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読書日記
ごく個人的な

伊藤潤二「双一の楽しい日記」(ソノラマ文庫)

見た人はわかると思うが、表紙の絵(というか双一君の顔)が反則レベルにコワイ。で、恐る恐る読んでみると実はかなり笑える話。双一君はいつも口の中に五寸釘を忍ばせ(時にはそれを吹き飛ばし)、藁人形で呪いをかけ、魂まで吸い取ったりするとんでもない小学5年生(笑)。けっして友達にはなりたくないが、遠くから眺めてるのはおもしろいだろう・・・なんてことを言ってると、物陰からこっそり見ていた双一君に「ホラーなめにあわせてやる」(←これがキメ台詞)ってつぶやかれてそうだ(と想像してほくそえむ)。双一君にしても富江にしても、そりゃもうどうしようもない性格のムチャクチャな奴なんだけど、全然憎めないところが伊藤潤二だな、と思う。この漫画でも彼独特の「何事が起こっても素な人たち」というのは健在で、そんな人々に混ざって異形の者たちが等価的に存在する。路菜なんて双一君の呪いに対してキャーキャー怖がるくせに、意外とあっさり、しかも素で双一君という存在を受け入れている。というか彼の作品の中では、時々、異形のものこそがフツウであって、いわゆる「健全な」人たちの方が本当に恐ろしいものに見えるときがある。日常と非日常が入り交じった不思議な世界。

2000.03.29

伊藤潤二「富江」(ソノラマ文庫)

美しい富江。
しかし彼女に会った男たちはみな、心を奪われ、そして彼女を殺しバラバラに切り刻みたくなる。バラバラ死体になった富江は、分裂し増殖する。肉片から髪が生え、カーペットに染み込んだ血から美しい顔が生まれる。床からはえた顔が「キスをしてよ」とねだる。増殖した富江同士が殺しあう。冨江はとんでもない性格。わがままで強欲で人を殺したり殺させたり実験台にする。なのに富江はとてもカワイイ人のように思える・・・・・・ということで、僕もきっと分裂増殖した富江達と巡り合ったなら、彼女をバラバラ死体にするのだろう。
っていうか、この漫画、友達に貸したら僕の姉に似てるだって(おい)。増殖したのか・・・?

2000.03.25

夢野久作「押絵の奇跡」(ちくま文庫)

美しい小説。
彼の文体はカタカナ語の多用が目について、いわゆる美文というものとはかけ離れているけれども、中井英夫が「夢野久作はまさしく地底の作家」と言ったように、どこか調子っぱずれの、おとなしいフツウの人間を装った狂人が書いている文章のような、奈落の底へ落ちていくような魅力があるのです。
彼のくねくねとした独白体もまとわりつくような妖しさがあって、今回のような女性の書簡体として書かれたものなど特におもしろい。
で、そんな「地底の作家」が書いたものであるのに、これはとても美しい小説。博多の神社に奉納された押絵に秘められた、歌舞伎の名女形とピアノ教師との、透明なものへと向かっていくような愛の物語。呪われた二人の愛が、その呪いのゆえに聖化していく。
しかし、こういう物語においても、久作の文章はあいかわらずというか、秘密の快楽を得るように描写しています。彼は本当に描写が好きな作家だと思うし、特に人間が死ぬところの描写などは、何か憑きものでもあったんじゃないかというぐらいに素晴らしい。この小説でも、美しい母が父に日本刀で切られるシーンは、なんていう禍々しい美しさなんだろう。色彩感覚も好きだし、ひょっとしたらこの描写がしたいためだけに、この小説が書かれたのではなかろうか、と思うぐらい。

「・・・・・・お母様のうしろの壁に、赤い花びらのような滴りが五ツ六ツ、パラパラと飛びかかっているのが見えましたが、その時はなにやらわかりませんでした。そのうちにお母様の白い襟すじから、赤いものがズーウと流れ出しました。・・・と思うと左の肩の青いお召物の下から、深紅のかたまりがムラムラと湧き出して、生きた虫のようにお乳の下へ這い広がって行きました。お母様の左手にも赤いものが糸のように流れ出していたように思います。それと一緒に、その青いお召物の襟の処が三角に切れ離れて、パラリと垂れ落ちますと、血の網に包まれたような白いまん丸いお乳の片っ方が見えましたけれども、お母様は、うつ向いたままチャンと両手を膝の上に重ねて坐っておいでになりました。」

2000.03.17.

ジャック=ケルアック「地下街の人々」(新潮文庫)

彼の意識の中に否応なく巻き込まれていくような文体。
「無駄のない文章」というのは、二通りあると思う。ひとつは芥川龍之介のように、余分な文章を削ぎ落とし、必要最小限の情報により、想像力という快楽を与えてくれるもの。
もうひとつはケルアックのような饒舌体の文章。ビート・ジェネレーションを代表する作家である彼は、もちろんあふれでる言葉というビート、そしてスピードの作家だった。意識の流れをそのままに、猛スピードでタイピングする。迷ってはいけない。湧き出る言葉を書きつける。文章を意識的に推敲してはいけない。書かれたものがすべてであって、それがどのような方法で書かれたものであるかを考えると、推敲するという行為は意味をなさないのだ。出版社から削除と訂正を求められたとき、彼が非常に怒ったというのも肯ける。
一瞬を書きとめるというのは、簡単なようでいて、実は非常に辛い作業ではないかと思う。この瞬間の意識を書きとめろ、早く、早く、早く、と内部から押上げてくる何か。彼はこの小説を、ドラッグに浸りながら、台所で三日で書き上げたという。
主人公レオとマードゥは、酒やドラッグ、セックスにおぼれる。祝祭のような日々。だが彼らの愛もやがては終わる。終わりのない祝祭はけっしてないし、その終わりの予感のもとに、僕は生き、そして希望もまた生まれるだろう。
彼のスピードや、彼の書き続ける「今」は、とても切ない。

「そして彼女の愛を失った僕は家へ帰る。そしてこの小説を書く」

2000.03.14.

ジョン=アップダイク「ケンタウロス」(白水社)

視界の隅にケンタウロスがいる。そこに僕の不安と憧れがある。
苦労性の高校教師は不死のケイロン、美しい女教師はアフロディテ、校長はゼウス、ケイロンの息子は、皮膚病を持つ天界の火を盗んだプロメテウス。
比喩の力が世界を覆うとき、片田舎のさえない街オリンガーはオリュンポスへ、ハイスクールのありきたりな日常は神々の叙事詩となる。
饒舌で華麗な比喩。喩えられている対象の意味(例えばケイロンはなぜプロメテウスの身代わりとなって不死を捨てたかという、神話の中での意味)を、細かく追究する必要はないと思う。なぜピーターがプロメテウスに喩えられるかという、それなりの意味はあるのだろうけど、この小説がおもしろいのはそんな末節ではなく、比喩することそのものの、転換のおもしろさだろうな、と。

アップダイク自身の言葉。
「現代に可能な文学とは、事物を人間の主観に変えるための言葉を探すこと」

2000.03.07.

久世光彦「怖い絵」(文春文庫)

世の中には怖いものばかりだ。
これは「怖い絵」に関するエッセーなのだが、ほとんど彼の私小説と言ってよいほどで、「怖い絵」と作者の物語(あるいは、彼の物語に登場する絵といったほうがいいかもしれない)が語られ、そこは退屈な美術解説書なるものとは無縁の世界。
だいたい、解釈するなんてことには、疲れているのだ。美術館へ行って、難しい顔で解釈をしたいわけじゃない。僕はただ、その絵に“関わりたい”のだ。深く、深く、それらの絵と共に自分もまた生きていたのだという感触を得たい。だからそれがオリジナルである必要は厳密にはないのだ。記憶の中の絵でもかまわない。共に生きたという感触を持ちうる、必然的な、ほとんど内在的な絵だけが、禍々しい魅力を持つのだろう。
話がそれたけど、彼の物語の中にすっぽりとあてはめられた絵画たちは、まさに「絵的なもの」として輝きだす。

カラーの写真付きで紹介される恐ろしき絵画たちは、以下のとおり。
・エレウス=キクスクの神の御母のイコン
・ポルト−アルトゥルの神の御母のイコン
・アーノルド=ベックリン「死の島」
・高島野十郎「蝋燭」
・甲斐庄楠音「二人道成寺」「女の顔」
・竹中英太郎「陰獣」
・オディロン=ルドン「夜」
・オーブリー=ビアズリー「サロメ」「サロメ(お前の唇に接吻したよ!)」
・ギュスターヴ=モロオ「顕現」
・ヴァン=ダイク「ドリア侯爵の肖像」「自画像」
・伊藤彦造「豹の眼」「阿修羅天狗」
・フェルナン=クノップフ「死都」「愛撫」

2000.03.02.

久世光彦「一九三四年冬−乱歩」(新潮文庫)

乱歩好きにはたまりません。
スランプに陥っていた乱歩が、行方をくらまして身を潜めた<張ホテル>にて起こる四日間の出来事。登場するのはヘリオトロープの香るホテルのボーイである中国人美青年と、ポーのアナベル・リーを思わせるアメリカ人の美女、そして乱歩の3人だけで進む濃密な時間と並行して、乱歩がこの四日のうちに書いたという設定の「梔子姫」という小説が挿入される。劇中劇。いわば久世光彦が乱歩の贋作を書いたということになるんだけど、「梔子姫」自体がエロティックなおもしろい小説になっている。
だけどこの本そのもののおもしろさは、「梔子姫」という小説と「一九三四年冬−乱歩」という小説、二つの小説世界が並列して進んでいく点で、最初乱歩は、張ホテルで起こる様々な事件に影響されて「梔子姫」を書き進めるのだが、今まで“現実”とされていた“張ホテル側の世界”の方が、次第に「梔子姫」の世界に引きずられていってしまうのだ。現実と小説という境界はおぼろになり、今まで“現実”だと当然のように解釈していたものも、あやしくなってくる。そして、読む側はあらためてこの“現実”もまた小説なのだと気がつくのだ。 小説が小説を語る。これは小説のことを考える小説。メタフィクションの快楽です。
でも、この本、ひたすらに乱歩マニアへのエンターテイメントとしてもおもしろく、彼がハゲだったという容貌へのただならぬこだわり方もなんだかおかしい。そして何といっても第二章、ポーの「アナベル・リー」楽譜付きでしょ!(笑)思わずフルートで吹いてみましたが、哀愁たっぷりな曲調、一瞬ほんとにこんな曲があったんだろうか、とあっけなく騙されそうになったけど、章末に「作曲は小林亜星」とありました。ひぃ・・・(笑)でも、小説中では「誰が作ったか知らないが」なんて書いてます。なるほどね(笑)

2000.02.27.

伊藤潤二「うずまき」1〜3(小学館)

これを読んで以来、うずまきが気になってしょうがない。
この人の漫画のコワイところは、なんでもない日常を一歩踏み外すことで、もうどこにも逃げられなくなってしまうような、とりこまれる感触。それは、ほんの一歩の差。ここにはまってしまったら、後はただ落ちていくしかないのだ。だから僕もあんまりうずまきばっかり眺めていたら、自らの体をうずまき型にして死んでしまうかもねーなんて、そんなんあるわけないじゃんと思いつつも、3%ぐらいは、いや、きっとそんなこともあるだろう、という腫瘍みたいなものが、ぷちっとできてしまっている。そして僕は内部からうずまきに呑み込まれ、消滅する。あるとき、背中にうずまきが現れて、ヒトマイマイになった僕は食用として誰かの胃の中に入るのか。
短編集かと思いきや、長編としてのカタルシスもあって、かつ絵も非常に美しい名作!
蛇足だけど。
主人公の桐絵(僕の祖母と同じ名前や)は、どういう状況にあろうが、常に素なのがおもしろい。っていうか、好きだな(笑)こういう人。

2000.02.17.

大江健三郎「飼育」(新潮文庫)

子供はいつか子供でなくなる。もちろんそれは実際の年齢とは関係ないだろう。老齢になってなお、牧歌的な世界にたゆたう人もいれば、この主人公のように子供の世界と決別せざるを得ない、そんな啓示を受ける人もいる。どちらがよいという問題でもなく。
舞台は戦時中の閉鎖された村。戦争も、その「硬い表皮と厚い果肉」には浸透せず、敵の飛行機も珍しい鳥の一種にすぎなかった。ある時、空から落ちてきた黒人兵。村人達は黒人兵を家畜のように飼いはじめる。彼の存在は、子供たちの日常を充たすためだけのものであり、それは牧歌的な祭りの季節だった。
夏はいつまでも続くと信じていた。僕は今でも信じているけれど、それは僕がこの果実の中にかたくとどまっているからかもしれない。
しかし、夏は終わるのだ。父親が少年の手首とともに、黒人兵の脳髄をなたでぶちまけたとき、「子供だけの世界」と彼との関係は、永遠に断ち切られてしまったのだ。

「僕は唐突な死、死者の表情、ある時には哀しみのそれ、ある時には微笑み、それらに急速に慣れてきていた、村の大人たちがそれらに慣れているように」

決別の物語。
僕が子供なのか大人なのかはわからない。だけど、読んだ後に僕自身が、確実に何かに慣れつつあることを知る。

2000.02.14.

大江健三郎「他人の足」(新潮文庫「死者の奢り・飼育」)

読んでいて、「怒り」ということを考える。それも直接的な怒りではなく、内部に鬱積するような怒り。
個人的なことを言わせてもらうと、喜怒哀楽の中で、一番僕的に困難だと思っているのが、「怒り」である。別に僕が怒りを感じないのではなくて、怒りは一番表層に出にくい感情なのだ。僕の中で怒りという感情は、どんどん粘着質の壁の奥に塗り込められていくようだし、他人の怒りを目の当たりにすると思わずニヤニヤするという、すごくよからぬ癖を持っていたりする。
で、この小説は、そんな塗り込められた怒りの物語なのだ。存在すること、粘着質の壁の奥に、閉じながら存在している、そのものこそが、怒りであり、世界に対する反抗であるかのように。

主人公がいるのは、海に近い高原に建てられた、脊髄カリエス患者の、未成年病棟である。車椅子で生活する彼らは、歩きはじめるという希望を将来に持っていない。外部から遮断された、不思議な監禁状態にいる彼らは、それでも充実し、快楽にみちた生活をしていた。
外部というものを持たなかった彼らに変化が訪れるのは、大学の文学部にいたという学生が、新しい患者としてこの病棟にやってきてからである。彼は戦争を語り、政党を語る。彼は粘着質の厚い壁の外部からやってきた。
主人公の少年がこの学生に心を開かないのも、僕にはよくわかる。彼が政治的人間だからという、単にそれだけの理由ではない(とはいえ、おそらく主人公も政治に本質的なものを求めてはいないだろうけど)。
彼がまったく理解していないからだ。僕たちが、なぜこんなに硬く硬く、閉じているか、を。粘着質の中で、生きていられるかを。団結しよう、という言葉に、そんなものは賤民の団結だ、そんなみじめなことはやらない、と感じるのが、なぜかということを。
彼は強引で乱暴な部外者であり、その上、彼は「ニセモノ」なのだ。
学生は自分の治る見込みのない足を考えながら、「僕には自由なんて、もうなくなった」と言う。
そのとき主人公は、部屋の窓から夜空を見上げて思う。
「良い色をした、豊かな自由が船のように、空の運河を溯る」

閉じることで自由になれるというパラドックス。しかし、それによって得た自由は・・・何者も僕からそれを奪うことはできないだろう。その時僕は密室の王者なのだ。

2000.02.01.




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