まっちゃんの歴史
申し訳ありませんが、昔の事は記憶不足のためあまり詳しくありません。

予備校〜大学時代!!

 

1985.4〜1986.3(予備校時代)

現役ではすべての大学に落ちたまっちゃんは浪人することとなり、予備校に
通いました。神戸のKセミナーです。この1年はとりあえず勉強だけの時間
を過ごすつもりでした。まあ自分なりにはよくやった方ですが結果がともなわ
なかった様でしたが。(笑)予備校の場所が神戸の元町だったので帰りに
JR高架下商店街に行ったりしました。結構掘り出しものがあったりして
楽しい所です。毎日は行きませんよ。なんせ受験生なんで!
やるときは、やりました。K学院大学の図書館でしたり、西宮図書館の
自習室でやったりしました。おかげで愛媛県のM大学に合格した。第1志望
ではなかったけど・・・。あとでわかった事ですが第1志望のK大学には
あと4点足らなかったそうです。でもその4点の中に200人もいました。


1986.4〜1990.3(大学時代)

愛媛県の松山には大学に合格するまで来たことはなかった。ちょっと無謀で
したが、後々第二のふるさとになっていくのです。

1986.4(大学時代・入学式後、恐ろしい2,3週間)TOPに戻る

この2,3週間は恐ろしい日々でした。それはクラブの勧誘です。応援団や武道系
のクラブにとって、新入生獲得のために必死です。まず入学式が終わった体育館の
出口で待ちかまえているのです。まっちゃんはまず柔道部の人に捕まり、両腕を持たれ
引きずられていきました。学籍番号と名前をしつこく聞かれるのですが、入る気がない
ので言うつもりはありませんでした。言うと最後だからです。なんとか許してもらった
瞬間に次はラグビー部につかまり、今度は、羽交い締めにされ部室まで連れられました。
ラグビー部では、「かわいいマネジャーがいる」とか「女にもてる」とか説得されました。
ちょっと心が揺れました。(揺れるなー!!(笑))はじめからテニスをするつもりだった
ので、必死で断りました。「私が入っても、迷惑かけます。なんせ体が弱いんです。」
と、訳がわからない事を口走ってました。誰が見てもまっちゃんは丈夫に見えるんです
けどね。(笑)そういえば、『「丈夫」って言うたら、あれやな・・・?「鮫の出てくる怖い
映画」やろ!・・ん?そりゃ「ジョーズ」やがな!あっそうか!アメリカの有名な医者
で、プロ野球選手がよく診てもらってる・・・!?ん?そりゃ「ジョーブ博士」やがな!
君、そのままやんけ!』(爆)
入学式はもちろんスーツを着ているので、新入生とまるわかりでした。その日は、大学
がこんなに怖い所とは思いませんでした。最後には走って、逃げるようにして下宿に
帰りました。次の日からはオリエンテーションがあります。新入生とわからないように
結構汚い格好で学校に行くようにしましたが、学校は新入生とわかるような、かばんに
入らないくらい大きな資料をくれるのです。だから終わって外にでるとまた勧誘の嵐です。
なんて怖い大学に入ってしまったのかと思いました。


1986.4〜1990.3(大学時代・サークル活動)TOPに戻る

サークルは、はじめからテニスをしようと思ってました。だから怖い勧誘にも立ち向かって
ました。M大学には都会の大学のように、いくつもテニスサークルがなく、ひとつだけ
でした。人数は100人位在籍しています。活動は日曜日の午前中だけです。
まず、最初のイベントは新歓コンパです。飲まされるのはわかっていましたが、1番すごい
と思ったのは女の先輩方です。酔いつぶれた新入生が寝ている所に馬のりになり、
さらに飲ましているのでした。「パワーがあるなぁ」と感心してました。まっちゃんも
被害者のひとりでした。
夏合宿では、まっちゃんが酔っぱらってすごかったようです。(あまり記憶がない)
友達から聞いた話では・・・・怖くて話せません。
2年生の夏合宿では幹部交代があり、副部長になりました。副部長の仕事は結構
多くて忙しい日々でした。100人もの人間をまとめるのが大変でした。


1986.4〜1990.3(大学時代・車)TOPに戻る

1年生の秋から、免許を取る為に教習所に通いはじめました。学校より真面目に
行ってました。補習も1時間しか付かず優秀でした。卒業する寸前に自動二輪も
ついでにとりました。はじめて路上に出たときに教官から「流れに沿って走って
くださいよ」と言われたので、はじめから60キロで走ってると、横から大声で
「制限速度は守れ!!」って叫ばれました。まっちゃんの心の中では、「流れ
に沿って走れ!って言うたやん。( ̄□ ̄)」と叫んでました。
無事に免許がとれて、はじめて走りに行ったのは「六甲山」でした。いきなり
初心者マークをつけて、ワインディングロードに乗り込んだのです。ちょっと
無謀でした。そう言えば「無謀」って言うたら・・・そう!警官のもってるやつ
やなぁ?・・・ん?そりゃ「警棒」やがな!ちゃうちゃう!まっちゃんの身体につ
いてるやつや!・・・ん?そりゃ「脂肪」やがな!!
よくレンタカーも借りました。1番かっこ悪かったのは、営業所から出るときに
お店の人が見送りをしてくれるんですが、そこで2回連続でエンストしたこと
です。

2年生の9月に初めてMY CARを買いました。中古車で、4年落ちの真っ赤の
ブルーバードでした。そのころからサークルのみんなで行くドライブが行事化
してきました。1番すごかったのは10台位で行った「瀬戸大橋博」のときでした。
車にはゼッケンをつけ、みんな並んで走ってました。そして高速道路にはいった
時に突然、列が乱れレースが始まってしまいました。少し走っていると後から
サイレンの音が聞こえて、パトカーが見えました。近くのサービスエリアに停車
させられて事情聴取がはじまりました。容疑は「集団暴走行為」でした。
高速道路を走ってた一般の人が通報したらしいのです。ドライバーが集められ
そこで交機の警官が言った言葉は「お前らの顔を見てみると、たいした顔をし
てないのう!気をつけて行きや。今日は許したる。香川の警察にも連絡しとく
からな!」こう言われ、やっと釈放されました。やれやれ・・・・ホッ。

1986.4〜1990.3(大学時代・アルバイト)TOPに戻る

長い休みになると、西宮に帰省していたので長期のアルバイトはなかなか
やれなかったが、1つやってたのは駐車場管理であった。I会館の駐車場で
一時預かりの所だった。車で行けて、クーラー、テレビ付きの所でした。
満車になると鍵をあずかるので、ときどきいい車にも乗れる。最高でした。
長期休みのときは、サークルの同期のMくんが替わってくれるので安心だ。
このバイトで駐車テクニックを磨きました。

夏休みは、大阪駅前ビルの盆踊りスタッフをしました。2年目からは本部
スタッフになれました。しかしこれで1つだけ嫌な仕事がありました。それ
は、盆おどり当日に、おばちゃんの踊り手の人にビールなどを出すのです
が、それ目当てに浮浪者が寄ってくるのでその浮浪者の排除をすること
でした。排除する時に腕をつかむので後でかゆいのなんの、大変でした。
まあ、イベントスタッフは何でもやらされるということがわかったバイトでし
た。やらされついでに、プレイベントにも参加しちゃいました。まっちゃん
の得意としている「ビールの早飲み」です。3人1組のチーム対抗戦なん
で「イベントスタッフチーム」で出場しました。ビールの飲み方には条件
があり、ストローで大ビン1本飲むのです。ストローで思いっきり飲むと
めっちゃ酔いが早くまわります。結果は優勝したんですが、身内という
ことで商品はもらえませんでした。もらえた物は「酔い」だけです。その
あとの仕事は、フラフラになりながらやったという事は言うまでもありま
せん。ついでにとんでもない事もやっちゃいました。早飲み競争の片
付けしているときに、台車の角でビルの入口のガラスを割っちゃいまし
た。警報機が付いていて、針金も入っている分厚いものでした。すぐに
ガードマンが来ちゃいました。聞くところによると、修理代は40万円との
事でした。一気に酔いはさめちゃいました。(修理代は払ってません)

1986.4〜1990.3(大学時代・一人暮らしの知恵)TOPに戻る

大学に入り一人暮らしをはじめてやったのですが、松山での生活で
ビックリした事があります。まず1つは、当時松山ではテレビの民放が
2つしかなかった事です。西宮では5つ位あったので・・・・。そして
TV番組のプレゼントにあまり応募できないんです。キー局から最大
1ヶ月位遅れて放送しているからです。野球の中継など見ていると
「一部の地域の方を除いて野球中継を延長して御覧いただきます。」
とアナウンサーが言った途端に、番組が終わってしまう事もありました。
松山は一部の地域だったのです。( ̄□ ̄;;)
もう1つは、新聞に夕刊がなく、朝刊のスポーツ欄で前日のプロ野球の
結果が5回裏位までしか載ってなく。最終結果はコピーで広告チラシと
一緒に入っていることです。(現在は違います。)

はじめの頃の食生活は、ホカ弁が多かったのですが1番安い「のり弁」
でも、もったいないと思う時期がありました。その時は、ライス、コロッケ
を単品で買い、家でライスの上に塩昆布と海苔を敷きコロッケを上に
置きライスの蓋を閉めて、1分ほど待ちます。そうすると「のり弁」の
出来上がりです。程良く海苔が蒸され結構いい感じになります。これで
50円節約できるのです。(ちょっと情けないけど・・・・ボソッ)
3年生のはじめには、サークルの同期のMくんと夕食は一緒によく食べ
ました。しかもタダで!友達がバイトしている喫茶店やレストランに行き
食べてました。事前に夜はバイトの人しかいなくて、社員がいないのを
確認してからいってました。我々を知らない他の人に『あの人達は食生活
に困って大変ですねぇ!』とまで言われてましたけど。(笑)
でも、1度タダ喰いがばれて友達のYくんが、バイトを首になり、タダ喰い
生活はやめました。

1989.4(大学時代・就職活動の屈辱)TOPに戻る

まっちゃんが就職活動をしている時は、景気もよく、売り手市場と言われ
ていた。どこでも好きなところに就職できる様な雰囲気でした。しかし
現実は違っていた。当時はまだ「就職協定」なるものが一応あり、8月
1日以降ではないと会社訪問できないことになっていた。これは、有名
無実ではあったが、このことが屈辱の要因となることになるとは・・・。

就職協定前のある日、東京のP社(レーザーディスクで有名)に電話
した時に・・・
まっちゃん 「もしもし、M大学、K学部のMと申します。会社訪問させ
        ていただきたいのですが・・・」
P社、人事部 「あっ!W大学の方ですか?すぐにでも来てください!」
まっちゃん 「いや、愛媛県のM大学です。」
P社人事部「すいません。あっM大学ね。当社は就職協定を守っており
     ます。申し訳ありませんが8/1以降にまた電話ください!
     ガチャ〜ン!」

やっぱり、大学名で差別されるんだなぁと思いました。地方の無名な
大学はだめなのかぁ。いまから考えるとW大学は広末も行って有名だ
けど、まっちゃんの行ってたM大学には有名人といえば、地方の演歌
歌手が1人いただけだった。
そんなことを思いつつ、まっちゃんはU社に7月に内定をもらいました。

1990.3(大学時代・卒業式)TOPに戻る

とうとう卒業式である。卒業式のサークルでの恒例行事で卒業生を胴上げする
というのがある。まっちゃんは心配していた。「俺もやってもらえるのだろうか?」
心配はすぐに打ち消されました。後輩は必死でやってくれたのです。ほとんど
全員でやってくれました。胴上げされたのは生まれて初めての出来事でした。
本当にうれしかった。
その日の昼からは、立て続けにゼミ、サークルの飲み会がありました。ここで
1年生の夏合宿以来2回目の記憶をなくす位飲む事になってしまいました。
途中、バーボンのストレートをウーロン茶と間違えて一気飲みしてから記憶を
無くしてしまいました。
次の日はサークルのOB会があったのですが、起きるとまっちゃんの部屋に何
人か寝てました。知らんかった・・・・
OB会が終わると研修のためその日の夕方に飛行機に乗って東京に行かなく
てはいけません。サークルの同期、後輩達が見送ってくれたのですが、不覚に
もまっちゃんは泣いてしまいました。いくら我慢しても涙が止まらないのです。
我慢すればするほど4年間の思い出が思い出され、とんでもないことになって
いました。今から考えるとなんて恥ずかしい事をしてたんだろうと思います。

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