まっちゃんの歴史
申し訳ありませんが、昔の事は記憶不足のためあまり詳しくありません。
誕生から中学校時代まで!!

 

1966.8.21
大阪のY病院にて、この世にうまれる。

1970.4〜1972.3
兵庫県西宮市のM幼稚園に在籍。

1972.4〜1979.3 (小学校時代)
西宮市立K小学校に在籍。当時で既に創立100周年であった。校舎も木造でボロボロだった。
3年生の3学期に学級委員をした。5.6年生の時、ソフトボール部に入ってた。
委員会活動は、5年生は、放送委員会に入り給食の時に放送してた。木曜日が担当日で、
確か「ワンワンジョッキー」という番組名であった。名前の由来は同じスタッフの6年生の人で、
「犬●さん」がいてそこからつけたのだ。その当時お昼の放送では、音楽を流してばかりの
番組が多い中初めての試みで毎週星占いを放送したところ、大好評であった。
修学旅行は、定番の伊勢であった。印象に残ってるのは就寝時間だった。男子は全員大広間で
寝るのだが、布団は2人で1枚というせこい状況だった。当時も身体がデカイまっちゃんは
とても狭かった思いをしたのだった。よく考えると相手もかわいそうだったのだと、いま気がついた。
6年生の2学期か、3学期に学校中の話題になる事件があった。
それは、風邪で長く休んでいる奴の葬式をまっちゃんのクラスでやってしまったのだ。
それも本格的に・・・。写真を用意して祭壇も作り校舎のいたる所にあの指で書いた矢印入りの
案内を貼って、案内のスタッフも放課後に立っていたのだ。今ならいじめの様に聞こえるが、
そいつはクラスの人気者でそんな雰囲気はまったくなかった。かえってクラス一丸となって
まとまったような気がしてた。言うまでもないが先生からこっぴどくおこらえたのだが・・・。
このころから姉の影響で、テニスを始めた。当時はテニスブームであった。クリス・エバートが
活躍していた頃だろう。宝塚市のOテニススクールへ通ったのだった。
またこのころのから培われた関西人なら誰でも持っている経験もあるのだ。それは毎週土曜日
の昼の楽しみである「吉本新喜劇」がある。これをいつも見ていることによって、関西人の
お笑いのセンスが磨かれていくのだろう。新喜劇の後は、「モーレツしごき教室」(司会は
西川きよし、横山やすし)、日曜日の昼は「あっち、こっち、丁稚」(木村進、山田スミコ、間寛平 他)
金曜日の夜は「爆笑寄席」など、お笑い番組はいっぱいあった。これらが関西人のお笑い
の源であろう。この子供の頃からの頭に入ってくるギャグが大きくなっても
活かされて関西人は普通にしゃべってても,漫才に聞こえると言われるのだろう。  

1979.4〜1982.3 (中学校時代)TOPに戻る
西宮市立K中学校に在籍。まっちゃんは6期生という新しい学校だった。制服は当時珍しい
紺のブレザーであったが、もっと珍しいのはブレザーの下がハイネックシャツだった。なんとも
カッコ悪い取り合わせだった。他の学校からもバカにされていた。靴も今有るかわからない
「パンサー」と言う白の運動靴しか認められていなかった。しかし学校設備はすごいものが
あったのだ。プールは屋上にあるし、全館冷房があった。公立の中学校で冷房があるのは
この学校だけだった。なぜあったかというと、ちょうど大阪伊丹空港を離発着する飛行機の
航路の真下に学校があるため、騒音の問題で空港公団が学校創立の時にアルミサッシと
一緒に付けてくれたのだ。だから夏の学校は快適であった。プールの授業の後なんか、
もう最高に気持ち良かった。授業中も誰もギャグを飛ばしてないのに寒い位の時があった。
また、この学校でおもしろいものは毎朝授業前に行なわれる「全校なわとび」があった
8時5分に登校して毎日なわとびを音楽にあわせてやるのだ。これは全国でも珍しい
ものなので、テレビで紹介されたりした。登校してすぐに着替えるのだが、着替えた
制服を風呂敷で包まなければいけない。ちゃんと包まなければなわとびをやっている
間に見まわりをする風紀委員に制服を没収され、職員室の前で正座させられる
と言う罰則もあった。今から考えるとなんかおかしい事をやっていた。

1979.4〜1982.3(中学校・クラブ活動)TOPに戻る
クラブ活動は、吹奏楽部に入った。テニスにしようか迷ったが、軟式しかなかっ
ので入らなかった。入学式のかっこいい演奏で心ひかれた事と、姉もやってた
事もあった。でも入ってから気がついたことがあった。そう・・・・。!
「音符が読めない!!( ̄□ ̄)!!」
だからといってやめはしなかった。幸い担当した楽器がチューバという、単調な
音しか出さないベースのものだったから大丈夫!ほとんどが四分音符なのだ。
毎日の練習とはすごいもので、だんだんわかる様になるものだ。でもそこには
先輩の指導があったこともあるけれど。Y先輩に教えてもらいました。その先輩
は高校にはいっても続けておられ、時々来てくれました。何と自分でもチューバ
を買ってしまいました。それも自転車で運んでたから、こりゃまたすごい!

夏休みに入るとすぐに合宿があった。学校に泊まりこんで2泊3日で行なう。
これは7月末に行なわれるコンクールの為だ。でもそこは中学生なんで完全に
旅行気分である。夜でも前記の通り「クーラー」が、ガンガンに効いていて
快適である。合宿=しんどい、と言う方程式は成り立たないものだ。
毎年の合宿の恒例行事は、夜中に抜け出してジュースを買いに行く事だった。
なんとも、今から考えるとカワイイ冒険だったのか?当時はみんなドキドキ
やってたのに! ん?ドキドキ?土器土器?{{(>_<)}}さむ〜!

だんだん音符も読める様になり、晴れ舞台もいっぱい出来てきた。いろいろな
演奏会があったり、学校の学習発表会(文化祭のようなもの)があるが、中でも
思い出深いのが2つある。1つは学習発表会の前に行なわれるクラス対抗合唱
コンクールである。これはだいたいクラスの中の吹奏楽部員が指揮者に選ばれる
ことが多い。まっちゃんも2年生の時にやったが、本当に気持ちがいいものだ。
体育館で全校生徒の前でやるんだが、どのクラスも制服はハイネックなので
夏の半袖のカッターシャツに鉢巻でネクタイをして、ブレザーを着るいでたちで
臨むので異様な光景だ。
もう1つは、体育会と中連体(西宮市中学校連合体育大会:西宮市全体の中学校
が集まり、体育会を甲子園球場で行なう)でのマーチングである。
これは、楽器を演奏しながら歩くのだが、これがまたかっこいいのだ。普段でも
かっこいいまっちゃんだが、一層かっこよくなる。(普段かっこいいのは嘘ですが)
中連体では、他の学校のかっこいい歩き方をマネしたりしてやったが、あの
広い甲子園のグランドで演奏するのは、すごく気持ちいいものだ。スタンド一杯に
観客もいることもある。『・・・そう言えば観客って言うたら、写真撮る時にカメラを
固定するあれやな?・・・・それは三脚や!!』( ̄― ̄)ニヤリ♪

吹奏楽部には、いろいろな楽器があるが自分の担当するチューバ以外にも
まっちゃんの興味をひくものがあった。それはドラムセットだった。ドラえもんでは
ないよ!(笑)練習中に時間があれば、よくたたいていました。
それのおかげで卒業する前の謝恩会のようなものの時、バンドを組んで演奏する
ことになった時にドラムをやった。『ドラム缶じゃありません。』( ̄― ̄)ニヤリ♪
曲はオフコースのコピーだった。「さよなら」と「愛を止めないで」ともう1曲は
曲名を忘れましたが、3曲でした。受験勉強そっちのけでバンドの練習をしました。
本番は、まあまあの出来でしたが、アクシデントは体育館でのリハーサルの時に
起きたのです。みんな「ノリノリ」で調子がよかったのですが、2曲目のサビの1番
いい所で急にスモークの演出がありました。いつの間に?だれが?・・・と言う演出
なのだが急に粉っぽい感じがして、息苦しかったのです。演奏を中止して調べて
いると、スモークの奥に青い顔をしたバンドの手伝いをしてくれた同級生のT君が
立っていたのです。どうしたのか尋ねてみると・・・・
『消火器の上に座ってたら、急に・・・浦島太郎の世界になってしもた!』
『玉手箱も、もらってないのに浦島太郎の気分を味わってしもた!』
こう叫んでました。ちゃん、ちゃん♪


1979.4〜1982.3(中学校時代・テニススクール)TOPに戻る
小学校の時から始めたテニスを続ける為に、西宮のHテニススクールに入った。
今はもう駐車場になっていてないのが寂しい限りです。
入ったのはJrクラスでありました。ここには後で書きますが高校時代まで
行ってました。Jrクラスというのは高校生以下のクラスです。
ここの記憶はあまりないのですが、唯一覚えてる事を書きます。

コーチというのは、ほとんどが大学生のアルバイトコーチでした。
中学生ともなれば誰でも少しは色気づいてくるころで、まっちゃんも例外では
ありませんでした。そう!男は年上の女にあこがれるころです。
まっちゃんのあこがれたコーチは、Jrクラスの上級の方にいたMコーチなのです。
Jrのクラスはその時間は上級と初級の2クラスで、コートは隣同士だったの
です。その当時はとなりの上級クラスを横目(・・ )ジロッと見ながら、なんとか
上級クラスにあがりたいと必死で練習しました。
その甲斐あって2年生の時に上級にあがることができました。なんとうれしかった
事か!うれしくて、うれしくて、やけ食いしました。・・・・なんでやねん!( ̄□ ̄)
やけ食いはうそです。
上級にあがってからも真面目にレッスンを受け、Mコーチとしゃべるきっかけを
作る為にいろいろレッスンが終わってからも質問等をしに行きました。
なんと純真だったのでしょう。ちなみにアジアではパフィーですよね。
(アジアの純真:by Puffy)
しかし、悲しい事は2ヶ月後に起きました。なんと、Mコーチは人事異動で
新しく出来た東大阪市のKテニスクラブへ転勤になってしまいました。バイトなのに
転勤があったのです。『転勤って言えば・・・そう!政治家にお金を貢ぐことだよね?
・・・・・・ん?そりゃ献金やがな〜!(爆)』

それからのスクールというものは、あまりおもしろくなくちょっと無気力になり、新しく
来たコーチは男でそれもちょっと下手クソでどうしようもありませんでした。
そして、Mコーチのことが頭にいつもよぎるようになり、話をしたいと思いました。
でも電話番号もわからないのでKテニスクラブのMコーチ宛てに手紙をだしました。
なにを書いたか忘れましたが、長々と書いたのは覚えています。
いま思うとなつかしい思い出です。

まっちゃんの歴史のMENUにもどる TOPにもどる 高校時代に行く

最終更新日 : 1999/10/07.