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人間の精神にもそういった時間はちゃんと存在しているのかというと、存在はしているだろう。時が流れているとい捉え方ではなく運動しているという事だ。精神は広がれるところまで広がる。勿論その中にある様々な存在も運動している。耐えず運動し続けているのは我々が一時も「無」ではないことの証とも言える。つまり精神にも肉体と同様に終わりは来るしその中にある色々な存在にも終わりは来る。完全な愛情等には終わりはこないだろうと思う方もおられるだろうが、終わりは来るという事は消滅するという事ではない。肉体にしてみてもそうだ、死ねば終わりを迎えた事にはなるがその存在自体は簡単に消えはしない。骨になっても存在自体は長い間残る。精神も同じだ。
精神の中ではどのようにその「時間」は扱われているか。
精神と言う器も含めて耐えず活動している者共は個体差はあるが常に「成長」しようと自らに働きかけている。自我もそれ以外の記憶も、様々な存在も。飽く事無く精神の中で活動して限界まできてやっとその活動を弱らせていくのかもしれない、肉体における細胞や臓器のように。
具体的な考えを述べると。精神の中にあるその存在事に活動のスピードは違うし、何か他の力の作用によってその運動速度を変えていく。運動速度が急激に速まる様な事があれば肉体同様悪い影響を及ぼす事もあるし。過労死の様に急がされすぎてボロボロになる事もある。
自我は精神の中にあるあらゆる存在の影響を受けて成長していく最も扱い辛い存在だ。例えば精神の中に攻撃的なものが入ってくれば必死でそれを取り除こうと運動の速度を早める。自我の時間は他のものより早く進んでしまうわけだ。時間が早く進めばそれだけ衰えも早くなるのは火を見るよりも明らかだ。また、自我以外の存在にしてもそれは言える。肉体的な疲労やストレスにより精神の中に不満や攻撃願望の様なものが生まれるとそれに対抗しようつる存在の活動はスピードを高めてしまう。そういった不満やストレスならば精神の中に占める割合は小さく、問題はないと思えるかもしれない。けれど小さくても確実にその影響で他のものの時間は圧縮された事になる。これがもし大きなショック等によって生まれた巨大な不満やら不振、破壊願望、自殺願望ならその他の自我等の時間は大きく圧縮される事になる。精神力そのものの弱い者ならば早くにボケてしまうだとかの要因のひとつとして考え得る事も出来るかもしれない。ただ、なんにせよ傷を負ったりする事によって新たに強くなるのも生命の本質。逆にその時間を延ばす事もおおいに有り得るが期待はしない方がいい。
先に述べた、終わりは来るが消滅はしないについてだが。精神に関していえば愛情も憎しみも自我もその人の考え等も、終わりはきても確実の存在し続ける。例え見えなくなっても有り続ける。何か形を残し続ければ永久に消える事はない。昔の人間の残した本や絵等は、その者の精神にあった考えやその精神が作り出したものを形に残し続けたものだ。
話は違うが歴史や、我々が生きている内に起きた出来事も目に見える形ではなくとも確実に存在し続ける。書等の形に残しておけば目に見える形で残す事もできる。我々の時間と言う概念への捉え間違いがその事を大きく隠している。もしあなたが、「死んでしまった後私はいなくなる」と考えていたりして死に対して絶望的な考えをおもちならよく考えた上でこの考えを参考にするといいかもしれない。「時間」によって死の訪れる事は確実だがどうする事も出来ない。仕方の無いものと認識して生きている内に残せるものは残せば良いだけだ。子供を残していけば誰も思い出さなくても自分の存在していたという証は残り続ける。
時間が運動経過を表す目安にすぎないとしたら精神にも時間は確実に存在する。精神そのものにも、その中に配置されているものにも。外部からの力によってそれを短くする事も出来るし長くする事もできる。
それはストレスやちょっとした不満で充分だ。こう書くと子供のいる方などはストレスを与える事は駄目なんだと思うかもしれないがそうとは言い切れない。与えた後に他の存在を強くしてやれば良いのだ。
社会で生きていく上には精神の中に「忍耐」という事も植え付けなくてはならない。けれどそれは精神の中の「不満」やストレスを抑える存在として初めて生まれてくるものだ。また、「傲慢」等は精神の中に「忍耐」等の存在が無い時に生まれる。「思いやり」というものも誰かに傷つけられて自分が痛いという事に気付いて初めて生まれる。そういった様にあらゆる存在には「有効性」と「無効性」の両面を持ち合わせている。子供のいる親等はそういったバランスを考えればいいだけの事だ。子供に関した事だけではないが。
なるべくバランスさえ保っていれば精神は普通に時間を全うする事ができる。バランスが悪ければ早く衰えるだけの事。バランスの善し悪しは別にして、確実に我々はそれを他者に与えている。