すかっ?もん わがHP、“すかっ!本”に、わたしの超常現象体験について書いたところ、友人のNORYさんから、以下のようなカキコが伝言板に有りました!
なぜって、人間の脳みそのことが、全然、解ってないから…。 NORYさんの「目覚めた瞬間のリアルな感触」なんてのはその典型。 だから、NORYさんと同じような“リアル”な超常現象を体験したとしても、人によってその解釈は違ってくる。よって、この場合、間違い無くNORYさん(の脳)が体験したことであるから、もしNORYさんが、「わたしは超常現象体験をした」と言っても嘘では有りません。 ここで少し、“わたしの解釈”をすると、「自分の回りで子供が走り回ってる気配」ってのは、多分、走っていたんだろう。それは、他の天文部員だったかもしれないし、ネズミその他の小動物だったのかもしれない(こっちの方が嫌だ!)。あくまで、“気配”であって、見たわけじゃなかろう? 「その子供たちがいきなり私の体の中を走り抜けていく」ってのは、彼ら(天文部員)または、奴ら(小動物)が、NORYさんの体の表面をさわったか、文字どおり“走った”(あわわ…(゚.゚))からじゃないかな? それらの刺激と、「廃校になった小学校」っていう情報などによって、脳が体験させてくれたモノのような気がします。 まっ、勿論、「戦争中に爆撃された子供達の霊」と解釈しようが、「数年前、UFOにさらわれた子供達のアストラル体」と解釈しようが、「自分の持っている水子の霊」と解釈しようが、それはその人の勝手です。 で、問題となるのが“超常現象へのアプローチのやり方”です。 数多の“否定派VSビリーバー”の対決(もうそろそろ『たけしのTVタックル』あたりで特番やるだろう)を見ると、どうもこのやり方が食違っているため、両者の話がなかなか前に進まないことがよくあります。 では、超常現象に対して、それぞれがどのようにアプローチしているかと言うと、否定派は「“現象”と言うからには、物理的(科学的)観測が出来なければならない」とし、ビリーバーは「“超常”であるため、物理的(科学的)観測など出来なくとも良い」としています。で、この「物理的(科学的)観測」ってのが曲者で、“見た”、“聞いた”、“体験した”等、個人の主観的観測は、コレとは違うのです。 ですから、わたしの体験やNORYさんの体験は、ビリーバーのやり方でいくと、立派な超常現象体験(゚o゚)!であり、否定派のやり方でいくと「脳の何らかの作用による、幻覚または、錯覚」ってことになるでしょう。 この辺をちゃんと整理しないと“否定派VSビリーバー”は、いくら議論を重ねても不毛なものでしかないでしょう。 例えば、NORYさんの体験を否定派は、「体の中を走り回る子供などは観測されなかった、よって、何らかの脳内現象である」とするのに対して、ビリーバーは「観測されなかったからこそ、それが超常現象の証拠だ」って主張する。UFOはじめ、ほとんどの超常現象は、否定派が“科学的”にそんな現象は観測されないと、主張すればするほどビリーバーは「科学で解明(実は、科学的観測が出来ないだけなのだが…)されないからこそ、超常現象は存在する」と有頂天になる。 極端な話、この論法でいくと、「ゴジラが存在しないことは観測されていない。よって、ゴジラは存在する」ってことになってしまう。 まっ!TV番組ですから、そんな、こ難しいことは置いておいて見る方が楽しめるのですが…。 で、懐疑主義者のやり方ってのは、ゴジラの例でいくと、まず、ゴジラが科学(生物学)的に存在する可能性が極めて低い生物であること(体長に対して体重が重過ぎる。放射能が生物を巨大化させる可能性。放射能を吐く。etc.)を提示する。その後、ビリーバーに目撃談、写真、映像など、(ビリーバーが考える)物的証拠を提示させ、その一つ一つを潰していく。その結果、潰しきれないものがあれば、存在する可能性をそれに見合っただけ、修正する。ってことを行なう。 そうなんです。否定派との大きな違いは、頭っから「ゴジラなんか居ない!」とは、決して言わないことなんです。「常識すら疑う」これが懐疑主義者です。 そんな、懐疑主義者―わたしは、成り損ないの“ビリーバーを笑うもの”です―の究極は、「自分すら疑う」っていう人達です。一歩間違うと虚無主義に陥ってしまいそうな人達です。んで、彼らを繋ぎとめている“命綱”が“信仰”だったりするので、一層、この人達は面白い! 蛇足ながら、大槻教授を(TVなんかで)見て―JAPAN SKEPTICSの会員だったりしてました―、「????!!」って思っちゃうのは、彼が“火の玉信仰”の信者だったりするからです。 まっ、“信仰”なんてと、“元祖超常現象”みたいな感じがしちゃうけど、彼ら懐疑主義者の皆さんは、ちゃんとその辺を整合させていらっしゃいます。その信仰とは、民主主義です。「科学と民主主義はどちらも、実験による判決を積極的に受け入れる思想である」とセーガン博士もおしゃっております。民主主義における実験とは、ありとあらゆる政策のことです。例えば、政策Aが失敗した場合、それを諦めて政策Bに切りかえるとか、今まで成功してきた政策Aも時代に淘汰されそうな場合、政策Bにシフトするとかってことを“実験”と博士は言っています。 「実験による判決を積極的に受け入れ」ているとは言い難いこの国において、真の懐疑主義者の出現など望むるべくも無く、精々が“火の玉信仰”のオッサンか、“ビリーバーを笑うもの”ぐらいしか出てこないでしょう。 い、いかん!“学業モード”から抜け出せん! |
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