記憶
1人の男が湖畔を歩いていた。
朝靄がかかり、風で起こる波の音と、
その波で揺れるボートの木の軋む音だけが聞こえていた。
男はゆったりとボート小屋近くのベンチに腰掛けた。
都会では楽しめない朝露と森の匂いの混じった空気を楽しみつつ、
空を見上げ、そしてため息をついた。
男は先日、医者に余生僅かと診断された。
そして1人、この湖へ行きこれまでの長い様で短い人生を振り返っていた。
今の都会では光化学スモッグが強すぎて夏の昼間は室内にいるのが普通になっている。
昔は今程スモッグも強くなく、注意報などは出るものの長時間いない限り平気だった。
男がまだ少年だった頃、この湖ではよく子供達が泳いでいた。

少年はガキ大将でもイジメられっ子でもなく、遊ぶのが大好きな子供だった。
夏休みに入り、少年は宿題を早く片付けて残りを全て遊びに費やしていた。
その日、少年は友達4人と湖へ泳ぎに行っていた。
この近辺に泳げない子供などいなかった。
みんなが夏になると川や湖で泳いだ。
その日も泳ぎが決してヘタではない5人だった。
時折岸にあがり、体を乾かし、疲れを取りながらジュースを飲む、
そしてまた入って泳ぎまわる、それの繰り返しだった。
少年が休んでいた時に事は起こった。
友達の仲でも1番泳ぎのうまい子がおぼれている。
いや、ふざけているのかと思ったのかもしれない。
じ〜〜っと様子を見ていた。
溺れていた友達の動きは徐々に小さくなっていき、そして止まった。
それを見ていた少年の心には何の感情も無かった。
友達の1人が死ぬ、それをただじっと見ていただけだった。

男はただ、「そんな事もあったな」という漠然とした事しか思わなかった。
犬や猫が車に轢かれていても特に何も思わなかった。
そして昨日、自分がもうじき死ぬとわかった時、家族を殺した。
妻、娘、息子、母・・・だが、何の感情も表れなかった。
不思議な感覚・・・まるで自分はこの男の目からの映像を見ている気さえした。
自分は別にいて、今、この男の脳にアクセスして、そしてこの映像を見ているのだと。
男はそれを確かめる為、今日ここに来た。
誰もいないボート小屋のボートを動かし、ゆっくりと中心へ進む。
そして自分の足にブロックを繋ぎ、ゆっくりと体を起こす。
後は落ちるだけだと言うのに何の感情も湧いてこない。
男は最後の希望を託し、湖へ身を落とした。
走馬灯の様に過去の事を思い出す。
それを男は体験していた。
小さい頃、自分の記憶の奥底にあったのだろう事を。
なぜ今まで思い出せなかったのか、なぜ今思い出したのか。
男自身にもわからなかったが鮮明にその映像が現れた。
離婚したと聞いていた父親に最後に会った姿。
自分の前で首を切って死んでゆく男の姿を。
その事が自分の奥底の方にあり、
無意識のうちに死というものに対しての感情を殺していたのかもしれない。
それがわかった瞬間、男を包んだのは苦しさと恐怖、そして少しの喜びだった。



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