まっちゃんの歴史
申し訳ありませんが、昔の事は記憶不足のためあまり詳しくありません。

高校時代!!

 

1982.4〜1985.3(高校時代)
        校舎2
震災で新築された学校です。
高校は西宮のN高校に進学しました。
この高校は西宮ではレジャーランドと呼ばれ、結構自由で楽しい学校です。
西宮市の公立高校は、総合選抜入試という方式で西宮市全部の公立高校
を1つの高校として合格者を決定して、後から住んでいる所からみて各高校
に振り分ける方式なのです。だから高校間の格差は当初はないのです。
しかし、学校の雰囲気などで自然にすぐに、厳しい学校や頭のいい学校など
いろいろ差が出来てしまいます。
まっちゃんの通ってたN高校は,全国でも夏になると必ず新聞やニュースに出て
結構有名なのです。それは甲子園の夏の高校野球に出るからです。
出るといっても、野球部ではありません。野球部の方は確か1回出たことが
あるはずです。出場した時の野球部には、今芸能人で、オールスター
野球大会によく出ていた俳優の「T岡健二さん」がいた時です。
毎年出場しているのは女子生徒で出場校のプラカードや国旗、大会旗を持つ
「プラカードガール」です。これは女子生徒のあこがれで、オーディションもあり
選ばれるのは難関なのです。倍率もすさまじいものです。
選ばれると、「アサヒグラフ」(今はないかも?)と言う雑誌に載り、もらえる物は
白い帽子と大会の通しの入場券です。
当時有名だった荒木大輔のいる早実のプラカードをもった人の家に、カミソリの
入った手紙が送りつけられたというエピソードもあります。これは、荒木大輔の
ファンから「開会式の時、荒木大輔と喋った」という理由だそうです。
あ〜こわ〜!恐い、恐い、恐い、WHY,WHY,ハワイ、ハワイ・・・ん?(笑)

 
1982.7(臨海学校)TOPに戻る
1年生の夏休みには、鳥取の東浜という日本海の海水浴場に臨海学校で
行きます。最終日には遠泳で6km泳がなければいけません。だから
1学期の体育の時間の水泳の授業は、はじめから終わりまでずっと
泳ぎっぱなしです。幸い?にもプールは50mプールです。だから休憩も
する時間が少なくてしんどかった。当時50mプールは西宮の高校には
ここにしかなく、他の学校の水泳部がよく練習しに来てました。
なぜ50mプールがN高校にあったかと言うと、先生の中にオリンピックの
金メダリストがいたからです。ミュンヘンオリンピックの水泳の金メダリストの
「A木まゆみ先生」です。
「金メダリスト」と言えば・・・・そう!おいしい魚だよねぇ?・・・ん?それは
『金目鯛』やがな!(ちょっと苦しい!)

臨海学校の最後の夜には、海岸でキャンプファイヤーをしました。
そこではフォークダンスしたり各クラスの出し物をするんですが、まっちゃんの
クラスは寸劇をしました。題は「水戸黄門」です。もちろん、まっちゃんの役は
「うっかり八兵衛」です。セリフは1つだけです『腹へりましたねぇ!ご隠居!
何か食べさせてくださいよ!』これだけです。そしてムシャムシャなにか
食べてる演技をしてるだけだった。今から考えてもハマリ役です。(笑)

最終日は、メインイベントの遠泳です。校長先生が伝馬船に乗りこみ
掛け声をかけるのです。『え〜んや、こ〜ら!』するとみんなが『え〜んや、
こ〜ら!』って!それを6kmずっとやるのです。途中に休憩もありましたが
立ち泳ぎなので余計にしんどかった!?遠泳が終わると何か配ってくれて
いたので喜んでもらいに行くと、それは「氷砂糖」でした。それも1人に
1個だけ!なんてセコイ!!
「セコイ」っていうたら・・・そう!長島さんがCMやってる防犯設備やなぁ!
・・・ん?そりゃ『セコム』やがな!

1982.4〜1985.3(高校時代・部活)TOPに戻る
court2現在のテニスコート
高校には、硬式テニス部があるので入りました。でも入る前にちょっと
迷ったのだ。珍しくアメリカンフットボール部もあったし、中学でやってた
吹奏楽部にしようか、3つからの選択だった。でも最終的にはテニス部
にした。文化部育ちのまっちゃんにとっては、運動部はしんどかった。
テニス部に入りながら8月までラケットは持ってこなくてよいと言われ、
それまでは、ボール拾いとトレーニングの毎日であった。
それと、もうひとつ嫌な事があった。髪の毛を切らなければいけない
のだ。スポーツ刈りか角刈り、もしくは丸刈りである。中学でも丸刈り
でなくてよかったのに、高校で切るとは思わなかった。高校の中でも
短い髪にしなければいけなかったのは、野球部、バレー部、硬式テニス部
の3つの部だけであった。ちなみに柔道部は長髪である。別に挑発してる
わけでもないのだろうが・・・。(笑)
生まれてはじめて短髪にしたので、切った次の日に学校へ行った時の
授業中は気になってしょうがなかった。クラスのみんなには「西郷さ〜ん」
と呼ばれるし、なんか恥ずかしかった。まあ1週間もすれば、慣れちゃい
ましたけどねぇ。公式戦に勝つと伸ばしてもよいので、少しの辛抱だと
あきらめました。でも夏の暑い日には頭から水をかぶれるし、ドライヤーも
もいらないので、そう言う点は楽だったなぁ。
結局、はじめての公式戦のシングルスは1回戦負けしたけど、ダブルスは
勝ったので伸ばしていい事になりました。ちなみにマイケル・ジャクソンの
ペットは「バブルス」だったような・・・(笑)
でも、自分の中でシングルスに勝つまでは伸ばさないって決めたので、
すぐには伸ばしませんでした。はじめて1回戦に勝ったのは2年生になって
すぐの春の大会でした。場所は神戸のK高校、相手はT高校の3年生で
年上の人でした。試合内容は全く覚えていません。勝った瞬間は覚えて
いるのですが・・・。よっぽど必死だったのでしょう。(昔の事だから、覚え
ていないのではなく、試合が終わった瞬間もわからなかったのです。どう
やって勝ったのかを。)それから3年生の引退までシングルスの1回戦は
負けた事ありません。(ちょっと自慢!)
まっちゃんの高校時代の公式戦の記録(すべてトーナメントなので7敗はする)
 7大会 シングルス 12戦 5勝7敗、ダブルス 14戦 7勝7敗


2年生の夏にアクシデントがありました。1学期の期末試験も終わり終業式
までの間球技大会があったのですが、そこで起こりました。ソフトボールを
していてまっちゃんは最終回2アウトで打席に立ち1打出れば同点の
チャンスでした。そして打ったのです。ボールは外野に飛び、必死で走り
2塁ベース手前ですべり込みました。その瞬間!「痛〜い!」
手首を骨折してしまいました。2本も!変な形で手をつき、体重を支えること
が出来なかったのです。まあ左手だったのでちょっとはましでした。
ご飯もたべるのは大丈夫だし、字を書くことも出来ます。次の日から肘(ひじ)
までのギブスの生活です。終業式までの間にギブスは落書きでいっぱい
になりました。医者からは、こけるといけないのでスポーツ禁止を言い渡され
ました。夏休みにはいるとすぐに夏の大会にむけての部活のめちゃくちゃ
しんどい強化練習があるのですが、それも休まなければいけなくなりました。
「やばい!!」と思いましたが、心の中では「ラッキー♪」とも言ってました。
結局、強化練習は休みましたがひとつ問題がありました。それは、夏の
大会のダブルスに1年生と組んでエントリーしていたので、はじめての
大会に棄権させる事に心痛みました。大会の寸前まで悩み、考えた結果
ドクターストップを無視して出場することにしました。大会の前に少し練習
しましたが、ちょっと怖かった!ダブルスだけにすればよかったのですが
折角出るんだったらと思い、シングルスにも出場しました。大会初日は
シングルスで、1回戦の相手は中学の後輩の親友のMくんでした。
ふつうなら楽勝の相手だったのですが、やはりサーブのトスはうまく上がら
ないし、コケたらダメだという恐怖心から接戦になりましたが、6−4で勝て
ました。あとから中学の後輩から聞いたのですが、かなり相手は試合の
後に「ギブス野郎に負けた」と落ち込んでたらしいのです。
試合会場は、まっちゃんの異様な姿にみんなビックリしてました。
2日はいよいよダブルスです。試合会場は西宮のK学院高校です。
1回戦の相手は尼崎のI高校のキャプテンのコンビでシード選手でした。
試合前のサーブ練習が始まると、シード選手の登場と相手がギブスをした
奴の登場で、いつの間にか人が集まってきました。なんかザワザワした
雰囲気の中で、試合開始となり、まずまっちゃんのサーブからでした。
緊張しながら、思いっきりファーストサーブを打つとそれが、サービス
エースとなりました。その瞬間にすごい歓声がテニスコート中に響きわたり
ました。もう、まっちゃんはヒーローでした。その試合は多くの観衆を集め
接戦を繰り広げた結果、6−3で勝つことができたのです。本当にその時は
気持ちよかった!

1984.1(高校時代・大けが?)TOPに戻る
いつも学校へは自転車で通学してました。ある1月の寒い朝、いつものように
学校へ間に合う時間ギリギリに家を出たまっちゃんは、いつものように
全速力で自転車をこいでました。まるで自分では「中野浩一」かと思う位でした。
(※決してヅラではありません)その日に限って広い通りに出て、後を見ずに
横切った瞬間、激しい痛みとともに体が急に軽くなりました。そして体が長い
時間、宙に浮いてました。車に、はねられたのです。幸い足首の捻挫だけで
済みました。全治2週間と医者から宣告され、その時医者から『君の脂肪が
体を守ったね。ふつうの人なら大けがだったよ!捻挫だけなんて信じられな
いねぇ。』と言ったのです。喜んでいいのか?( ̄□ ̄)

事故の2週間後に修学旅行でスキーに行く予定になってました。全治2週間
なのでちょうど出発の日が完治予定の日にあたってますが、そんなうまくいく
はずがありません。痛みをおして出発しました。
初日に半日滑っただけで、あとは旅館で休むことにしました。
最終日には滑ろうと思い、前の晩はコンディションを整える事に専念しました。
痛み止めの薬を飲み、塗り薬を塗り、マッサージを入念にしました。
そして、就寝!明日滑るのを夢に見ていました。しかし!!
深夜に事件が起こりました。急に足に激痛が走り目が覚めました。そして
大声をだして『痛いっ!!』って叫びました。するとみんなが起きて、電気を
つけてもらうと、なんとそこには担任の先生がビックリした顔をして立って
いました。そうです、先生がまっちゃんの足を踏んでしまっていたのです。
事情を聞くと、女の子が行方不明で探しにきたそうでした。その女の子は
違う女の子の部屋にいたんですが・・・・(T・T) 本当に泣きそうでした。
修学旅行から帰ってきて、反省会があったのですがクラス全員一致で
反省は先生がするべきだということになりました。

1984.9(高校3年生の文化祭)TOPに戻る

まっちゃんの高校の文化祭は学校で2日間と市民会館で1日行われます。
3年生は市民会館で劇をするのが慣例になってました。まっちゃんの
クラスは「ピーターパン」をやることになりました。「ピーターパン」って
言うたら・・・・そう!中華料理の前菜に出てくるねぇ?・・・ん?
そりゃ「ピータン」やがな!・・・そうか!あのドッグフードかぁ?・・・ん?
そりゃ「ビタワン」やがな!(笑)
まっちゃんの役はもちろん「フック船長」です。文化祭は9月なので受験生
でありながら、夏休みも学校へ行って練習してました。
実はこのピーターパンの劇の中には、音楽にあわせて踊るシーンもあり
その練習に大半を費やしました。もちろん本格的な劇は初めてだし、ダンス
もあまりやったことがありません。クラスにダンス部のキャプテンのIさんが
いたので、その指導のもとでやりました。
本番当日は、とても緊張しましたが、あんなに大きい市民会館の舞台で
演技することが、気持ちいいなんておもいませんでした。役者の気持ちが
わかったような気がします。おかげで金賞を獲ることが出来、その時の
ビデオは今でも学校に保存されてるそうです。


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 最終更新日 : 1999/10/07.