| 上島 甚三 |
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上島 甚三。
富山県氷見郡速川村早借在に生まれる。
甚与門の四男「明治30年11月13日」に
山間の貧しい村に生まれた。
早借(ハヤカリ)と書いて“はやかし”と読む。
「貧乏村の早く金借りた」と思われたくなかった
先祖の知恵であろうか・・・ そう読む。
若い頃、23歳まで大阪などで製本屋などのでっち奉公
などをしていたが性に合わず、再び村に帰った。
北海道の開拓移住熱の盛んな頃であり、
甚三は希望を抱いて母親と二人で土地がある
北海道で百姓をやろうと思った。
そして、唐草模様の風呂敷に荷物を背負い木綿の
着物を着て波荒い津軽海峡の海を渡った。
「津軽丸」時は大正も終わりに近い、
大正11年の春であったという。

北海道へ来て最初に落ち着いた所は岩見沢の西の方の
川向という所である。 縄を巻いた丸太の橋を渡って、
むしろの下がった入り口から入る拝み小屋であった。
当時、移住者は皆、こんな家であった。
(娘・照子、京子の語るところによる)
そこで甚三、妻(川南仁一郎の娘・トメ)をめとる。
照子 生まれる。
2年近くそこで暮らしたが、トメの実家の呼び寄せの話があり、
現在の美唄市光珠内に移り住むようになる。
この土地は第3期屯田砲兵(明治26年兵)「上田縫殿治」
(ウエダヌイジ・岡山県人)という軍人が最初に拓いた兵村跡地で、
所有者は当時の財閥“山七”(岩見沢)のものである。
甚三が来る前まで丸山某という小作人が住んで
いたところであった。
屯田兵制度が廃止になると屯田兵たちは
慣れない百姓を捨てて出て行ってしまった。
それを安く買い集め小作人に作らせ年貢米を取り立てるのが
大地主“山七”である。
甚三もやはり小作人になった。
屯田兵保護制度廃止後、政府は大地主制度を認め優遇
したためこのような地主が沢山 現れた。
“山七”もそのうちの一つである。
田んぼが少し出来ているが、ほとんどが
ヨシ原の泥炭地であった。

後世になってみて本当に苦労してこの地域を現在の美田
にした人達は屯田兵の後に入った人達であろうと思う。
何の援助のなく只もくもくと働いた土を
愛した人たちであったのだろう。
光珠内に来て、母親は甚三の落ち着くのを見て
富山へ帰ったという。
兄が危篤だという電報が来たのだった。
人手が欲しくて、ニセの電報を打ってよこしたのだと言う。
帰ってから分かった。
(誰が打ってよこしたのだろう?・・・・・)
その真相を知るために書いているのではない。
詮索はやめる・・・・
海道に心残して、
「ちょっこしィ・・・行ってくるきにィ・・・」と言い残し、
また帰ってくるつもりで出掛けていった母・・・
甚三と北海道で百姓をしようと思った母。
母はそれっきり帰ってこなかった。
それから二十有余年、ずっと甚三は母に会えないのだ。
つづく・・・
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