すかっ!本(改訂版)


野々村馨著『食う寝る坐る永平寺修行記』新潮社、1996年

 人の生き死にを軽んじてしまった為に、おもいっきり“しっぺ返し”をくらって、仏の道にでも“イッ”てしまおうかと考えている、今日この頃、みなさん足掻いてますか?
 で、“イク”前に予備知識として、そこで何が行なわれているか調べるために、コンな本読んでみました!って、本当は、“事件”が起きる前に、またもNORYさんから薦められて読んでたんです(^_^;)。
 んで、違うカタチで発表しようと思ってたんですけど、コンな状態にある為、自分で自分を誤魔化す為に、って言うより、ナンか書いてないと落ち着かないから、“とりあえず”書く。
 はははぁ〜あ。
 だ、もんで、無茶苦茶な文になるコト受け会い。ライバルはW・バロウズだ!

 とかナンとか威勢の良いことを言ったけど、人間そんなに簡単に“壊れる”ことも出来ないんで、まともなコトを先ず書こう。
 永平寺ってのは、福井県に有るお寺です。曹洞宗と言う禅宗の総本山で、道元が1243年(寛元元年)に建てました。
 って、歴史の教科書みたいでつまんないな…。
 まっ、「禅寺の親分」程度に考えといて。
 んで、禅宗には曹洞宗と、もう1個、臨済宗(栄西が開祖)ってのが有る。
 この曹洞宗と臨済宗は、禅宗っても全然違ってて、“禅”でも、曹洞宗は黙照禅、臨済宗は看話禅。
 看話禅ってのは、仏になる為に“考えて”坐る禅で、黙照禅は「仏のように坐る」コトを目標としている。
 一休さんでお馴染み、「そもさん!」、「せっぱ!」ってのは看話禅の典型。あと、京極夏彦の『鉄鼠の檻』に出てくるのも臨済宗だな。
 で、あるから、野々村さんの行った永平寺は、「タダ坐る!」ってコトをさせられる。
 でも、普通の人間、なかなか「タダ坐る」コトなんて出来ないんで、どうするかって言うと、道元の書いた『正法眼蔵』って本の通り生活させらる訳です。
 んで、また、この『正法眼蔵』っていう本が凄くて、飯の食い方、寝方、顔の洗い方から、便所(東司)の使い方まで事細かに、その“作法”が書かれている。
 例えば、排泄一つするにしても、
〈まず東司に行くには、必ず手巾を持つ。手巾はニ重にして、左肘の衣の上に掛けるがよい。そして東司に着くと、手巾を竿に掛けよ。その掛け方は、肘に掛けた時と同じようにする。もし袈裟をっけていたならば、袈裟は手巾と並べて掛けるがよい。落ちないように、ちゃんと並べ掛けるべきである。乱暴に投げ掛けたりしてはいけない。
 衣はぬいで手巾の傍らに掛けよ。そして手巾で衣を結わい、衣に向かって合掌する。次に襷を取って両肘に掛けよ。
 そして手洗場へ行き水桶に水を汲み、それを右手にさげ厠へおもむく。水桶の水は、いっぱいにしてはなしない。九分を限波仕する。厠の入口では履物を、蒲で作られた草履にかえ、自分の草履は厠の入口にぬぐ。これを換鞋という。
 厠の中に入ったならば、左手で扉を閉めよ。次に、水桶の水を少し便器の中に注ぐ。終わって、水桶を正厨の置くべき所に置く。そして立ったまま便器に向かって、三度指をならす。その時、左手は握って左腰にっけておくがよい。
 ついで着物の端を持って、両足で便器の両端を踏み、かがんで大小便を行ずる。両端をよごしてはいけない。前後にかけてはいけない。この間、黙然としているがよい。壁をへだてて談笑したり、声を上げて歌ったりしてはならない。鼻汁や唾などをふりまいてはならない。にわかに、力んではならない。壁に落書をしてはならない。厠の篦で地面をつついてはならない。
…(以下省略!この調子で延々つづくんだ!!)…。〉
って“作法”をしなければならない。こんなコトしてると、出るものも引っ込むぞ!それに、下痢とかしてて、“緊急事態”のときはどうすんだ!
 で、もって、終わった後は、「左右便利、当願衆生、■除穢汚、無婬怒癡」何て言うワープロに無い字(■のところ)まで使った、『東司之偈』なんてモン合掌して唱えなきゃナンない。意味は、「大小便を行ずるにあたって、まさにすべての生あるもののために願わん。汚れを除き去り、貪り、怒り、愚かなる三毒を滅却せしめんことを」だって!
 「こんなコトで、“すかっ!”っとするかい!」と思ったあなた!お友達になりましょう(^_^;)。

 さて、っと理性的(?)に書いてきたのはココまで、狂わさせていただきます。(って、前振りするようじゃまだまだだネ(^_^;)、わたしも…。)
 デカルトの有名な言葉に、「われ思う、故に、われ有り」って言葉が有るけど、これは―わたしの解釈では―、「なにが真理か知るために世の中の森羅万象すべてを疑って考えたら、疑っている自分自身だけは疑いようもなく“自分”だった」って意味。
 ここから、ヨーロッパの哲学の言語化が始まり、そして、“科学(=自然の言語化)”も始まった。いわば、現代(西洋)文明の“公理”といって良いモノになった。
 しかし、ユークリッドの幾何学に対して“非”ユークリッドの幾何学が有るように、“公理”なるものを違うモノに置き換えたり、否定してしまえばそこに、違った(?)“考え方”が出てくる。
 仏教はこの“自分”さえも否定する(=執着の心を捨てる)ことから始まった。自分自身への執着心も“煩悩”と呼ばれ、真理(=「(仏)法」)を「悟る」妨げになるとされた。
 では、仏教でいう「われ」とは何か?  言葉で言うのは簡単なんで、「真我(=Atman、アートマン)」。
 この「真我」ってのは、宇宙ができる以前から、脈々と続くエネルギー(E=mC2)って考えても良いでしょう。で、その総和は変わらない、「不生不滅」って仏教では言ってます。
 まっ、そんな話は置いといて、この「真我」ってのは誰でも持っているモンでそれを、「あっ、俺も持ってンだな」って“実感”することが、「悟り」。
 ホント、言葉で言う(=言語化する)のは容易い。
 だ、けんど、何事も「言うは易し、行うは難し」って…。
 んで、その手段として仏教―って、いうかゴーダマ―は、「諦め」が肝心ってのを採用した。
 言いかえれば、「言語化不用論」とでも言いましょうか。
 『食う寝る坐る〜』の最後に、著者が、「必要以上に深く考えることをしな」くなったってある。それは、永平寺の生活の中で、知らず知らずの内に、このことを実践した結果でしょう。
 同書の中で、繰り返される「体が覚える」ってのは、“禅”が開発した、「言語不用化」のシステムなんでしょう。
 えへへっ!書いている本人さえ解かんないコトを書いてるんだ!それに、そもそも曹洞宗自体、言語化する必要を認めていないから、コンなコトどんなに“書いて”もムダなんだネ(^_^;)。

 だ、けんど、“書く”コトはムダなんですが、“カク”ことはムダではなく、逆に修行になります。
 『成法眼蔵』手淫(まっ、自家発電のコトですネ)の巻きに、
〈先ず手淫を行なうには、東司にゆく。手巾は二重にして、右肘の衣の上に掛けるがよい。…(中略)…。
 ついで着物から、魔羅(マラと読む、ポコチンのこと)を取り出し、如来の顔を夢想し、不浄指にて一気に行ずる。この間、黙然としているがよい。…(中略)…。
 出す瞬間、一瞬、我慢し、その後、放つべきである。決して、果つるがままにしてはいけない。…(中略)…。
 終わった後、指を3度鳴らし、己が精に向かって『東司之偈』を唱えるべし〉
って書いてある。
 そんときの『東司之偈』は、
 「手淫便利、当願衆生、向無上道、至境明水」
 (手淫を行ずるにあたって、まさに全ての生あるもののために願わん。この上もないすぐれた仏道に入り、明水のごとき心の境地に至らんことを。)
と、唱える。
 “オカズ”に「如来の顔」を使わなくちゃいけなかったり、「出す瞬間、一瞬、我慢」しなきゃいけなかったり、一寸、不便な作法で有るが、日頃、“ムダ弾”として、ゴミ箱送りになる、我が染色体が、仏心への道と考えれば価値が有る。
 男にとって、精を放つは“その時々の死”という考えも、真言立川流の中に有るから、一人ものの男には正に修行であったりする。
 どう、今夜あたりやって見たら?   


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