2008 shelf 1
著者名 タイトル 出版社 20 太宰治 津軽 未知谷 19 伊井直行 雷山からの下山 新潮社 18 須賀敦子 トリエステの坂道 白水uブックス 17 イタロ・カルヴィーノ まっぷたつの子爵 晶文社 16 アラスター・グレイ ラナーク 四巻からなる伝記 国書刊行会 15 伊井直行 三月生まれ 講談社 14 伊井直行 ジャンナ 朝日新聞社 13 柴田哲孝 下山事件最後の証言 完全版 祥伝社文庫 12 ガルシア=マルケス 我が悲しき娼婦たちの思い出 新潮社 11 伊井直行 草のかんむり 講談社文庫 10 野呂邦暢 愛についてのデッサン 佐古啓介の旅 みすず書房 9 シオドア・スタージョン [ウィジェット]と[ワジェット]とボフ 河出書房新社 8 伊井直行 星の見えない夜 講談社 7 古川日出男 ゴッドスター 新潮社 6 スティーブン・ミルハウザー 三つの小さな王国 白水社 5 真保裕一 最愛 新潮社 4 恒川光太郎 秋の牢獄 角川書店 3 コニー・ウィリス ドゥームズデイ・ブック(上・下) ハヤカワ文庫SF 2 江坂遊 仕掛け花火 講談社NOVELS 1 ドストエフスキー 地下室の手記 光文社古典新訳文庫
地下室の手記(2007.12.3)
ドストエフスキー/安岡治子・訳 光文社古典新訳文庫
自意識過剰が原因で地下室に引きこもってしまった元小官吏の告白。読めども読めども進まない独白、独白、独白。彼が引きこもってしまった原因は何だったのか。立ち現れてくる過剰な自意識とコミュニケーション不全は今の時代にも十分通用する、というよりはむしろ今の時代にこそふさわしいのではないかと言えるほど。
この男の告白をを滑稽と取るか「俺のことだ!」と頭を抱えるかは読者を二分するところだと思うのだけれど、基本的に読書なんかしてる人間は後者に偏りがちな気がする(笑)。わたしは「人間失格」に中学生の頃激しくイタイところを突かれた人間なので(笑)、これもその頃読んでいたらのたうち回っていた可能性はかなり高い。物語は二部に分かれていて、前半は主人公の独白、後半は彼が地下室に引きこもるまでの経緯。読み物としては第二部の方がちゃんとストーリーがあって読みやすいんだけれども、個人的にはそんな意味でも第一部の方が好きかも。
主人公の言ってることはいちいち結構正論というか、的を射ている。「すべてが計算で動くようになってしまったら自由意志はどうなるのか」みたいな話とか。非常に頷けるし、そのとおりだよねうんうん、ということをダラダラ話しているわけなんだけど、でも何故こんなに主人公は嫌われるのか(わたしもかなりキライ/笑)。
自分が一番大事だからかなあ。
それとも屁理屈ばっかりこねるからか。
今流行のKY(空気読めない)だからか(笑)。
19世紀の話とは言え、こういう人間は今の日本には溢れている感じ。口だけ達者なひきこもりニート、みたい(いやこの主人公は遺産とは言え自分で生活しているからニートよりはましか?)。言ってることはわりと正しいのに社会からはみ出てしまう。第二部で彼はひとりの娼婦と知り合うのだけれど、ツンデレもまあいいけど(笑)彼女に与える仕打ちはスゴイ。結局傷つけることに鈍感で傷つくことにだけ敏感、ということなんだろうか。少なくとも彼が浮いてしまう原因は「賢すぎるから」ではないような気がする。
今回は古典新訳文庫で読んだのだけれど、いま流行りの新訳を読むのはこれが初めて。たしかに読みやすかった(新潮を読み比べていないので確かなことは言えないけれど)。でも文章に古さを感じないとか、妙に読みやすいとむしろ第一部なんかは頭の外側を内容が上滑りしていくのかもしれない。実際わたしは第一部は上滑りしまくって何度読み返したかしれない(苦笑)。
訳の古さって一概に悪いことなのかな?ということもちょっとつらつら考えた。翻訳は何度でも訳し直せるけれど、ちょっと昔の文体の本を(それこそ漱石とか)読みやすく新訳で!とかありえないわけで。その文体の味わいってあると思う。まあだからといって誰しも古典を原文で読める訳じゃないので、本当に古語になってしまうとほとんど外国語のようなものだから、訳には意義があるとは思うのだけれど(源氏の読み比べとか楽しいし♪)。
とりあえず、近いうちに新潮文庫版もぜひ、読み比べてみたい。
仕掛け花火(2007.12.9)
江坂遊 講談社NOVELS
最相葉月『星新一 一〇〇一話をつくった人』の中で、星新一の後継者として登場していた江坂遊。
なんとも独特な作品が39篇。星新一のショートショートは無機質というか硬質で無臭な感じがするけれど、この作者のショートショートには懐かしさ、土臭さ、そんなものが溢れている。恒川光太郎がショートショートを書いたらこんな感じかも。どれもこれも色合いが違う作品がぎゅっと集められている様は、まさに打ち上げ花火を見ているよう。次々に打ち上げられていく色とりどりの花火。パッと弾けて夜空に溶けて、かと思うと違う趣向の花火がまたドカーン。すべての花火が打ち上げ終わって、何もかも夜空に消えてしまった後で、見物客の心の中にはそれぞれの余韻がいつまでも後を引く。
ちょっとゾッとするような話やブラックユーモアはわりとショートショートの得意なところだと思うんだけれど、関西弁での掛け合い漫才みたいなやりとりが出てきたり、なんだか心がほっこりするような話がそういうゾワッの後にやってきたりするのがまた楽しかったわ。
個人的に好きだったのは冒頭の「猫かつぎ」、「月光酒盛り」、「ある日の妻」、「箱娘」、「星の数ほど」、「児童販売機」、そしてそして、やっぱりなんといっても「花火」だなあ。
(収録作:「猫かつぎ」、「臨時列車」、「鏡の女」、「マッチ棒」、「かげ草」、「月光酒盛り」、「虹細工」、
「夜釣りをする女」、「背中」、「骨猫」、「夢ねんど」、「会議中」、「占う天秤」、
「ある日の妻」、「新しい店」、「夢の木」、「耳飾り」、「おかげさま」、「我が家遠く」、「踊る男」、
「棟梁」、「眠りにつく前に」、「箱娘」、「冬の同居人」、「開いた窓」、「星の数ほど」、「地下鉄御堂筋線」、
「たまご売り」、「温かい椅子」、「自転車」、「月光剣」、「あるお土産」、「廃線区間」、「二人のテレビ」、
「秋」、「赤い街」、「児童販売機」、「ある夜のメニュー」、「花火」)
ドゥームズデイ・ブック(上・下)(2007.12.14)
コニー・ウィリス/大森望・訳 ハヤカワ文庫SF
圧倒的な力を感じる作品だった。
時間跳躍が技術として確立されている未来。人間は過去の希望する時点へ跳躍することが出来るが、ネット理論はパラドックスを許さず、歴史を改変するようなできごとは論理的に起こすことが出来ない。時代は危険度によって10段階に区別され、ダンワーシィの教え子キヴリンは、危険度10と設定され時間跳躍が禁止されている中世への跳躍を強く望んでいた。ダンワーシィの強い反対にもかかわらず、大学長不在の間に自分の足場を強くしておこうというギルクリスト教授の野心の下、キヴリンの中世への時間跳躍が実施される。すべてはうまくいくはずだったが、キヴリンが消えてすぐに時間跳躍に重要な関わりを持っていた技師が原因不明の高熱に倒れ、キヴリン自身も中世で病に倒れる。キヴリンは無事に設定された時代へ跳ぶことが出来たのか。技師の病の原因は何か。二つの時代で病は人々を席巻する…。
正直、前半はかなり物語の展開が遅く、なかなか読み進められなかったんだけれど、中盤に入ってからはもう一気読み。まさに巻置くあたわず。ダンワーシィの時代のドタバタとキヴリンの時代の重々しさ。喜劇の中に悲劇が潜み、悲劇の中に喜劇が潜む。後半のキヴリンの村を遅う悲劇は読者の胸を詰まらせる。改編できない歴史を目の当たりにさせられるキヴリンの苦しみ。
主役であるダンワーシィとキヴリンよりも、周囲の人たちがすごく魅力的なキャラクターで、だからこそ物語がものすごく盛り上がる。
憎たらしいギルクリスト、ナマイキだけどフットワークが軽いコリン少年、女は誰であろうと籠絡してしまうウィリアム、そして彼の恐ろしい母親、アメリカから招かれたベル演奏者達。
おしゃべりでわがままで無邪気なアグネス、大人びてはいるけれどまだ子供のロザムント、冷静な二人の母親に頑固者の姑。
そして誰一人区別することのない病。
コニー・ウィリスってすごい。
他の作品ももっと読もう!
秋の牢獄(2007.12.15)
恒川光太郎 角川書店
3つの「牢獄」を描いた恒川光太郎の短篇集。
表題作の「秋の牢獄」は、ある日を堺に同じ一日を繰り返すことになった女子大生のお話。孤独に震え呆然としていた彼女はやがて同じ境遇の「リプレイヤー」たちを見つけるが…。
こういう設定のSFはけっこうあるみたいだけれど(ちなみにわたしはいつも佐々木淳子の「霧ではじまる日」を思い浮かべてしまう。初めて佐々木淳子に出会った衝撃的なマンガだったわ)、恒川光太郎が描くとこうなるのねー。北風伯爵、というネーミングはちょっとヒいたけれど(苦笑)、閉じた中でのリプレイヤー達の絡み方はすごくよくわかる。
「神家没落」はある春の日に迷い込んだ古い家にそのまま閉じこめられてしまった男の話。遠野物語の迷い家みたいな設定だけれど、この家のすごいところは時空を越えるところだ(笑)。普通こういう話は男が出ていってお終い、だと思うんだけれど、男が出て行ってから物語が始まる、というのは斬新だった。
最後の「幻は夜に成長する」は自分の能力のせいで座敷牢のような場所に閉じこめられてしまう少女の話。しかし彼女は全然苦しんでるように見えないのはなんでだ。クスリとかで朦朧とさせられていたからか。それとも彼女が育て続けた怪物のおかげなのか。結局彼女を閉じこめた人間達こそが怪物を育てたんだよね。
相変わらずの懐かしくて美しくて少し恐ろしい、恒川ワールドを愉しんだ。
恒川光太郎は短篇の方がもしかすると巧いのかも。
最愛(2007.12.15)
真保裕一 新潮社
小児科医をしている押村悟郎のもとにかかってきた一本の電話。18年間連絡を取っていなかった姉が凶弾に倒れ、生死の境をさまよっているという。悟郎と姉とは幼い頃両親を失ってから、それぞれ別の家庭に引き取られていたという過去があった。姉は倒れる前日、殺人の前科のある男と結婚したばかりだったという。しかし姉の夫と連絡は取れない。果たして姉の18年間に何があったのか…。
やっぱりわたしは真保裕一とは相性が悪いのか。それとも読む本がいちいち悪いのか。ちゃんと評判のいい『奪取〈上・下〉
』とか読んどくべきじゃないのか。
とにかく主人公の性格が受け容れられない。自分で「大人になりきれない」と言ってはいるけれど、ここまで大人になりきれない大人ってどうかと思う。周囲の人間に対する批判ばっかりは一人前で、自分自身はどうかといえば「冷静とはき違えた」意志の弱さが目に付くばかり。お世話になった養父母まで責めるようなその考え方はいったいどうよ。
しかも姉に対する執着が気持ち悪い。尋常じゃない。すべてが明らかになってもなおその気持ち悪さは残る。ものすごい自尊心、自負心。姉の気持ちは結局最後までわからず、「姉はこう思っていた、こう考えていた」という悟郎の押しつけがましい推測だけがこの物語の「結論」だ。
しかもこういう事件が起こる前は姉を18年間避けていたのはオマエだ!
なんでも「僕のせいだ」「僕の責任だ」と言うけれど、そんなに強いお姉ちゃんだったらキミの責任なんてこれっぽっちもなかったと思うよ、と思うのはわたしだけか? 彼が本当に姉に対してそんなに影響を与えていたんだろうか、もう根本的にそこから疑問。
こういう自己中心的、というか自分が主人公的なキャラは『奇跡の人』(わたしの感想はこちら)とホントに同じだな、という気がする。
三つの小さな王国(2007.12.17)
スティーヴン・ミルハウザー/柴田元幸・訳 白水社
初ミルハウザー。
硬質な文章は山尾悠子のよう。固くて透明な美しい結晶の芯にはひっそりと毒が潜んでいるような。
「J・フランクリン・ペインの小さな王国」は手書きアニメーションを創らずにはいられない一人の男の物語。精密な、けれどすべて手書きであるがために必然的に”ぶれ”を含有する作品を生み出すことにすべてを注ぎ込むような男の生き方は読んでいて『フリッカー、あるいは映画の魔』を連想した。ラストは暖かいようでいてマッチ売りの少女のような悲劇も思わせる。
「王妃、小人、土牢」はとある国のお城の中での物語と城を見上げる村人の視線とが奇妙に入れ替わり、いつか物語が拡散していく幻想的な作品。何が現実で何が虚構なのか、いま現在起こっていることなのかはるか昔の出来事なのか、語り継がれる物語の中に事実が含まれているかどうかってことがどれだけ重要だというのか。
「展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(一八一〇−四六)の芸術」は、ムーラッシュという画家が遺した作品のカタログを模した作品。絵画の解説はそのままムーラッシュの人生を語る。芸術を生きることは人生を削っていくこと。カンバスに刻まれた作品はそのままどれだけ人生を削ったか、に繋がるのかもしれない。
ひんやりとした手触りは冬の夜の読書にふさわしい。
とってもステキな作品だった。
(収録作:「J・フランクリン・ペインの小さな王国」、「王妃、小人、土牢」、
「展覧会のカタログ――エドマンド・ムーラッシュ(一八一〇−四六)の芸術」)
ゴッドスター(2007.12.18)
古川日出男 新潮社
うーん。
最後まで乗り切れずに物語が終わってしまった。というか駆けていってしまった。
敗因はわたしに文章の疾走感が感じられなかったこと。
文章がどんどん早くなり、テンポが遅くなり、普通のテンポに戻る、というのが体で感じられなかった。最初から最後まで同じテンポに思えた。
結局これって疾走感を感じられなければまったく意味がない作品じゃないか、と思う。物語の展開とか内容とか、そういうのに意味はないんじゃないかと。
自分が誰かは言えない、というあたしと、ある日出会った少年との物語。少年の過去はあとでうっすらとだけ、わかる。
物語にリアリティはまるっきりない。わざとだとはわかっているけど「そうゆう」なんていう言葉を、キャリア・アップを目指して3回も転職するような女性が使う、ということがもうダメだった。少年の都合のいい記憶のなくしかたも。でもそんなことはこの物語にとって些末なことだ、というかどうでもいいことだ、というのもわかる。
記述を速くする、と言いながら記述の途中で「もう説明したよね?」みたいな、後ろを振り返らせるような文章がちょくちょく出てきたのもいちいちわたしが失速する原因だったかも。そう確認されるたびについ立ち止まって自分の記憶を確認してしまって。
古川日出男の朗読シーンも見てみた。
うーん、でもこれって結局朗読の仕方、じゃないのかな。確かにこういう風に読まれれば疾走感はあるけれど、それはどんな文章だってこういう読み方をすればある程度疾走するものじゃないのか。
なんかものすごくビミョー。
サウンドトラックは確かに疾走していた、言葉が溢れて迸るような気がした、ベルカ
は犬たちに押し寄せられて圧倒された、アラビア
は物語の力に酔いしれた。
でもこれは個人的には合わなかった、と言っていいかな。
星の見えない夜(2007.12.19)
伊井直行 講談社
小さな出版社につとめている若手社員の会社物語。
上司が入院することになって小さな課はてんてこまい、しかも上司はどうやら病状が重いらしい…。一生懸命仕事をするもなんとなく周囲とかみあわない「僕」。私生活では失恋したばかり、さらに人手不足を補うために投入された派遣の女の子の扱いもスムースには行かない。お見舞いで会いに行った上司からは荷の重い頼み事を引き受けさせられて…。
えーと、あんまりインパクトがないというか、強く印象に残る話ではないんだけれど。
サラリーマンの悲哀が等身大で描かれるような作品。基本的にユーモラスなので悲哀が身につまされる、というのとは違うんだけれど。でも、やっぱりこれは「切ない」というんだろうか。
[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ(2007.12.31)
シオドア・スタージョン/若島正・編 河出書房新社
奇想コレクションの一冊。スタージョンを読むのはこれで3冊目になるんだけれど(でもわたしのHPに『輝く断片』の感想が載っていないのはナゼ!?)、いちばん普通にあったかい作品ばかりだった。ちょっとイメージが違ってビックリしたほど。
「帰り道」は何というか、古きよきアメリカのノスタルジックな少年もの、という感じ。家出しようとする少年がてくてく歩いていきながら出会う人々は。予想していた結末が予想通りで安心する。
「午砲」も定番といえば定番。パッとしない青年がパッとしない女の子を連れていて、でもそんな自分たちに嫌悪感を感じている。二人で立ち寄った店で出会った理想的な美女。しかし彼女の連れの男は強引で彼らに対する優越感丸出し。屈辱を感じながらも二人は店を出るが…。これまた”いい話”、なのよね。
「必要」は小さな町に住む不思議な能力を持った男の話。むちゃくちゃな男なんだけれど彼の肩を持つ人間が町にはたくさんいる。まるで伊坂作品に出てくる陣内とか西嶋みたいなキャラだ(笑)。
「解除反応」はブルドーザーの運転くらいしか記憶が残っていない男の話。なぜ彼は記憶を失ったのか。失った記憶を取り戻すことは出来るのか。なんというか「まっとうなSF」という感じ?
「火星人と脳なし」は火星人とコンタクトを取ることに熱中する父親とパーティで知り合った女の子に夢中になる青年が意外な顛末を向かえる話。意外というかやっぱりというか(笑)。アメリカのホームドラマみたいなコメディ。
そして最後が表題作の「[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ」。ここにくるまでの5篇はトントン拍子に読み進んだのに、この作品に来ていきなり詰まった。序盤がものすごーーーくわかりづらくって物語が頭に入らずに何度も何度も読み直し、結局5日くらいかかって読了(苦笑)。序盤を突破すればもう大丈夫なんだけれど。まるでドスの『地下室の手記』のようだ(笑)。とある集合住宅で暮らす住人たちの群像劇、と言えば当たらずしも遠からず、かな。何者かによって観察されている彼ら。観察者たちは彼らにとある影響を及ぼすのだけれど、さてさてその結果は。この集合住宅の管理人夫妻がいい味出してる、というかステキ。こういう影響ならわたしも受けたいわー。
後味の悪い話はひとつもなくて、なにやらハートウォーミングな短篇集。大晦日にやっと読了したんだけれど、年の最後に読むにはステキな余韻に浸れるいい選択だったなあ、と思う。
(収録作:「帰り道」、「午砲」、「必要」、「解除反応」、「火星人と脳なし」、「[ウィジェット]と[ワジェット]とボフ」)
愛についてのデッサン 佐古啓介の旅(2008.1.4)
野呂邦暢 みすず書房
今年初めての読書。
読んでみて、エンタメというか、連作短篇ミステリだったことにまずものすごくビックリした(笑)。だって、タイトルが『愛についてのデッサン』で、出版がみすず書房。これが純文学だと思わない人なんているんだろうか?? 実際には角川から刊行された作品の復刊ということなので、なんとなく納得。
亡くなった父親の後を継いで小さな古書店の主となった青年・佐古啓介。物語は古本を介した叙情溢れるミステリ短篇集で、副題に「佐古啓介の旅」とあるように啓介が古本に導かれるように各地を旅し、やがては父親がなぜ死ぬまで故郷・長崎に足を踏み入れなかったかが明らかになっていく。
ミステリとは言っても、この作品は謎解きメインの作品ではまるでない。啓介が知り合う人々の心への旅とでも言えばいいのかしら。文章にするとなんとも陳腐になってしまうけれど、美しい文章で語られる世界は古本を扱うにふさわしくノスタルジックで暖かい。
のっけからこんなステキな本を読めるなんて、今年はなんだか幸先がいいな♪
草のかんむり(2008.1.6)
伊井直行 講談社文庫
芥川賞候補にもなった伊井直行のデビュー作。
三浪中の予備校生の「僕」はある日予備校で目立たない英語教師・李に話しかけられる。彼は「僕」の曾祖父をよく知っている人物で、「僕」に見せたいものがあるという。なんとなく李についていった「僕」は彼のマンションで、あろうことかカエルに変えられてしまう。果たして「僕」は人間に戻ることが出来るのか。カエルになった「僕」の苦難と愛と冒険。
なんて愛らしい作品なんだ!
いやー、デビュー作にはその作家の作品のエッセンスすべてが詰まっているというような話をよく聞くけれど、この作品はホントに伊井直行っぽさでいっぱいだ。ユーモラスで、どこかしら温かくて、切なくて。新入りとしてカエル仲間から孤立する「僕」、水田で力の限り泣きわめく「僕」、一生懸命人間に戻る方法を考えて糸口を童話に求める「僕」、愛した彼女を忘れられない「僕」。おかしくも先の見えない冒険にすっかりわたしは夢中。まさか主人公がカエルになっちゃうような話にここまで惹き込まれるとは。
作中でも触れられているように、この物語は「変身」みたいな不条理劇ではなく、「こどものための童話」みたいな話だ。カエルになってからの性生活だの、李が「魔法使い」になるまでの話だの、そのあたりは全然子供向けじゃないけど。
バカバカしい設定なのに大まじめ。しかもそこに諧謔っぽさはひとつもない。けどこれが芥川賞を取ってたらかなりビックリだよなあ(笑)。ちなみにこのときの芥川賞受賞作は該当作品なし。
なんだか伊井直行の原点を発見した気分で、ちょっと嬉しい♪
我が悲しき娼婦たちの思い出(2008.1.12)
G・ガルシア=マルケス/木村榮一・訳 新潮社
ガルシア=マルケスは『百年の孤独』しか読んだことがない。百年の孤独を読んだとき、同じ時期に『赤い薔薇ソースの伝説
』も読んで、すっかり”ラ米文学=マジックレアリズム”という図式が頭に焼き付いてしまった。そんなわけで、マジックレアリズムじゃないことにびっくり(苦笑)。
「満九十歳の誕生日に、うら若い処女を狂ったように愛して、自分の誕生祝いにしようと考えた。」という衝撃的な文章から始まる90代の男の恋愛物語。いやー、90代でもラテンの男はラテンの男だ(笑)。川端康成『眠れる美女』を読んで着想を得た、という物語で、冒頭には眠れる美女からの引用がおいてあり、やっぱり”眠れる美女”が出てくる話なのだけれど、川端の作品に流れているしっとりした、ねっとりした情緒というか、風情がこの作品ではまるっきり失われていて、そのかわりカラッとした明るさが漂っている。「眠れる美女」の江口老人よりずっと年上であるこの主人公は、江口老人が「死」に顔を向けて生きているのに対してしっかりと「生」の方を向いて歩いている気がする。これは日本とのお国柄の違いなんだろうか…。
眠っている姿しか見たことのない少女に熱烈に恋をして、舞いあがって、プレゼントするために買った自転車を町で乗り回してゴキゲンになったり、新聞のコラムに切々と(いや熱烈に)ラブレターを綴ってしまうようなおちゃめなお爺さん。すべてが明るい話ではないんだけれど、空に輝くラテンの太陽が暗さを吹き飛ばしているかのよう。
ガルシア=マルケスってこんな話も書くんだ。
ラ米はやっぱり奥が深いわ。
下山事件最後の証言 完全版(2008.1.15)
柴田哲孝 祥伝社文庫
以前ハードカバーで出た『下山事件―最後の証言』を、文庫化に伴い大幅に加筆修正したという完全版。単行本で読んだときの隔靴掻痒感が解消されるかなあ、と期待して読んだんだけれど…やっぱりそこまで突っ込んではくれなかった。orz
単行本で読んだときは森達也『下山事件』を読んでからあまり時間が経っていなかったこともあって、けっこう衝撃的で刺激的だったのだけれど、改めて読むと、うーん。こちらもやっぱり、森達也に負けず劣らずやたら情緒的だ。下山事件はとにかく大量の情報が錯綜していて、なにが本当でなにが偽情報なのか判断が難しいとは思うけれど、著者の情報の取捨選択の基準はちょっと曖昧すぎる気がする。推論に推論を重ね、想像に想像を重ね、「こう考えればつじつまが合う」というような、一見筋が通っている様でいて実はなんの根拠もない推測が多すぎる。著者は「関係者の孫」であるということが強力な強みなんだけれど、それは翻れば唯一の強みだ。そして彼の親族の証言が絶対に真実であるという判断は第三者には難しいし、著者もそれを証明してくれるわけではない。
今回の加筆部分で「単行本を読んだ読者からの新たな証言」という納豆売りの少年(当時)の証言があるんだけれど、これってわりと今回の文庫化の目玉のひとつなんだろうけれど、けれどこの少年が実在したという証拠はどこにもない。
そして事件から今まで約60年の間に、下山本は腐るほど出ているというのに、この証言者が今の今まで沈黙していてさらに今回著者の本を読んでその沈黙を破る決意をした必然性が、よくわからない。
今までずっと漠然と「下山事件は他殺」と考えていたのだけれど、考えてみたらわたしは自殺説の本は一冊も読んでいないのだった。あれこれ理屈をこねるとどんどん謀殺気分になってくるんだけれど(苦笑)、自殺かもしれないんだよね。ちょっと自殺説の本も読んでみないとなあ、と思った。
ジャンナ(2008.1.15)
伊井直行 朝日新聞社
伊井直行の本は不思議な本が多いけれど、これは中でも一番不思議だったかも。
小説家の水梨真人は、帰宅途中に猫が会話しているのを耳にする。
「噂をすればニャンニャン」
「水梨ジャンナは、これでもう来られないな」
眠りのサイクルが狂ってしまっている妻の香弥とアパートで二人暮らしの水梨の家に、猫は飼っていない。
猫が言っていた「川の上流」という言葉が気になった水梨は、友人細貝の婚約者・しらべの家が川の上流にあることを知って訪ねずにはいられなくなる。転がり込むようにしらべの家にあがった水梨は自分自身が水梨ジャンナであることを唐突に自覚するのだった…。
なんというか、ものすごーーーく脈絡がない(笑)。ものすごく短い章立てが続いて、話がどんどん進む、というか、変わる感じ。こんな不思議な読み心地はなかなかないわ。
会社から帰宅するなり眠らずにはいられない香弥、父親と確執を抱えていて盗癖のある細貝、故郷の村に帰った途端村から出なくなったしらべ、そして家の敷地から一歩も出ることが出来ないしらべの兄。癖のある人物がどんどん出てきて、けれども話は淡々と進む。
読み終わってもただただ「ぽかーん」としてしまう(笑)。
うん、キライじゃないな、この感じ。
三月生まれ(2008.1.16)
伊井直行 講談社
中子一家の住む小瀬市に、東京から父の大学時代の友人だった宏梠(こうろぎ)一家が引っ越してくることになった。中子家には中三の翠、中一の充、小五の渡の三人兄弟がおり、それぞれ宏梠家の中二の亜希、中一の清孝、小四の菜未が町に馴染めるよう世話をしてやるよう言いつけられる。
亜希は中学で「東京から来た美少女」と一躍注目を集め、弟の清孝は校則の丸刈りを拒否する生徒として学年から浮き始める。そして渡は菜未の視線を感じることが増えて、自分の傷も歪みもなかった世界が傷つけられるのを感じる…。
これすごい好き。
「ジャンナ」とはまるでちがった、繊細でゆきとどいた世界。中子家の三人姉弟と宏梠家の三人姉弟との交流を中心に、それぞれの生活が少しずつ相手の影響で変化していく様子を細かく掬い取っていく。運動音痴で、田舎をバカにした、上からモノを見るような言い方をする清孝が、ものすごく複雑でいい味を出すキャラクター。このくらいの年にありがちな充の淡い恋もいいなあ。
ただ単にハートウォーミングな、都会と田舎の子ども達の交流、というのとは全然違う。ただただ懐かしい、少年時代の自分を思い出すようなノスタルジックな物語とも違う。
彼らのひとりひとりがちゃんと生きていて、生活していて、傷ついたり傷つけられたり、ふと日常の毒を垣間見たり、する。
これも絶版なのかあああ。
なんでだ! と叫びたいね、ホントに。
ラナーク 四巻からなる伝記(2008.1.26)
アラスター・グレイ/森慎一郎・訳 国書刊行会
ある日不思議な町にやってきて、そのままそこに住みついた男・ラナーク。彼には町に来るまでの記憶が一切なかった。
いつも訪れるカフェで知り合ったグループは強烈な個性のスラッデンを中心に回っている。ラナークは彼から紹介された女性・リマと親しくなるが、彼女は彼と同じ病を患っていた。体の一部が”竜皮”と化し、それが少しずつ広がってくるのだ。
町はある日突然人が消える現象が続いていた。ラナークの下宿先の女も、幼い子ども達を残して消えてしまった。
ラナークは少しずつ絶望し、恐怖し、ある日魂の奥底から叫び声をあげた。「ここから出してくれ!ここから出してくれ!ここから出してくれ!」。羽を大きく広げた鳥の影のようなものが、ひとつの形をとり始めた…。
なんとも不思議な大長編。
全部で4章(とプロローグやエピローグ)からなる作品は、いきなり第3章から始まる。間に挟まる1章と2章は、絵を描くことにしか人生を見いだせないダンカン・ソーの物語。ラナークの物語である3章、4章はものすごく幻想的、そしてソーの物語は苦い青春物語風。どちらも違った面白さで読み応えはバツグン。
帯には「ダンテ+カフカ+ジョイス+オーウェル+ブレイク+キャロル+α」、「『重力の虹』、『百年の孤独
』にならぶ20世紀最重要世界文学、ついに刊行!」とあるけれど、この惹句で連想するほど難解ではないし、正直に個人的な見解を言えば『百年の孤独』には並ばない…(苦笑)。いやでもこの厚さが苦にならないくらいのおもしろさ。読んでいて手首はものすごく痛くなったけど(笑)。とにかく最初の第3章がめちゃめちゃ面白くて、町の怪しい退廃的な感じ、不気味な(しかし読者にはめちゃめちゃ魅力的な)怪奇現象の数々、うさんくさい登場人物たちにもう、クラクラ。「施設」以降もまたぶっ飛んでる!
ソーの物語は不思議現象はまったくなくて、不器用で、悪い意味でいかにも文学作品の主人公然とした自意識過剰の画家の卵・ソーの人生がノスタルジックに綴られる。これまた『少年時代』みたいな雰囲気で、違った意味でおもしろい。
そしてラナークに話が戻って物語はクライマックスへ。
「死ぬ前にもうちょっと愛がほしかったな。充分だったとは言いがたいね」。
これは結局、愛し方も愛され方も上手とは言えなかった一人の男の物語。
いろいろツッコミどころはある。
最初は謎がいっぱいだったのに最後の章になるとそのへんが全部周知の事実になっちゃってたりとか。すごい壮大な物語のハズなのに出てくる登場人物が結局かぶりまくりとか。
でもいろいろ楽しみどころもたくさん。途中に挟まれてるエピローグ(笑)なんて、本文だけでなく盗作の索引とか、ページの見出し(って言うんだろうか)とか、すべてが凝りまくっててなんて素敵!
凝りに凝った娯楽作、という印象かな。
この厚さの元は充分に取れるくらい愉しんだ読書だった。
まっぷたつの子爵(2008.1.28)
イタロ・カルヴィーノ/河島英昭・訳 晶文社
ぼくの村に、トルコ戦争に行ったメダルト子爵が帰ってきた。砲弾で引き裂かれ、縦半分にまっぷたつとなった右半身として。善の部分を失い、完全な悪となった右半分の子爵は村に波乱を巻き起こし、その残酷な所業は村人達を震え上がらせる。そこへメダルト子爵の左半分が帰還する。完全なる善の人として…。
初カルヴィーノ。あまりのスゴイ話にぶっ飛んだ。だって縦半分にまっぷたつだよ!?
完全なる悪の子爵に震え上がった村人達は、善の子爵の帰還に狂喜する。けれど、完全なる善は完全なる悪と同じくらい、いやもしかするとそれ以上にタチが悪い。これだけ寓意のこめられた作品も珍しい。人間、いいところと悪いところをキレイに切り離すなんて不可能なんだわ。
ものすごく軽快な話なんだけれど、物語の底に流れているものはとても暗い。冒頭の戦争シーンは必要以上なほどに残酷だ。縦まっぷたつの人間だなんて大ボラを吹きながら、透明な悲しみが物語を覆っているような印象を受けたのは深読みのしすぎ?(苦笑)
半分になった子爵達は同じ少女に恋をする。聡明な少女は執拗に彼女を求める子爵をかわす。村で繰り広げられる騒動にさらに騒々しさを加える、村はずれのきのこ平の癩患者たちと寒さが丘のユグノー教徒達。
暗く美しく輝く透明な宝石のような物語。
トリエステの坂道(2008.1.31)
須賀敦子 白水uブックス
初須賀敦子。
噂通りすんご〜〜〜〜くいいエッセイだったわ。ぜひ翻訳作品も読んでみたいし、他のエッセイも読んでみたい。
エッセイ、とは言っても本当に一篇一篇が「作品」に昇華されていて、とにかく日本語が美しい。今ではあまりみられないものすごく品のいい日本語。本当の育ちの良さってこういうところに出るんだなあと思う。わたしには絶対に書けない、と思わせられる。
ローマで学び、ミラノに移って結婚し、夫の死によって短い結婚生活を終えた彼女は、夫の死後も夫の家族をはじめとするイタリアの人たちと交流を持ち続ける。彼ら一人一人の人生に寄り添うようなその視線が素敵。彼女自身がこんなにも懐が深く、一人の人間として尊敬に値するような人だからこそ、人種の差を越えてイタリアは彼女を受け容れるんだろう。
こういう日本人がいた、ということがわたしを打ちひしがせるし、同時に勇気づける。
雷山からの下山(2008.1.31)
伊井直行 新潮社
雷山頂上の住宅地「見晴しが丘」の一軒家に住む、窓際族に限りなく近い会社員の丸山昭さんと、同じく雷山に丸山さんが所有するアパート「リバティ見晴しが丘」の店子である松本秋彦君の物語。彼らの背景、雷山の状況を説明しつつも、基本的にはふたりのある1日とその翌朝が語られる。
ある日風邪気味で会社を休んだ丸山さん。彼は「心弱い」人間ではないので、閑職に回されても、家族に必要とされていなくても、アパートの店子の奥さんたちに実は好かれていなくても、それに気づくことなく淡々と暮らしている。
1年前に会社を辞めた松本君は就職の面接を2社回った後で、学生時代の友人の細田千加さんとその知人に会う約束をしている。面接前にキャメルの両切りを買おうとして立ち寄ったデパートでは侮辱的な扱いを受け、細田さんと待ち合わせた店に向かう道は上ったり下ったりで疲れることこの上ない。その上松本君はあと1月ほどで「リバティ見晴しが丘」の契約が切れるために引っ越し先も見つけなければいけない…。
一瞬の邂逅の後、ふたりは後日譚ともいえるエンディングでちょっとしたやりとりをし、その後の生活を続けていく。雷山から下山していた丸山さんと上り道にいた松本君。人生の下り坂に入った丸山さんとまだ上り始めたばかりの松本君。
かすかな希望と、わずかに憤りの含まれた諦めの、両方を同時に渡されたような、なんとも言いがたい余韻が残った。
津軽(2008.2.5)
太宰治 未知谷
よかった。
ものすごくよかった。
エッセイというか旅行記というか、太宰治が東京へ出てから10年振りに巡る故郷の旅。町から町へ、旧友の間を巡りながら酒を酌み交わし、バカな話や思い出話に花を咲かせ、時に読者を笑わせながら津軽を紹介して回る。生まれ故郷の金木に着いてからは内省的な面を見せ、ああ、太宰はこんなところで育ったんだなあ、などとしみじみしつつ作品はラストへ向かう。
そしてラスト、ああ、そうか、太宰はこれが書きたかったんだ。
そう思うとうわ〜〜〜〜っと胸に迫ってくるものがある。
わたしは「未知谷」という出版社から刊行されている写真入りの本で読んだのだけれど、挿入されている写真がまたものすごいよかった。太宰の再会の像の写真も載っていた!!
淋しく厳しく、けれど美しい津軽の景色の数々。
太宰の育った斜陽館。
幼い頃、太宰に恐怖を抱かせた地獄絵図。
小さな小学校の運動会。
わたしは太宰は「斜陽」、「人間失格」、「走れメロス」しか読んでない。orz
けれどこの作品の中にはわたしの知らなかった太宰がたくさんたくさんいて、なんだか他の作品もものすご〜〜〜〜〜く読んでみたくなってしまった。
ちなみにわたしは未読なんだけれど、岩波文庫版の『津軽』には、”感動のラストシーン”に関する研究者の最近の結論が載っていて、それによると、実はそのラストシーンは事実とは違うということが明かされているのだそうだ。ラストでじーんと感動した矢先に読まされると確かにそれは興醒めかも…とは思うけれど、わたしはそれを聞いて逆に太宰の「小説家魂」を感じでちょっと感動してしまった。
読者ありきの小説だもの、体験を作品として昇華させるために技巧は必要なもの。文体ももちろんのこと、太宰が自分の体験を冷静にドラマティックに脚色していたことにわたしはちょっと衝撃を受けた。
逆に言えば、そういうサービス精神が太宰の心を削っていった、のかもしれない。