祝福の花嫁
重い扉を開けると、ピアノの旋律が聴こえてきた。
蝋燭の灯の中に浮かぶ、長い真っ直ぐな黒髪と、同じく黒のドレス。黒のグランドピアノ。
それとは対照的に、ドレスの肩から伸びた真白い華奢な腕。
まるで陽の光を一度も浴びたことのない、アルビノに似た白さ。
その腕の先端、細い指が鍵盤の上を滑っていく。
そこから奏でられている旋律は、静けさの中に深い狂気を秘めた、美しい調べだった。
それを壊すことのないよう、後手に扉を閉め、足音を忍ばせて近づいていった。
背後に立ち、先ず黒髪に口付けた。
そのまま髪を指で絡め取り、くっきりと浮き出た鎖骨をもう一方の指でなぞる。
首筋、頬、肩……今にも崩れ落ちそうな、欠落に満ちた身体。
時折、薄い肩が微かに動き、押し殺した切ない吐息が伝わってくる。
だがそれでも、旋律は寸分たりとも崩れずに形作られていく。
やがて、微かな高音を最後に、指の動きが止まった。
その響きが完全に消えるのを待って、ゆっくりと振り向く。
「邪魔しないでって何時も言っているでしょう」
長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳で見据え、淡々と言葉を紡ぐ。
その声にも瞳にも、感情の昂りは欠片ほどもない。
「今の、何て曲?」
「名前なんて無い。いつも通りの即興」
「楽譜に残さないの?」
「残して何になるというの?」
そう言って一度口を噤み、全く同じ響きで問いかける。
「何か用?」
「約束の時間だよ」
そう伝えると、形の良い薄い唇から微かに、そう、という呟きが漏れた。
そしてそれきり、無言で立ち上がると部屋の奥へ静かに歩いていく。
グランドピアノの蓋の閉まる音が虚ろに彷徨った。
ガラス製の棺は、深紅の薔薇で埋め尽くされていた。
その中に躊躇い無く横たわる。
黒と白と紅、その3色が艶やかなコントラストを創り出した。
用意をする背中に、微かに声が届いた。
「誰の言葉だったっけ?」
「モーツァルト。単なる作話かも知れないけど」
そう言って、棺に歩み寄った。
アルビノの腕には、青白い血管が透けて見える。
傍らに跪いて手首を取り、甲に一度だけ口付けた。
その光景に薄い唇が微かに笑みを形取り、刹那のうちに戻る。
漆黒の瞳が閉じられたのを確かめ、青白い筋に銀の針を当てて祝福の言葉を囁く。
「愛しているよ」
そして、透明な液体を温かな血にゆっくりと溶かし込んだ。
――大きくなったら、貴方をガラスの箱に入れて、
風に当たらないようにして、大事に大事にしてあげる――