残影の街で:扉
もう忘れたつもりでも、足が憶えていた。暇をもてあました日曜の午後。
歩行者天国をはしからはしまで歩き、大道芸人たちのパフォーマンスも見飽きて、それでも友人との待ち合わせの時間にはまだ1時間とちょっとあった。
しかたがない。どこかでやすんでいこう。
僕は大通りをはずれた。
細い路地を幾度かまがると、路上に置かれた黒地の小さな看板が目に入る。
看板には、チョークで無造作に描かれた店の名前とコーヒーカップの絵。
珈琲がうりもののこの店は、何年も前、彼女との待ち合わせによく使った店だった。
彼女と別れてからは、来たこともなかった。
この街にくるような用事がなかった、なんていうのはただの言い訳で、毎週のようにふたりで来ていた店にひとりで入るのはなんとなく気がひけたのだ。
今も、入り口を前にしてためらっている。けれど、次の瞬間、僕は木の階段をおりていた。
古ぼけた階段が、きい、と軋む。
開け放した扉からもれるさざめき。やわらかな灯火。
案内されて席につくと、時を溯ったような気がした。
いまにも彼女があらわれそうな、そう、いつものあの笑顔で「遅れてごめんね」といってあらわれそうな、そんな気さえした。僕はここで、本を読みながら彼女を待っているだけなのだ、と。カプチーノの香りが鼻をくすぐる。ひと口飲んで、泡立つクリームをシナモンでかきまぜる。
いったい僕らはいつから、どこからすれちがってしまったのだろう。
彼女のことはまだ、喉に刺さった小骨のように、僕の胸に不愉快で鋭い爪をたてていた。ふり払おうにも、ふり払えない。あれからだいぶ経つというのに。独占欲と不安は紙一重だ。
ことばとして知っていたこの事実を、僕は自分のこととしてはじめて理解した。
不幸なことに、僕は彼女ほど恋に慣れていたわけではなかった。
彼女に振りまわされるのが楽しいと思えたのも最初のうちだけで。Alas, my love! Ye do me wrong店内を流れるグリーンスリーヴズは人々の声にかき消されがちだったが、僕の耳にはいやにはっきりときこえた。
To cast me off discourteously!
For I have loved you so long
Delighting in your company,......私のいとしいひと、あなたはつれない、僕たちは、すれちがったのではなかったのかもしれない。
心変わりして私を見捨てた、
私はこんなにもあなたを愛していたのに、よろこびをともにと思ったのに、・・・・・・
最初から、見ている先が違っただけなのかもしれない。
今となってはどうしようもないことで、どうでもいいことのはずなのに、どうして僕だけがいつまでもこだわりつづけるのだろう。彼女が今、どうしているかなど、僕は知らない。
あえて消息は聞かなかったし、周りも僕に知らせようとはしなかった。
だから彼女のことはなんにも知らないけれど、それでも彼女が僕とのことなどすぐに過去に葬り去ったぐらいは想像がつく。
そしてそれは、この先僕が彼女を忘れる日がくることより、確実性の高いことだった。・・・彼女の不幸せを願ったことは夢にもないけれど、だからといって幸せを願ってやれるほど、僕は自分を欺くすべを心得ていない。
狭量だといわれればそれまでだけれど。
べつに彼女が幸せでも幸せでなくても、本当はかまわないのだ。だって、僕にはもう関係がないのだから。
それだけなのだから。幻の君の笑い声が隣の女性客の声にかさなる。
関係のなくなったことを唯一の絆にして、僕はいつまで自分を縛りつづけるのだろう。
僕はカップの中身を乾して店を出た。
最後のひと口が、少し苦かった。