或阿呆の一生

これは芥川龍之介の末期の小説です。自分自信を 客観的に書いた小説です。
本文を幾つか紹介します。



或阿呆の一生


時代

それは或本屋の二階だった。二十歳の彼は書棚にかけた西洋風の梯子に登り、新しい本を探していた。モオパスサン、ボオドレエル、ストリントベリィ、イプセン、ショオ、トルストイ、...
 そのうちに日の暮れは迫り出した。しかし彼は熱心に本の背文字を読み続けた。そこに並んでいるのは本というよりも寧ろ世紀末それ自身だった。ニイチェ、ヴェルレエン、ゴンクウル兄弟、ドストエフスキィ、ハウプトマン、フロオベエル、...
 彼は薄暗がりと戦いながら、彼等の名前を数えていった。が、本はおのずからもの憂い影の中に沈みはじめた。彼はとうとう根気も尽き、西洋風の梯子を下りようとした。すると傘のない電燈が一つ、丁度彼の額の上に突然ぽかりと火をともした。彼は梯子の上にたたずんだまま、本の間に動いている店員や客を見下ろした。彼等は妙に小さかった。のみならず如何にも見すぼらしかった。
 「人生は一行のボオドレェルにもしかない」
 彼は暫く梯子の上からこう云う彼等を見渡していた。...

火花

 彼は雨に濡れたまま、アスファルトの上を踏んでいった。雨はかなり激しかった。彼は水沫の満ちた内にゴム引きの外套の匂いを感じた。
 すると目の前の架空線が一本、紫色の火花を発していた。彼は妙に感動した。彼の上着の上のポケットは彼等の同人雑誌へ発表する原稿を隠していた。彼は雨の中を歩きながら、もう一度後ろの架空線を見上げた。
 架空線は相変わらず鋭い火花を放っていた。彼は人生を見渡しても、何も特に欲しいものはなかった。が、この紫色の火花だけは、...凄まじい空中の火花だけは命と取り換えてもつかまえたかった。

人工の翼

 彼はアナトールフランスから十八世紀の哲学者達に移って行った。が、ルッソオには近づかなかった。それは或は彼自身の一面、...情熱に駆られ易い一面のルッソオに近い為かも知れなかった。彼は彼自身の他の一面、ー冷かな理知に富んだ一面に近い「カンディド」の哲学者に近づいていった。
 人生は二十九才の彼には少しも明るくなかった。が、ヴォルテエルはこう云う彼に人工の翼を供給した。
 彼はこの人工の翼をひろげ、易々と空へ舞い上がった。同時に又理知の光を浴びた人生の喜びや悲しみは彼の目の下へ沈んで行った。
 彼は見すぼらしい町々の上へ反語や微笑を 落としながら、遮るもののない空中を真っ直ぐに 太陽へ登って行った。丁度、こう云う人工の翼 を太陽の光に焼かれた為にとうとう海へ落ちて 死んだ昔のギリシャ人のように.....

神々の笑い声

 三十五才の彼は春の日の当たった松林の中を歩いていた。二三年前に彼自身の書いた「神々は不幸にも我々のように自殺出来ない」と云う言葉を思い出しながら.....

敗北

 彼はペンを執る手も震え出した。のみならずよだれさえ流れ出した。彼の頭は〇・八のヴェロナァルを用いて覚めた後の外は一度もはっきりしたことはなかった。しかもはっきりしているのはやっと半時間か一時間だった。彼は薄暗い中に その日暮しの生活をしていた。言わば刃のこぼれてしまった、細い剣を杖にしながら。




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