
日々は徒然。人の生きていく道。
道は分かれているもの。人は徒然道を歩み、迷い、苦しんで。
また前へ進む。
意味は其処に必要とせず。
この道を
行こう。
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2001/7/6(金)「”探している”と言うこと」
2001/3/1(木)「報われた幸せと不幸」
2001/1/15(月)「信実はあなたと共に?」
2000/10/8(日)「Where are another me?」
2000/9/21(木)「胃の中で溶ける蛙」
2000/8/22(土)「表現する恐怖」
2000/5/28(日)「ホコリのついたPRIDE」
2000/5/7(日)「可能性の努力」
2000/3/1(水)「三歩進んで何歩下がろうか?」
2000/2/20「中途が半端」
2000/2/13「すたでぃー・らいふ」
2000/1/25「重い槍はやはり重い」
2000/1/16「重い槍を持てますか?」
1999/12/16「人間関係摩擦問題」
1999/12/8「Homepage rhapsody2」
1999/12/8「Homepage rhapsody」
1999/12/5「匿名論議」
1999/12/4「ハンドルネーム・秘話」
1999/12/2「環境適応能力」
1999/11/30「ヤング・ピーポー」
1999/11/28「開設の解説」
ういです。お久し振りです。
日本は今もの凄い猛暑です。
色々と記録的な温度とか、騒がれてたりとか。
そんなカンジですが。
最近の私のテーマをふと振り返ったりします。
振り返ると一つの動詞が思い出されます。
「探す」もしくは「探し出す」、と。
そんな動詞が思い出されます。
兎に角、探し出さないといけない。
兎に角、探し出さないと良くない。
何かを。
幸せの定義とか?哀しみの置き場とか?
Bump of Chickenの歌詞をそのままパクったりも
するのですけれども。
本当に
「気が付けば、いつだって、ずっと何か探している」
と言った気がします。
貴方は何か探してますか。
私は何を探しているのでしょうか。
ふと死に場所を探しているような気にもなりますが錯覚かも知れません。
ふと死に場所を探しているような気にもなりますが錯覚では無いのかも知れません。
しかし問題はきっと其処にはないような気もしています。
ずっと遠くまで走り続けた時に見つかるものであるのかもしれませんし
それを探すのを諦めた時に見つかることもあるのかもしれませんし
どっちとも、云える事でも無いような気がしています。
あまり断定を出来ないですがスミマセン。
なにせ
私もいま、”探している”真っ最中なもので。
こんにちは。キャロでーッス。皆さんお元気ですか。
コレを書いている当時は段々と暖かくもなり
日々三寒四温といった感じですよ。
しかし、これ日記みたいな感じで続けるつもりだったのに
何処が日記だよっていうかそんな感じですね。
あはははーん。あはん。・・・すいません、本当に。
更新しないホームページってのはあまり価値がない、ちう話を
どっかから聞きました。確かにそうかも知れませんね。
しかしなんでこんなに意気込みが減っていったんだろう。
予想はしていたんですけどね。開設当初はやっぱり、なんか
凄く色々気合いが入ってた様な気がします。
で何故気合いがあまり入らなくなったかと言えば
やはりあまり報われないと言うことをとても思うからです。
HPというものは。手間暇いくらかけようが
やはり問題は宣伝であるし、
そして個人HPというのはやはり自分を前に押し出すしかないわけで。
とすると、あまり多くの人に興味を持ってもらえるものを
作るのはなかなか難しい。
報われにくいわけです。
それでも、
世の中には便利にもこんな言葉があったりします。
「報われなくてもいい。見返りはいらない。」
そんなカッコイイ感じで。
いや、なかなかそんな綺麗事は言うのは難しい。
そんなことやってたら、いや、やってたんですが。
やはり人間はやる気が減っていくのです。
コレはあれですね。きっとやりがいとかの問題でしょう。
人間はきっとやり甲斐感じたり、
報われたと思ったときには脳から快感物質が出てきて
またやりたい、とか思うんじゃないでしょうか。
報われないことこそやりたいものですが。
でも、そういったことがやはり報われないのは
そういったこともあるのかもしれません。
生きている事に報われていたい。
とかおもうこともありますが。
どうですか?皆さんは報われていますか?
でも、「報われたいからやるのだ。
自分が報われたいから。
「ソレ」が無駄ではないと思いたいからやるのだ。」
といったことを浅ましく感じる人もいるかもしれません。
しかしそれを無視すると
自分の欲望、想いとかいろいろが
だんだんと殺されていくのかも知れないかもしれません。
殺されかけましたよ。本当に。 私はね。
だから私はとりあえず
心で叫ぶのです。
私は私を無駄ではない。
そう信じていたいのだ、と。
そんな話でした。
明けましておめでとうございます。
いや、何。このエッセイもヒサシブリですね。
何と二十一世紀です。奥様。大変ですわ。
遂に百万馬力の時代ってわけですわ。
テヅカオサム万歳。
さて、このエッセイはまあもって大変間が空いてしまったわけです。
日記の様なつもりで書いていくはずだったのに。
だんだん途中テーマを持たせるようになってしまって。
そして、私はもう、しばらくのあいだ、自分の中で、「テーマ」を
無くしていたんです。
いや、今でも無いのですが。
何故か。
端的に申しましょう。
私は絶対であると、信じていたことに、裏切られたと言うことです。
昔から、ひねくれたガキでした。
「日本はもうダメだね」とか「根性とかはくだらん」とか
そういう事ばかり言って何も行動を起こさないガキでした。
そんな私にも信じられるものが出来ました。
これになら、自分を尽くせる。
これにこそ、自分の力を尽くすべきだ。
それはきっと正しい結果へと導かれるだろうと本気で信じていました。
そう、そして、自分が正しいと信じ込めるやり方、生き方でしばらくの間
過ごしていたのです。
しかし、ある時、その生き方、やり方はいつの間にか多くの人を傷つけ続け
そしてそれに平然としていた自分に気付いたわけですね。
これは、オウムの信者となんら変わりないと言えます。
違いを言うなら、俺の信実は、自分で見つけたものであり
人から与えられたものだということでしょう。
だからこそ、信じていたのですが。
やはり、足が止まりました。
足下が崩れていく感じを受けました。
それからしばらく、あまり気力もわきません。
自分がまた「間違ってしまわないか」恐くなってしまうのです。
そして、そんな人間に、何が語れるのか、と。
そう考えたのです。
信じていた時にあれほど何でも出来る様な気力に満ちていたのが嘘のようになる。
周りが見えるようになったとたんに、動きが止まる。
つまり、何も見えてなかったからこそ、何でも出来るわけです。
こんなこと、前から小説や漫画で知っていたのに。
自分がなったときはまるで気付かないなんて。と。
そして悲しくなるわけです。
きっと、戦争や、そしていがみ合う人が全て
自分の信じているもののために一生懸命生きていて
そして、こんな所で気の抜けている私よりもよっぽど「生きている」。
そんな人たちが憎みあい、いがみ合い、殺し合うわけですね。
そしてそんな風になるのが恐い私は
もう何も「絶対」を信じられない。
本当の事・・・・真実
本当の事だと信じている事・・・・信実
あなたと共に信実はありますか。
それは無くても不幸なものだし
あっても哀しいものなのかもしれません。
今はこれを読むあなたが
いつか幸せになってくれれば私は大分嬉しくなります。
幸せがあることぐらい
私も信じてみたいのです。
2000/10/8(日)「Where are another me?」
さあってと。
今回はちょっと冗談なしで。
メッセージ性が強いテーマなんで(笑)
「本当の自分探し」
これどうよ。これどうよ?みなさん。
今はやってるよね。自分探し。
今と違う自分を見つけたいって言う奴ね。
いやまあ俺も芝居やってるからよく分かるけどね。
だって、役を演じるって事は
違う「自分」になることだし
自分、ってものの幅を広げるもので
たしかに自分探しとなる。
人間の内宇宙って凄いよ。広がりすぎ。
あれなんだね。人間が生まれた瞬間って
宇宙のビック・バンみたいなもんなんだろうね。
俺の好きな漫画より抜粋。
「広がる宇宙は 外宇宙だけではなく 内宇宙へも」
「Telescape Diaries」 海野つなみ
「自分はこういう人間じゃあないから無理だよ」
とか思わず、
「そこに適応する自分も居るはずだ」と思いながら
模索するのを自分探しというのなら。
自分探し、大いに結構!
さて。何が気に食わないのか!
それは、本当の自分探し。という言葉。
今じゃない自分になりたい。本当の自分があるはずだ。
とかよく言うよね。最近。
こんなのは本当の俺じゃあないとかね。
ふっざけんな。
此処にいるテメエを自分だと認めねえでどうすんだ。
そこがテメエの立っているトコロだというのに。
そこがテメエの巣立ちの場所だというのに。
足下も見えてない。そりゃ踏み切れないわ。
原点が分かってないし。
全部ひっくるめて、本当の自分なんだよ。
全部、一人の人間なんだ。
手塚治虫は、あれだけの漫画を
手塚治虫の内宇宙からひっぱりだした。
あれだけのキャラクター全てが
手塚治虫の宇宙の一部であるのだ。
俺には今ある宇宙も
手塚治虫の内宇宙もどちらも
同じ大きさに思える。
情けなくても、別にいいじゃないか。
情けない事を認めてしまえば
開き直ってしまえば?
あとはガンバルだけさ。
どうっすか。奥さん。
いや、奥さんじゃないって人も。
最近幸せですか?僕はいまひとつです。はっきりしません。
今年は泳ぎませんでした。冬にでも温水プールで泳ごうと思うのです。
親父が最近言った言葉が一つ。
「何を表現しても、良いと思う人三分の一、悪いと思う人三分の一、残りは何とも思わない人」
うん。
そういうことだろう。
最近そう思う。たまに、このエッセイ面白いとか、詩面白いとか言ってくれる人がいる。
うん。
とても嬉しい。だって、自分認めてもらってるじゃないですか。自分センスいいとか思ってしまう。
そう。HPなんて代物は、にたようなモノを好む人が、集まって来る代物。
「類は友を呼ぶ」の言葉通り。
実際世界は狭い。
そして、何をやっても、どんなにやっても、最高でも三分の一にしか理解されない。
自分をどんなに磨き上げても。きっと。そう思う。
スピルバーグ監督と言う人がいる。知らない人はもぐりだ。
この人は、「ディープインパクト」みたいな三分の一どころかもっともっと多くの人に支持される
エンターテインメントを作ったかと思えば、
影で「シンドラーのリスト」を作って居たりする。多分、こっちの方が、スピルバーグ監督が作りたかった代物だろう。
多くのモノに支持されるものには、共通項がある。
「伝える相手を、見ている。」
たとえば、CGを駆使すれば、有名俳優を使っていれば、予算がいっぱい掛けられていれば、
まずお客はおっ、と思うだろう。
そして、ディープインパクトを例にとれば、地球が破滅する、という人間の生存本能に訴えかけるテイマ。
派手な音響。様々な同時進行のストーリー。たとえこのサイドストーリが楽しめなかったとしても
こちらのストーリは面白い。だからいいや。等。
つまり、観客は、自分からこれを理解しようと歩み寄らなくても、勝手に向こうが
どんどん歩み寄ってくれる。だから楽に楽しめる。だからエンターテインメントなのだろう。
つまり、様々な要素を組み合わせることで、本来は三分の一の人の心しかつかめないところを。
二時間の間に詰め込まれた様々な要素によってほぼ全員の心をつかむ。
ここはつまんないけど、ココが面白かったからいいや。等。ってことです。
シンドラーのリスト。コレは、最初から、最後まで、殆どテーマを動かさない。
一つの要素を突き詰め続ける。私はこの映画は大好きだ。自分から理解しようと少しでも思えば
とめどなく涙が出てしまう。そんな映画。
ほんの一秒も、無駄なく表現している。凄い映画だった。
天才なんて言葉は嫌いだけどスティーブンスティルバーグは天才だ。
俺はエンターテイナーではない。
けれど、少なくとも、伝える相手の顔ぐらい、見てみたい。
なぜなら、俺は誰かに伝えようと、もっと多くにもっと深く伝えようと、HPを立ち上げた。
誰か私を否定してください。批評してください。
私は「ひとりよがり」という言葉が、大嫌いな人間なのです。
アナタの、視点から見たモノは、それは一つの真実であるとおもうのです。
もう何ヶ月ぶりだとかそういうのは無しにしましょう。
ボクはダメ人間なんです。
きっちり物事をこなすということを続けてると
そのうち煙がでるんです。ってか出ました。
はぁ。なんだこのダメダメぶりは。
何で俺はこんなに表現をしたがるんだろうか。
詩の様なものを書いたり、
エッセイぶったりするようなものを書いたり。
実は芝居もやってるんです。
多分寂しがりやなんだろう。誰かに話を聞いてもらいたいんだろう。
誰かとつながっていないと怖くてしょうがないんだろう。
とか自分でいってみたりして。
でもそのくせ。
人にいろいろと解釈されるとむかついたりしてね。
最悪ですね。
今日寺山修司展をわざわざ新宿くんだりまでみにいってまいりました。
寺山修司は言葉はその人の墓標だっていってた。
墓はいらないって。
ことば。
残るだけ。いくらでも解釈され曲解され利用されるもの。
なのに。
なんでなんだろう。
それでもタダの墓よりは全然いいってことなのか。
単なる墓石より全然人の心を振り回し続けるし。
あれだけいっぱい表現しまくってた人なら、
勝手に自分の言葉を語られたりしてむかついたりしたこともいっぱいあったろうに。
それでも寺山修司は言葉が墓でいいっていってた。
悔しいけどわからない。
ただみんなに俺がいたってことは覚えててもらいたいとは思う。
ちくしょうめ。
ああきっともっと深いことなんだろうな。
100年たったら分かるかな。
それでもきっと表現しつづけるんだろうけど。
ずっと叫び続けるんだろうけど。
ちょっと我に返ってみたんです。
今回はそんな話でした。
ほこり【誇り】
誇ること。自らそれを名誉とする感情。「-を持つ」
(岩波国語辞典より引用)
ほこり【埃】
とびちる、粉のようゴミ。「-をかぶる」
(岩波国語辞典より引用)
Pride-名詞
1・自尊心、誇り。2・うぬぼれ。3・自慢の種。
(小学館ラーナーズプログレッシブ英和辞典より引用)
誇りは人間だけのモノではないらしい。
動物にもあるらしい。
ライオンは「誇り高き王者」とよく人間が言う。
が、俺は生物学には詳しくない。知らないのだ。
人間は、少なくとも俺は、存在意義の一部にプライド。誇りがある。
自分の中での尊厳。自分が苦痛に耐えられたりするのも、きっとコレのせいなのかもしれない。
いや、間違いなくそうだろうと思う。
だから辞書で調べてみた。
人間は存在意義-アイデンティティが無いと生きていけないと思う。
なぜだかそのように仕込まれているらしいんだ。人間て。
誰かに必要とされているという意義。これが無くなると人間はさびしいのかもしれないし。
人に愛されるという事の安心感はコレなのかも知れない。
宗教を信じている人間が神は無限の愛をもって人を包んでくれると仰る事をしばし耳にする。
人は存在意義を神によって保証されているのだ、と。
やはり、宗教のない人間は不幸の様に思う。
「ボクハ、ナンデイキテイルンダロウ。ナンノタメニイキテイルンダロウ。」
人はコレを考えずにはいられない。
愛すべき異性が居るからその人の為に。愛すべき家族が居るから家族の為に。神の無限の愛の元神の為に。
これは充分過ぎる理由だ。
俺には胸に開くような不安を埋められるほど充分な愛はもっていない。ならどうすればいいのか。
自分で自分を愛してやるしかないのだろう。
それが誇りというモノなのではないかと思い始めた。
自分が嫌いになりたくないから、頑張る、努力する。必死に。
それで自分を認めることができれば、安心する。プライドが充足する。
しかし、いったん自分の中で自分なんて埃の様な存在だと思い始めたら。
もう絶望は止まりにくいね。
自分がダメだと思っていることを他人に言われたりね。
自信がなくなるほど、プライドも揺らぎやすい。
逆に言えば、自信が無いほどプライドが高くなっていくかも知れない。
以前、こんな話を聞いたことがある。
「プライドは、自分がこうでありたいという姿の事をいう」という。
自分だけのプライド、自分の中でのリソウの自分ということで。
俺にはプライドがあるのです。
俺は芝居をやっている人間なのですが。
俺は自分の与えられた領域をBestを尽くしてやり遂げるという。
俺のプライドです。これが。
これが崩れたら、俺はただ生きることそのものが目的としてるような
享楽的な生き方しかできなくなるんでしょうね。多分。
ぞっとします。
今井美樹の名曲「PRIDE」より
「だけど今は、あなたへの愛こそが、私のプライド。」
今多分これを聞くと俺は泣くことが出来ると思う。
大分、お久しぶりです。
然し何ですな。まるでオオイタさんと言う方に挨拶してる
文章に見えるのは私だけでしょうか。
私だけです。はい。
久しぶりの更新となりました。
ちょっと元気が御座いません。
だからあまり1人ボケ突っ込みが激しくないですね。
ノリのへこみ気味な1人ボケ突っ込み・・・。
うわ。なんて最悪な響きなんだ(笑)。
可能性の努力。
誰もが夢見ることを許された、まるで
パンドラの箱に残された希望のような言葉。
今回のタイトルです。
目指すものが可能性である限り、
可能性そのものは決してその人を裏切ることはないでしょう。
人生は皆ギャンブルなのかもしれません。
やはり百パーセントは無いのです。
しかしその百パーセントがないという事実だけは、百パーセントなのでしょう。
うわー。書いててビックリしました。
自分、へこんでますねー(爆)。
パンドラの箱から最期に出でた希望
パンドラの両腕は空を切り
そのもやの様なものはふわりと何処へか消ゆる。
人はいつまでもその希望を追い求め
そして人は地獄を見て死に絶えていく。
そこに希望があるために。
そこに努力の余地が残されているが故に。
そして人は死ぬ瞬間、微かな光を見、
希望はそれを見て微笑するのではないだろうか。
とか。
うわー。すんごい刹那的な感情だ事。
でも、みんな欲しいものがあるのだから仕方ないのだ。
可能性を求める努力をする限り、その余地がある限り
きっと人はいきられるわけだし、そのプログラムを遂行し続けるのだ。
きっとね。だから我々は求めるんでしょう。
欲しいから求めるし、求めるからこそ欲しいのだ。
人間とは欲望の生き物だぁね。
認めたくは無いけれど。
結局はそのサイクルは延々と続く。
最近疲れてきてるので文章もぶっきらぼうだー。
わー。わー。
と、そのように頑張っても全くテンションが上がりません。
所で。
最近なんだか嫌な考えが浮かんでしまいました。
今回のネタに直結しています。
人間は、前に進みたがりな種ですけれども。
前の時代より進みたい、進化したいという欲求を持っているわけですな。
んで、その結果、地球はここまで追いつめられましたと。
何で地球はそんな動物を産んだんでしょうかと。
きっと何か必要があったのか。それともバグだったのか。
ところで。人間が進化できた。もしくは文明を発達させてこられたのは
紛れもなく文字の存在でしょう。
人生は2倍3倍にする事はできないが、それをかきのこすことはできた。
経験にしろ、知識にしろ、哲学にしろ、人生その物にしろ。
其れをみて、人は学んでいき、そして科学は発達し、人間は自然を支配することが出来た。
この繰り返しで、人間はどんどん高度になっていくように思えたのですが。
限界はありました。
やっぱりね。文字から読み取るには其れ相応の器、土壌が本人にないと駄目なんだすよ。
んで、それを手に入れるには、やっぱり経験が伴わなくてはならなくて。
やっぱり、歳を食わないといけない。
科学は単純に発達していくだろう。今の状態はまだ、今までの科学の知識を
本を読むことで収容することはできる。
しかし、人間的な質と言う点ではどうだろう。
ここら辺の話は、左翼と右翼、理性と本能、ニーチェとキリスト教とかに触れなきゃ行けなくて面倒くさい。
しかし。
人間は最早かつての偉人に追いつくことは何とか出来ても、
追い抜くことは出来ないのではないだろうか。
結局、どの人間も一つしか人生を与えられていないのだから、
どの人間もたった一つしか人生を与えられていないのだから、
膨大な時の流れで言えば、思想は逆流し繰り返すし、
美人の概念はデブ→ヤセ→デブと繰り返すし
日本はこんなにでかくなっちゃったけど、
その元をしらずその文化の頂点から生まれてきた子供達は
その頂点の位置エネルギーの高さに不安が爆発しそうですよ。
結局積み上げて、その上に立ち続けるのは貴方ひとりではないのですよ?
全ては壊され、また作られ、そして繰り返されていく!
善も悪もなく、結局あるのは、結局一番イイとされるのは
拮抗し続ける二つの力の最高のバランス?
そしてその最高のバランスは一瞬のみなされ、全てはまた無に帰し
そしていつの日かまた為されるのだろう。
それが繰り返されるウチに地球は壊れ
そしていつかまたもう一つの地球は作り出され
またいつか宇宙が壊れ、
またいつか宇宙が作られて。
結局は繰り返しなのかなあ。
喉元過ぎれば、熱さは忘れられてしまうのかなあ。
人は過ちを、その痛みを、苦しみを忘れてしまうのは宿命であり、
また、
DNAに刻まれた運命なのかなあ。
わたしゃあ全然判らないんだけど、一体どうすればいいのだろうねえ。
そして眩暈が非道くなってきたので寝ることにします。
たまには自分の事も書くべきだと思う。
と思うので書きます。
最近言葉が宙に浮いてたし。
WORDSや@3もいまいちしっくり来ないし・・・。
よく言われることがある。
若いね、と。
ついこの前まで分からなかった。
若さの衝動が出てるのかもしれないとも思った。
違ったのだった。
なんと自分が一番嫌いな「幼さ」だったらしい。
(こう言うことを自分で言う辺りも幼いけれど)
この前、インターネットサーフィンをした。
ある人のページをみた。
鳥肌が立った。伝えたいものに妥協が無かった。
迷いもなかった。
私のページを見て貰えれば分かると思いますが。
このページは全く妥協と迷いだらけです。
どうしましょう。困ったもんだ。
自分が一番嫌ってた、作るものに対して自分への覚悟をしきらない
人間であったことに嫌々ながら気づかされた。
いや、知ってはいたけど認めたくなかったよ。
認めされられちまいました。嫌々。
その内リンクにのせますよ。そのページ。
個人のホームページだって事をいいわけにして・・・・・・。
俺は何やってんだろ、と。
ちょっと最近胃が痛くて参ってます。サクロンのまなくっちゃ。
私はいま、演劇に取り組んでるけれど。それすらいいわけにしてるのかも。
いや、してるんだろね。ああ。胃が痛い。
その内何とかするかもしれない。その時はもしかしたら注目です。
多分一番最初にこの思いの影響が出るのはエッセイでしょう。
しかも@でしょうね。みんなはどう見てるんだろう@を。
不安だー。だれか教えてくれる親切な方募集中。
たまには、日記っぽい事を書くのもいいかなあとも思った。
さらけ出して逃げるのは嫌いだけど
それを見せ物に仕立て上げるのは嫌いじゃない。
テストも終わりましてのほほんと日々を過ごす今日この頃キャロで御座います。
いやあ。もう更新のぐうたらも勢いづいてきましたな。
テストえぐいんだもの。きついんだもの。
学生って仕事してねえからとりあえず学業が本業だとか言われるし。
・・・・・・まあ、きっちりと義務をこなすという根性を身につけるには丁度いいけどね。
でも勉強ってあれじゃない?
結局は、人の言うことを鵜呑みにして、覚えていく。そういう物のような気がする。
覚えるのに納得いかないこといっぱいあるでしょう。いっぱい。
数学なんてどうよ。なんの役に立つっちゅうねん。ねえ。
「そんなことできてから言えよ」
もっともでございます。言わせてもらいますがわたしゃ出来る方ですとも。
来年は理系に進みます。
でも、三角関数とか色々、どうですか。覚えてる最中はワケわからんのですわ。
そうでしょう?
・・・・・・まあでも色々いったけど。
覚えてる最中に思う不満。自分じゃない物が自分の中に取り込まれ組み込まれる不安。
両方すごいあるんだけどね。勉強が嫌われやすい所以だしょ。
ある先生が言っていた言葉がある。
「学校は、役に立たない学問を覚えられるからこそ、価値がある。」
わけ、分かんなかった。。。全然。
色々考えたさ。で、今でてる考えとしては、
「本当に重要な物は、実生活に必要なものだけを覚えていくだけでは役に立たない」
実生活を生きていく上では、自分が必要と思った物しか覚えない・・・。
本当に必要なもの気づかない・・・のかな?
数学も、今は訳が分からず学ぶだけだけれど、
それらはパズルのピースの一つ一つで
もしかしたら・・・・・・もしかしたら、それらのピースを集めて組み立ててみたら
他の実体験生活や、自分が必要と思って集めたピースも組み合わせてみたら
・・・・・・すんごいものが出来るかも知れないよ?
わかんないけどね・・・。期待はしたいよ。やっぱ。
自分が納得行かない価値観を受け容れる。
勉強の魅力なのか?
今自分の価値観を最重要視する時代だけど。
だからちょっと、
逆転の発想をしてみた。
(注・決して自分でこれを完全に受け容れて勉強しまくってるワケじゃないので悪しからず)
ふう。九日目の更新。離れたっすね。
(ちなみに今日は友人のしのが26歳になってしまいました。ナイスミドルです。おめでとう。)
あいだがあいた。駄洒落っぽいっでしょうか。
これ以上続けると死ねと言われそうです。辞めましょう。
あ、この場合辞めましょうというと人生辞めましょうみたいになっちゃうや。
止めましょうです。ちなみに病めましょうでもありませんから。
えっと。どういう話だったっけ。
えーと。はい。あれ?うーん。おりゃ?
そうだ。糸口だった。
話はモンゴルまで飛びますね。
モンゴル。首都はウランバートル。
最近は急激な成長に相成ってマンホールベイビーが増えて
大変なんだそうで。
いやはや。経済成長の二面性。
しかし、皆さんはモンゴルという言葉を聞いて
思い浮かべるのはマンホールの中で飢えて苦しむ子供達ではないでしょう。
きっと。
あの。
日本になんぞあるはずもない。
大草原。
それでしょう。
でも、草原の中で飢え死にする子供を連想できる人はいるのかな。
モンゴルは遊牧民族です。テントを立てて、それを移動させて暮らしています。
モンゴリアンは基本的に土地を持ちません。ばからしいから。
あまりに広大な自然を奪いあうことそれこそが愚。
また、モンゴルの人たちは共同体意識が強い。客人は身しらぬ人でももてなす。
素晴らしいモノがある。
日本では、半ばあり得ない光景。そこには、広大な自然のごとく包むような優しさ。
「やっぱり日本人は都会文明に侵されて人格を病んでしまっている」
「もんごるの人たちは思いやりに溢れている」
多分こんな言葉が出る。でもそれは違うんだよ。
なんで
なんでモンゴルの人たちは客人を見知らぬ人でももてなすと思う?
何故なら、モンゴルの広大な自然の中では、いつ、自分が遭難して助けを求める羽目になるかわかりゃしないのだ。
客人をもてなすことを否定すると言うことは、自分は見殺しにされても文句は言えない。
そういうことだ。
生きるための知恵。共同条件だ。
思いやりもあるだろう。しかしそれが全てではない。
「そうする必要」があったのだ。
昔の日本でも同じ事が言えた。江戸時代には、五人組という制度があった。(説明省略・知りたい人掲示板に書き込み)
明治に入ってからも、人間関係は主に地縁を中心とする地域社会だった。
しかし。戦後にはいってから、地域での人間関係は必要条件ではなくなった。
人の事を思いやる必要性はなくなった。一人でも遊べるゲームはできていった。
情報は人づてに聞かなくてもよくなった。それどころかムダに溢れるようにすらなった。
人のことを思わなくても、日本国民はほら、こんなに豊かに生活しているではないか。
こんなにも豊かに。
「思いやりは、見返りを期待してするものではない」
知ってるよ。
ただ、その価値を知るまで。思いやりの本当の価値を知るまで
本当に、皆最初から人を思いやり、優しくしたのだろうか。
例えば最初は神が見ているから善いことをしなければいけないという思いはなかったのか!
・・・まあ。分かってない人間が何を言っても所詮推測。
しかし、日本社会が爛れたのは必然。
何故なら、成長した社会に於いて人間の個人化は必然。
社会の紐が焼けただれていくのは、必然だろう?
その紐のひとつに、人の事、周りの事を考えられる事、即ち
「重い槍」があった、ということは、きっと言うまでもないのかもしれない。
やあやあ久しぶりです。
相当間があいてしまいましたな。
なんですか、丸一ヶ月じゃないっすか。
ふうー。ダメだね。サボリ気味。しかし、俺も17。
部活の責任者に近いことをやる羽目になるお年頃なのです。
胃が痛い痛い。痛いよ。全く。うーん。
それは全く持って管理者の近況だからそれはいいんだけどね。
以前、故・逸見氏がある宣伝に出ていた。
あのおじさん親父ににてんだよなあ・・・。関係ねえよ。
「家族の為に大切なのは・・・オモイヤリ!」とかいいながら
かなりでかい石器時代の槍を必死(そう)に持ち上げているCMだった。
たしか、保険のCMだった。まー保険を愛情と置き換える、よーあるCM。
重い、槍なわけやね・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
一般社会の近況として、いや、戦後まもなく高度経済成長期に入ってからの話。
「此の社会には思いやりが失われてしまった」
そんな話を耳にしたりしなかったり。
まあ、現代という腐った時代の中の悲しいお話、その一つ。
よく其の原因として言われることは、親が子にちゃんと教育をしなくなった、という。
「こんな時代だからこそ、ちゃんと子供を教育しなければなりません。」
あらかじめ、断って於きますよ。
俺は、思いやりのない人間です。
だから、別に調子に乗って社会批判するためにこんなんかいてんじゃないのよ。
極端な話自己分析よね。
話は戻る。そんな簡単な話ナンデショーカ?
分からないけれど、俺は少なくとも親の愛情は受けて育った方の人間な筈。
しかしそれなのに親の愛情すら義務に見えるときすら、ある。
これって思いやりの欠片もないでしょう。
人に無条件で優しくする人を、とき、たまに見かける。
私は信じられなかった。
私は、自分が気に入られようとしている人間にしか優しくしてないかもしれない。
いや言い直す。
してねえよ。実際。
ヘタしたら、親や親友等が死んでも私は涙はながさないんじゃナイデショーカ。
最近では、人すら、愛することが出来ないのじゃないだろうかとすら思う。
いやあ。感情より先に頭で理屈が完成してる。どうしようかな。ホント。
んで、最近やったら悩んだ。考えて考えて、かなりエグったともさ。若いしな。
そういうお年頃なわけだ。
自分では認めたくないトコロなんだけど。
そんで。
最近、其の糸口が見えてきた。
又次回。
すっかり寒くなってきた。
もう手とか摩擦しちゃうね。暖かくなるし。
いいね。あれは。
最近じゃ、アメリカあんまり五月蠅く
貿易摩擦の事いってこなくなったよね。
やっぱり、都合いいよね。とか思うのはひがみかしら。
ごめんなさい予想通りテーマとは「摩擦」って単語以外なんの関係もありません。
土曜日、日本経済新聞朝刊には、知る人ぞ知る
[Nikkei X]という特集ページがある。
あまり新聞を読まない無知無恥なオレも
そこだけは読むというページ。
取り扱っているものはコンピューター・アート等
様々な最新の話題を前衛的な記事でえぐり抜いている。
その中でも毎回一面を飾るテーマがある。
「最近の、若者の状態」
決して他の軽い流行雑誌や、テレビ、
または、ウリがなんとかこーとかと「近頃の若いモンは」と言いたがる
ご年輩方を喜ばせる誇張記事なんかと一緒にしない方がいい。
全然重いし深い。
其れの12/11土曜日。テーマは
「人との摩擦を楽しむ若者たち」
というものだった。今まで意見の合わない人とは付き合わず少人数徒党を組んできた
若者たちが急変し、最近では議論を酌み交わす「トークライブハウス」なるものもあり、盛況しているという。
ずっと昔から思ってた。
「クラスのみんなが、いったい何を考えてるのか分からない。」
軽い話は楽しい。大好きだ。
でも、其処から先は、仲良くなっていってもなかなか、無い。
ましてや、そこまでまだ親しくしてない友人なんかに将来の話題になり
オレは少しマジメに話したら(本人普通の会話のつもりだったが)
「お前、急にまじめになんなよ。くせえよ。」と、言われた。
以来、「クラスの友達」には、本心は話してない。
やはり親しくなって、よく一緒にいるようになっても、
自分の内心を相談できる人はいない。
いや、相談を真に受けてくれる人が殆どいないのだ。
みんな少し照れるというか、真っ向な言葉は言えないというか。
もう、根本的な感覚が学生闘争の時とは違っているのだろう。
だから、クラスの中でみんなと話していても、
本当のところでは皆1人に見えた。
それが、「クラス」という空間だったようにも思えた。
だから、その記事を読み始めたときは嬉しかった。
ああ、やっとあの空間が変わっていくのか。しかし、読むにつれて少し気分は沈んだ。
議論をして楽しんでいる多くの若者が生まれている。
でも、彼らの大半は、ゲームである「ディベート」を楽しんでいるのに近いと感じた。
自分の生身が其処に置かれたら、
本当に其れをしていられるのかとも思った。
ほぼ17年生きてきて、勉強とか色々問題は積まれてきたけど
やっぱり、一番大きな問題は人との繋がり等の問題だった。これからも、そうだろう。
やっぱ、一つ、一つ、解決は出来なくともしっかり取り組んでいく、べきなんだろう、とか。
1999/12/11(土)「Homepage rhapsody2」
rap-so-dy 名詞
(古代ギリシアの)叙事詩の吟唱部;狂想詩;熱狂的な言葉(about,over);狂詩曲.
(デイリーコンサイズ英和辞典より)
狂詩曲・・・単純な主題を自由な形式で歌う曲。
(三省堂 実用国語辞典より)
と、まあ。いきなり引用で身を凍らせた人手を挙げて下さい。
あ、2人もいますね。このクラスはできが悪いですよ。
田中君、鈴木君も、この位の事には慣れておきなさい。
先生コントは此位にして。
しかし、現在のホームページ作りのやりかたとよく似ている。
熱狂的な言葉、熱意。「単純」な主題を「自由」な表現形式で。
そっくりだ。
以前、この言葉を辞書で調べたとき、妙に頭に残ったのでタイトルに
使わせてもらったわけだ。
決して語韻がいいからだけじゃなかったのよ実は。
正直、今ホームページを作っている人の大部分がとらわれている物。興味を注ぐものは
「アクセス数」である。
あの「あなたは『』人目にこのホームページに来た方です」というアレ。
一度やってみて判ったが、これは一つのゲームの様に人を熱中させる力がある。
最初は、自分の作品はせっかく苦労したんだから少しでも多くの人に、とかなんとかと思って
言ってるんだけどね。んで、そういう人たちは「アクセス向上50の小技」とかなんとかいう
ホームページをみるわけだ。そこにはいっぱい方法はある。
その中の基本として、前回も書いたけれど「見る人が得をする情報」
これが必要であるとされる訳。
みんながみんな、最初から〜の情報を提供したい!と思ってやるんではなく、
最初は、自分が満足するものを目指していく。そしてそこそこコンテンツが出来上がる。
この時点では其処まで情報誌的な事は乗っていない場合が多い。
ここで欲が出る。もっと見て貰いたくなる。ホームページを作るような人は
多少の自己顕示欲が有ると言うことだから(例外なくワタシも)。
そこで、情報を乗せようと踏ん張り始める。
自分の持っている情報を惜しげも無くさらけ出し始める。
恐らく、皆最初からサービス精神のみでやっていくのでは無いのではないだろうか。
そして段々、HPを見て貰うためにアクセス数を上げようとしていたのが、
いつの間にか逆転し、アクセス数を上げる為にホームページを作っている。
そんな例は、このインターネット上でありふれる程有るのではないか。
「本末転倒」そんな言葉が頭に浮かんだのは暫く前の事だ。
「その情報サイト、作ってるのが『お前』じゃなくてもいいじゃん。」
せっかく、色々な個性が主張できるインターネット。
そんな場所で「ありふれて」どうするんだろう、とか。
「『お前』のラプソディは、そんな物?」
多分こんな事書けば非難は飛んでくるかも。
でもやはり、俺は「お前」なりのものを魅せて欲しいのだ。
さて、そこで自分に質問。
「『お前』のラプソディは、そんな物?」
・・・。
1999/12/8(水)「Homepage rhapsody」
「ホームページ ラプソディ」。今回のタイトル。
実は今回の更新で、今までタイトルの付いてなかった
各エッセイ(日付だけだった)にタイトルをつけてしまった。
・・・コピーライターの才能が枯れてるよ・・・おい(汗)。
開設の解説・・・駄洒落じゃん・・・。
いいのです。キャロは駄洒落が好きなのです。
日本語って最高ね(謎)。
でもまた気が変わる度に変えるんだろうなあ・・・。いいのかよ。だめだね。
読者の事考えてないね。と。自分で先に言っておこうか。
そう。読者。それはホームページに欠かすことのできないもの。
読者がいなかったら、全く持ってこんなエッセイなんか独り言そのものである。
完全な「ますたーべーしょん」ってやつだ。おっとやべ下ネタに走っちゃった。勘弁勘弁。
でも個人サイトって、マスターベーションが多いって言われてる。
日本語で言う方が解りやすい方のために。「自慰」だ。
「自分を、慰める」って書く。聞くだけで哀しい。様な気がするのは筆者の若さのせいか。
現実社会で疲れた人間が、そんな自分を見てよ、と。
自分だけで納得して。自分だけで満足して、と。
つまり、他の人から見たら見るだけで邪魔な物を無理矢理見せられる訳だ。
「可愛いお子さん」の顔の乗った年賀状の様な物だろうか。
年賀状は、住所がある。人間に立場が存在する。
いや、インターネットにそれが全くないというわけではないけれど。
でも、年賀状は見てくれる。それに本当に子供が可愛かったら面白い。
いや、面白いって言うのも結構な失礼な訳だけれど。
それに、子供可愛さに加工してある写真の技術の方が凄かったりする場合等etc...
いや、ハナシがそれてる。
ホームページ-「インターネット上にて展示される情報を乗せたもの。」
インターネット-「世界中にWWW(World Wide Web)という情報網を貼ることで世界中での更新が可能な空間」
(〜キャロの乏しい知識より独断と偏見で生み出される認識より〜)
誰も私の肩書きにへこへこして、おべっか使ってくれる人なんていない。
だって、みんな、同じトコにいるから。
へこへこしてくれるそんな組織体の人間より、ずっとずっとずぅっっと!
インターネットってのには、人が溢れてはみ出している。
いや、現実でもいねいってのは。まあ、言わないで。
内容で決まる。見た人がどれだけ得が出来るか。それで決まる。
だから、よく言われるホームページ作りの基本中の基本。
「ホームページは、テーマを決めましょう。」「出来たら、狭く深くした方が人は来ます、情報は。」
「タイトルは解りやすく。〜のホームページ何てのは最悪デスネ。」
「お役立ちページは人が来る傾向にあるようです」
はい。スイマセン。こんな文章を書いてる僕は完全なマスカッキーさんです。
ケンタッキーさんと・・・いや、ごめん。間違えないね。
でも。俺だってそれを知らなかった訳じゃないんだよ。さすがにね。サイバーネットキッズだし。
では、なんでなんだろう。
「キャロは、発表できるような深い造詣を持つ趣味がなかった
または、情報を持っていなかった。」
否定できません。でも、それ以上に。
「そのページは、”キャロ”でなくちゃ、作れない」
そんなページが作りたかった。作りたかったんですよ奥さん。
1999/12/5(日)「匿名論議」
前回、HNについてしょうもなさげな雑談をした。
実はこういう内容で締めるつもりじゃなかったのに。
ああ、貧弱な文才が露呈・・・。(・・;)
ふ、まあいい(何がだ)。
書きたかったのは、インターネットでの実名論議について。
そう、これを書きたかったのに、どんどんハナシがそれちゃって・・・(ーー;)
実は、今インターネットでちょっとした論議が起こってる。上にも書いた
実名を使うべきか否かと言うこと。
何故、実名を使うべきか。このことはインターネットをちょっと長くやった方なら
分かると思うけど。インターネット上の発言って責任が無いんだよね。
こうやって俺の書いているエッセイみたいなもんも
(え、そんな高尚なもんじゃねって?俺もそう思う)
完全な、垂れ流しだっしょ?顔が見えないのに意見みたいな事を言ってる。
発言に伴う、責任がない。中空に浮かぶゴミのようなものになる。
でも、当然意見はそればかりじゃない。匿名を支持する意見はこうだ。
「ネットは、立場・性別・年齢が関係ないから面白いんじゃないか」
俺はこれはもっともだと思う。っていうか、殆ど俺の意見。(だめじゃん)
ただ、この意見を「キャロ」っていう名前で発言しても、確かに責任はない。
ちょっと格好良くして「Carro・伽櫓」で発言しても没だ。
然し、インターネットでなければ、16歳の俺がこんなにも色々な人と知り合える
事はなかっただろうと思う。現実社会では奇跡に近い。
これは、あまり年齢が念頭に置かれていないコミュニケーションをしたから、
では、ないだろうかと思うのだ。確かに、仮想空間の現実からの逃げなのかもしれない。
「でも。」
と。やはり俺は思ってしまうのだ。
いつかはインターネットも完全ID制になるだろう。それまで。
それまでで、いいからと思う。
1999/12/4(土)「ハンドルネーム・秘話」
キャロというHNの逸話。
実は、小学生の頃のあだな。
一部の人が思うような「ピ○・キャロット」から来てるのでは断じてない。
ここチェックね。重要な所だから(笑)。
多くの人がそう思うように、キャロットが関係しているのだけれど。
ナゼか、俺のあだ名が人参だったのだった。
記憶では、「人参飲んだ♪」という健康ジュース
確か、緑黄・・・まあどうでもいいけれど。が流れていたときに
「お前は人参だ。」と言われて、ふざけて人参になっている内に
人参と呼ばれるようになり、キャロットと言われるようになった。
そしてキャロである。今でもごく一部の人間は俺の事をキャロと呼ぶ。
「けんた」というやつで、なかなか頭が良くてしかも運動も出来るという、
なんだかバッチリなヤツだった。
それから月日が流れて、高校生になり、インターネットを始めて
ごまチャットを見つけたその日隣にいた友人(ランス君といった)に
「お前なんかあだなッぽいの考えないと」
「え、なんで?」
「だってお前本名で入ったらやべえじゃん」
ってことで、小学校の頃のあだなを適当に付け、
今ではなんとHPのタイトルにまでなってしまった。
そんなキャロさん(16)に自分のHNについてインタビュー。
「キャロって・・・やぼったくねえか・・・いまいちキレがないよね・・・えぐいっすよマヂで。」
これを俗に世の中では後の祭りという。
1999/12/2(木)「環境適応能力」
タネをばらすと、実は2日といっても
現在夜の2時である。
明日はかなり爆睡しそうな予感がする。
かなり不健全である。もうだめだと思うほどだ。
お前本当に高校生かよという状態。
ダメダメボーイズ(TVネタ)に入れそうな予感。
「ダメダメボーイは今日もダメ♪」
はいすいません。ダメダメでした(笑)。
いつから、こんなに起きていることに慣れたんだろう。
昔はこの時間帯に起きてたら
「なんぢゃこらああああああ」というGパン(本名柴田純)バリの
叫びと共に戦慄してしまったものだ。
今ではもうのほほん茶をくぃっと飲んで
「はぁ、うめえ」である。
つまり、状況に慣れてしまったんだろう。と思う。
「慣れ」は人間、というより生物の大いなる環境適応能力の派生なんだろう。
気づけば、この「慣れ」によって非日常は日常に変わり
当たり前は当たり前で無くなっていくのだ。
この前、私は一つの固定観念を壊すような経験をした。
悲しかった。この世に普遍のものが無いという事への哀しみは
相当大きい物であることを改めて知った。
そう。「慣れ」て当たり前になっていただけに、だったのだ。
がらがらという音が聞こえた、そんな気がした。
時は全てを押し流すのだなあとか、考えたりして。
すこし、感傷的になったりしてね。と。
そんな事いうまに、寝ろ!と自分で1人ぼけつっこみを入れて置く。
・・・・・・寂しい(笑)。
1999/11/30(火)「ヤング・ピーポー」
キャロは今現在16歳である。
いわゆる、「ネット社会」ではかなり若い層にあたると言えるだろう
その割には結構2年ほどネットをやっていたりする。
なんかサイバーネットキッズ。かっこええ。
その中で俺はようチャットをする。例のハンドルネームを使って。
よく言われることがある。
「ボケボケじゃん(笑)」「え、16歳!若ッ!」
「もっと老けてると思ってた(^_^;)」「顔おっさんやもんな(例外)」
「16歳のしゃべり方には見えない。」「こむずい事はなすねんなあ」
と、まあ。こんなもの。
よく言われる。小難しいこと話したがる。と。
ある人に言われたことがある。「頑張って背伸びをしているね」と。
そうなんだろうなあと思う。
俺は焦っている。何故なら自信がないからだ。
大きくなりたい。早く、大きくなりたい。
そう願う内に、心を枯らしているような気もする。
自我意識の発達。悔しいね。そんな簡単な言葉で表されてしまうのは。
いまクローン問題で、人間の科学が手を踏み入れちゃ行けない区域に手を出してる
と言われているけど、心理学こそ、俺はそうなのではないかと思う。
人の想いに、病名つけるのはとてもつらいんじゃないのか。
ダメなことではないのだろうか。
「このことも、いつか笑って話せる日が来るわよ」「今辛いのがいやなのにな」(こどものおもちゃ 集英社より)
全くもってそーであると、幼い俺は思ってしまうのだ。
1999/11/28(日)「開設の解説」
今日、このコーナを開設する。
タイトル通り何を書いたらいいのか全くもってさっぱりだ。
正直ごまかしごまかし行こうかなとか思ってたりして。
近頃私は馬鹿みたいに暇である。
本人も阿呆であるから手に負えないほど暇である。
若い身分、こんなに時間を無駄にしていいのかとも思うほどだ。
そういえば近頃寒い。日が落ちるのが早いと感じる。
この前までは暑さで頭痛までする程だったのに。
時間ってのはあっというまだ。
「人生は何も為さぬには余りにも長く何かを為すためには余りにも短い」
そんな故事成語を思い出す。
「若い頃の苦労は買ってでもしろ」
貧乏な私にゃあ無理っぽい。
むしろお金をもらいたいね。若い頃の苦労と一緒にお金も手に入る。
そんな手がなかったか。あった。
アルバイトだ。社会経験を豊富に積める場所として若者の間で人気のスポットだ。
ちがう。職業だ。職業でもないか・・・。
まあいい。今度探すとでもしよう。