セイシュン・フイルム。
 
 

【Cut 3】
 



 
 
 
 

指の皮がむけた。

左手の人差し指なんて、つめの脇ががさがさだ。
ホルンを構えると左手が目の前に来るのでいやでも荒れた指先が目についてしまうけれど、でもそれって、へたくそでも自分がいちおうベース弾きの端くれだっていう証拠みたいで嬉しい。
 
 

「ベース始めたって?」
 

トロンボーンの中北先輩が練習中に声をかけてきた。

ほかの先輩がたは5月の定期演奏会で引退したのに、なぜかこの人は残った。
毎年秋にやっている部内の合奏コンテストまでがんばるつもりらしい。トロンボーン・パートの3冠を狙っているようだが、ボーンはかなりの実力者がここ数代続いているうえに、練習大好きの集まりときてるから、そんなに息巻かなくても余裕で優勝できると思うんだけど。

しかし、こんなことやってて受験勉強は大丈夫なんだろうか???
 

「はあ、まあ」
 

この人の前ではいつまでたっても間抜けな受け答えしかできない。
色白でねこっ毛の先輩はほんわかした人だが美人なので、話すと緊張する。
頼むからそんなに近くに来ないでくださいよ!
 

「名前、つけた?」
「・・・は?」
「楽器の名前だよ」
 

ああ、楽器の名前ね、・・・
ん? なんで楽器に名前? ペットじゃあるまいし。
怪訝な顔をした自分にかまわず、先輩は続けた。
 

「オレなんかね〜、この子を買ったときにすぐ名前付けたんだ」
 

この子。
彼が手にした指揮棒のことだ。

中北先輩はこの5月まで指揮者を兼務していた。

各学年にひとりずついる学生指揮者は、部員の投票で選ばれる。
1年生の6月に選ばれて3年生の5月で引退するまで、学生指揮者に部のふだんの練習を任せるのだから、考えるまでもなく重要なポジションだ。
新入部員全員に実際に曲を指揮させてみてそれで投票するのだけれど、先輩の場合、見栄えがするという理由で投票した人が多かったらしい。なにしろ、ぼーっと突っ立っていても十分にきれいで人目をひくのだ。

入部した当初、「こんなぼんやりした人が指揮者で大丈夫なのか?」などと思ったものだけど、驚いたことにふだんのおっとりした表情が、指揮台に立ったとたんきりっと引き締まり、鋭い目つきで全員を見渡してくる。曲の要所要所で、それぞれのパートに目線を送ってくる。
あの目は忘れられない。
自分はこの人の指揮にどれだけこたえられたろう。
いつも一生懸命ついていっていたつもりだけど。

ぴん!

なにかが頬にあたった。

「人の話、聞いてる?」

先輩は嬉しそうな顔をして、指揮棒の先をしならせた。
あれではじかれたのか。

「聞いてますよ、ひどいなあ」

だから寄ってこないで下さいって!

そういえば名前がどうこうって話、前に聞いたような、・・・
なんだっけ、ミホちゃんとか呼んでたっけ。
いつでも指揮棒を持ち歩けるように、学ランの裏地にポケットを作りつけたくらいだ。よほど、気に入っているらしい。
 

「名前は付けたほうがいいよ〜、愛着がわくからね〜」
 

先輩はのんびりとそう忠告をくれて立ち去っていった。

愛着、ねえ。
名前なんて付けないでもとっくに愛着感じてるんだけどな。
 
 

その後の練習中、気が付くと名前を考えている自分がいた。

が、その後でなにげに気づいてしまった。
先輩、自分のトロンボーンには名前、つけてないぞ。
 
 
 
 


[ top ]
[ bookshelf's top ]