すかっ!本


竹下節子著『ノストラダムスの生涯』朝日新聞社,1999年

 1999年3月も末であ〜る。
 あと、4ヶ月で問題の7月になる。
 わたしは、このHPで何度もこの人騒がせなオッサンをネタに使ってきたが、それも今回をもって、一応、終わりとしたい。って言うか、今年の9月まで一時このネタは中止。9月としたのは、大事を取って―“旧暦”だの、“うるう年”だのナンだカンだ、こじつける奴が大勢出てくるだろうから―の措置であり、別に深い意味はない。ココまで、誤差の幅を持たせてやったんだから、当ててくれよ、解読者の皆さん(^。^)!

 わたし、今まで、“ノストラダムスの(大)予言の解読”が、如何に当てにならない(=当たらない)かを糾弾する書物(『トンデモ・ノストラダムス本の世界』(山本弘著,洋泉社,’98)、『トンデモ ノストラダムス解剖学』(志水一夫著,データ・ハウス,’98年)、『―改訂版―大予言の嘘』(同著,データ・ハウス,’97年))は読んでいたのですが、「ノストラダムス本人」がどんな人かは知りませんでした。
 いえ、知らないと言うのは正確では有りません。知ろうともしませんでした。わたし、勝手に彼のコトを「陰気くさい、インチキ占い士」程度に想像していました。そして、実は、これらの想像の元になったのは、“インチキ解読者”が作り上げた、ノストラダムス像でした。“インチキノストラダムス像”を疑いも無く信じていた訳です。反省します。
 懐疑主義者に憧れるのなら、“インチキ解読”だけでなく、“インチキノストラダムス像”をも疑わねばならなかったのに…(^_^;)。「木を見て、森を見ず」と言われても反論できません。
 でも、ちょっと、言い訳させてください。
 ノストラダムスって、まず、「予言有りき」で、まじめにその本人―予言では無く―を研究しようとしても“色眼鏡”で見られてしまうわけですヨ。多分。
 「イロものは研究に値しない。ほおって置け」って風潮が“この業界”には有る訳です。
 だ、もんで、わたしを含め、「ノストラダムスの研究=彼の予言の読解=ビリーバーの仕事」って言う図式が成り立っちゃった訳で、真正面から彼自身を研究するってコトがあまり行なわれてきませんでした。

 で、今回の『すかっ!本』は…。
 今まで、避けられてきた、ノストラダムス本人に対する研究を行なった凄い本です。
 一読して、わたし、ノストラダムスに対する先入観、一発でどっか行っちゃいました!「陰気くさい、インチキ占い士」から、「16世紀の生んだ、マルチ・タレント。家族を愛し、人々を慈しむ、才能あふれる商売人」に180度転換しました!だって、占いの料金を催促する手紙や、占いのお礼に対する、大げさな感謝の手紙が載っているんだ!
 統計学、確率論、論理学、言語学等を駆使して、「予言はでたらめだ」って主張しても、その主張がノストラダムスに対するヘンな先入観から出ているのであれば、その時点で、主張者自信が既に“予言の罠”にハマっている。そんなコトを、わたしも繰り返し行なってきました(^_^;)。
 しかし、この本を読んで、“人間ノストラダムス”が判ってしまえば、「そっか、この人ってば、『ノストラダムスの予言』って題名の、詩集書いたのネ」なんて、凄く単純な答えに辿りつける。
 まるで、「『サラダ記念日』書いたのは俵万智」って言っているのと同じ。
 そうナンです、今まで、わたしのやってきたコトってば、ノストラダムスの詩の物凄い上っ面のコトをああだこうだ文句をつけて、違っているって言ってただけで、その詩で彼が本当に何を言いたかったのかまで突っ込んでいなかったんです。
 これは、五島氏をはじめとする人達も、基本は同じ。
 ホント、バカ。
 「悪いところがあれば、ただちに直そう」ってコトなので、直します。

 今こそ、文学作品として『ノストラダムスの予言』を“解読”ではなく、“鑑賞”する時期が来たのだろう。
 まっ、それをするには相当のフランス語の知識が必要なので、わたしには出来そうもありませんが…(T_T)。 


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