるのを、僕は止めることができなかった。
眠れないままに朝が来た。
家人は庭を見て、椿が死んだことに気づいたらしい。声が聞こえる。
−まあ、椿が散ってしまっているわ
−昨日の風にやられたのかな、かわいそうに
−本当にねえ。まだ咲いていくらもしていないのよ?
僕はうつろに彼らをみやった。
庭に下りてきて椿を取り囲み、花を散らしきったその枝に触れている。
よかった、みんな君の死を悼んでいる。君の望みどおり、・・・
−父さんも母さんもちがうよ、
後ろからひょいと顔を覗かせて、まだ小さな男の子が口をはさんだ、
−あのね、椿はね、前の椿みたいに捨てられたくなかったんだよ、
風のせいじゃないんだよ
一生懸命に訴えるその声。
僕は目をみはった。
両親は不思議そうにこどもをみやる。
よかったね、
本当によかったね、
君の心を分かってくれる人がいて。
僕は少し、羨ましかった。