第2章
その1

 一つの記録

ここに一つの記録がある。

甚三が金銭の出し入れに使っていた、峰延農業協同組合の
貯金通帳の内容である。
これは昭和13年の記録である。

この年に大きな金の動きがある。
これは妻・トメの入院の治療代として払うために引き出した
ものである。


年月日         支払い出し     残高
13年7月29日    50円也
13年8月 6日    100円也
13年8月14日    200円也
13年9月13日    100円也     60円90銭也

調べてみるに,この年、昭和13年は米1俵が(13円40銭)
である。
500円といえば40俵分のお金である。
1反あたり3俵か4俵しか取れない頃である。

貯金のほとんどは使われてしまった。
(この頃、農家の1ヶ月の生活費は30円くらいだろうと
 思われる)
甚三はこの頃、2町歩位しか作っていなかった。
手間もなく、毎年、作男
(森 政義、向山十一、中野渡二太郎さん)
などを雇っていたのである。



その1 一つの記録   その2 財閥 山七   その3 希望の地   その4 時代の終わり   その5 「オッカア」 





その2

財閥 山七

この話は昭和12〜13年頃、農地解放以前の話である。
大地主制度は保護されていたから,大変な貧富の差があった。
小作農民などは その"貧"の代表者である。
生かさず,殺さず。
あまり農民が力を付けないように、厳しく年貢米を取り立てた。
収穫の半分近くも年貢として持っていかれた。
そして、3年に1度は襲ってくる凶作に、家族の多い家などは
食べていくだけで精一杯だったろう

人はこれを「水飲み百姓」という・・・

取り立てた年貢米で、山七は酒「岩泉」を製造し、2次加工をして
付加価値を高め、更に利益を上げた。
当時としては、最高と言われた銅板でふいた豪邸に住んでいた。 新築の時は、小作人は皆呼ばれていって手伝いをして酒、魚の祝儀に酔ったという。
江戸時代の地主庄屋と百姓の関係を見ているような感じがする。

秋になれば帳場の「坂本」と言う老人が、小作人の巡回に来た。
各戸に歩いて回って来て「今年もよく出来たのぉ」などと言って、
出来秋の田んぼを見て確認して行くのだ。
キツネの襟巻きにステッキをついて、何と不愉快な人間として
感じた事だろう。
それでも甚三さんは、頭のほっかむりの手拭を取って,丁寧に挨拶
しなければならなかった。

昭和江戸時代」と言う。
著者はこの6文字を書きたくて7200字もの文字を打っていた
ような気がする。




カ、ウシュナイ・・・「アイヌ語」(獣を捕るワナのある沢)

光珠内の空は青くどこまでも澄んで美しかった。
裏の函館本線に ゴトゴトと音をたてて汽車が走るくらい
のもので、静かな村里である。

今、少し この地の昔の風景に触れてみる。

田地は1万坪(3町3反)
3分の1くらい開墾されていて、田んぼの畔くらいは付いて
いたが、後は境界の排水溝が入っているだけの
"よし原"であった。
泥炭地で、あまり深い泥炭ではないが、大きな埋もれ木の多い
低位泥炭地である。 昔は海だったと思われる。
下から青い海性粘土が出て来る。

屯田兵「上田 縫殿治」の後に円山 某なる者が住んで
いたと言う。
春秋には国道と鉄道との間の北の隅に稲荷神社が祭られていた。
秋には子供相撲などを奉納して、お祭りをしていたという。
信仰心のある人だったのだろう。

「甚三の話し」
づうっと後になって客土をするため その辺の土を取った時
(昭和27年頃)土の中から瀬戸物の皿や壺などが出てきた
記録がある。
お稲荷さんが建っていた跡であろう。
(お稲荷さんは神体が白い狐であり、壺の中に主の狐が
 住んでいたと信じられていた)
神世の昔から続いているような、ゆっくり時間の流れている
一時期であった。  

一部の財閥と金持ちが世の中を牛耳っている時代であった。


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その3

希望の地

だが、夫婦にとってこの地は「希望の地」であった事には
間違いない。


家を新築するため、太いハリ丸太などを買い集め、
今 住んでいる草葺きの掘っ立て小屋を早く建て替えたい
と思っていた。
一生懸命に働いた。
(だが、それらの材料は使うことなく、全部
 腐らせてしまう事になる)
健康保険などという制度のない、づうっと昔の話である。
蓄えていた貯金は全部 病院代に使われてしまった。

夢とは、はかないものである・・・

昭和15年の春だった。
家を建て替えることになる。
(叔父、東 玉吉氏のすすめる話があって)
無尽で300円を借金して、光珠内の高橋という人の家を
持ってきて、家を建て替えた。
こうして、借金によって ようやく家が出来たのだが、
トメはもういなかった。

トメが死んだ翌々年のことであった。

1年 遅かった・・・・



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その4

時代の終り

家を建てた次の年「昭和16年12月8日」
大東亜戦争が始まった。

日本は兵隊さんを太平洋の島々に配置した。
それには色々な理由があったのだろう。
石油を取りに行かなければならないとか、色々な訳が
あったのだろうけれど、後の補給が続かなかった。
そのまま置き去りのようになった。
アメリカはそれらの島々を次々と陥れて日本に
迫ってきた。
島の兵隊さんは次々と玉砕して行った。

何のために戦争をしているのかも知らないうちに
死んで行かねばならなかった・・・
・・・今にして思えば、変な戦争したもんだ。

戦争が末期的な頃になると 全ての国民が困ってきた。
食べ物から物資にいたるまで、全てが無くなって来た。
貧乏に慣れている者は平等になったような気がした。
戦争は庶民の生活に大きく関わっていた。
甚三の家族は誰も戦争に行かなかった。
上が皆,女だったから。
もし行っておれば誰かが死んでいたかも知れなかった。
皆,家業を手伝った。  
そして、4年間戦争をして日本は戦争に負けた。

昭和20年8月15日。  戦争は終わった。

平和が来た。
農地は解放され、小作していた者は安く農地を買う事
が出来た。
苦労の甲斐があり、むくわれる時が来たのだ。
民主主義アメリカは農民を救ってくれた。
水飲み百姓はこの時、平等の原点に並んだといって
いいだろう。
取れた米は全部 自分のものであった。
そして、全部売る事が出来た。

地主「山七財閥」のよき時代は終わった・・・・



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その5

「オッカア」

子供達も大きくなった。
気持ちに多少のゆとりが出来た。

25年前に別れた母に会いたくなった。
行きたくなった。

・・・「オッカア」に会いたい。

富山に行ってみよう。
行かねばならぬと思った。
秋の取り入れの終わるのを待ち兼ねて、甚三は富山行きの
準備を始めた。
25年間の想いを"柳こうり"のトランクに詰め、富山行きの
汽車に乗った。
25年前、母と二人で来た道であった。




昭和23年」春であった。

甚三は、この富山行きに先立って、一つの知恵を
考えていた。
行くと言う事を一切連絡しておかなかった。
突然に富山の実家の玄関に立ってやろうと考えていた。
面白い案だ。
素晴らしい「土産」であった。

長い汽車の旅をへて、氷見(富山県氷見市)の駅に
降りた時、まだ陽は高い午後であった。
早借の村までは56里ある。
歩くには随分の道のりでる。
甚三はゆっくり歩いた。
山も森も すべてが昔のままであった。
川のせせらぎの音は、甚三を歓迎しているように聞こえた。

・・・・ふと、甚三は使いに行っての帰り、夕暮れの家路を
一人歩いた少年の頃を思い出していた・・・

早借の村に入った時、日はとっぷりと暮れていた。
随分と歩いた・・・
途中で誰にも会わなかった・・・

我家の玄関に立って上を見上げた時、熱い物が
こみ上げてきた。
草葺の昔のままの自分の生まれた家である。
母がいる家である・・・

25年ぶりに帰ってきて、玄関で何と言って入ろう
かと思った。
心ときめく一瞬であった。

「おぅ、甚三ではないか・・・」
そこに兄貴の顔があった。
その後ろに母の顔があった。
目と目があった。
涙がこぼれた。
母と甚三は言葉にならなかった・・・

突然の北海道からの帰郷に村の人々まで驚いた。
そして甚三は母のそば来て寝た。
母は積もる話を三日三晩聞いた。

25年間 心にかけていた事を聞いた。
二人は 語り明かしていた。

朝方、甚三は少年の夢を見た・・・・・・・

                        おわり




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