読書日記
ごく個人的な
精神科医である主人公の元に、谷沢という青年から手紙が届く。放浪の養蜂業につく彼には、ある一定の音によって呼び覚まされる“殺人の記憶”がある。主人公は彼の治療をはじめるが、次第に病巣はさらに奥深いところにあったと気づくのだった。
角川文庫版「ニジンスキーの手」収録の四篇(「ニジンスキーの手」「獣林寺妖変」「禽獣の門」「殺し蜜狂い蜜」)の中で、個人的にはこの話が一番好きだ。ラスト近く、一面の花野で白知の少年が殺される描写に目眩する。蜂による快楽、そして死。
ミステリーとしてもおもしろく、記憶によるすり替えトリック(そしてこのすり替えこそが主題となっているのだ)は、謎と解決、事実と虚構の境界をあいまいにし、最後まで読んでも結局読者には何が事実だったのか知らされることはない。青村の詩は誰の作品だったのか。真実は死と失語症を伴う狂気によって、永遠に手の届かない彼方へと飛びたってしまう。
主人公は探偵の役割を果たしてはいるが、「ニジンスキーの手」の風間がそうであったように、探偵として非常に無力である。谷沢と青村、一方は無名のままに放浪し、一方は前衛詩人として脚光を浴びるという、一見して全く境遇の異なる二人の幼なじみは互いの記憶を交換する。それは危険な、しかしだからこそ魅力のある蜜だった。そもそも自分が自分であるという根拠はなんなのか。自分が他人でないという証拠は。今まで自分が生きてきたという記憶があるから?詭弁のようだが、その記憶すらももともとは他人のものだったとしたら。記憶が「確かに自分のものだ」と論理的に証明できる人がいるだろうか。
彼らはお互いがお互いの蜜であった。蜜の味は麻薬の味。このきわどい極限のナルシシズムの前に、主人公は探偵としても精神科医としても無力感を覚えずにはいられない。なぜなら彼らにはカタルシスも癒しも必要でなかったから。
彼らが必要としたのは、ただ主人公の「目」であったと思う。第三者によって見られ、認識されることが、彼らの夢を支えつづけるのだ。
2000.05.23.
能楽のシテ方宗家に生まれた春睦は、能を素晴らしいと思いつつも、時として感じる伝統に縛られる能の虚しさを厭って家を出る。出版社に勤め、妻と共に出かけた取材先で、地元の野生的な漁師の若者に妻を犯され自分もまた陵辱されるという設定がすごい。なにせ妻を犯そうとする男ととっくみあいの最中に肉の快楽を覚えるのだから。
若者の背中には刀でつけられたような傷痕があった。春睦が尋ねると若者はひと言「丹頂鶴にやられたんだ」と不逞の笑みをうかべる。以来、春睦は獰猛な鶴、いないはずの場所にいる鶴を捜し求める。その鶴は反世界の存在そのものであり、彼方へと飛び立つための門でもあるのだ。
春睦は幻の鶴を追い、そして獰猛な鶴とむつみあうかのごとく谷へと転がり落ちる(僕個人としては、この幻の鶴の描写は不要だったのではと思う。なぜなら鶴が「実在」するかどうかが問題ではなく、春睦が鶴を「見た」と信じることが重要であり、彼が「見る」ことによって幻の鶴もまた存在するという、合わせ鏡のような関係性こそ、ここの描写にはふさわしかったのではと思うからだ。以前にもこんなことを書いたようだ。奥泉光の「葦と百合」。「存在するものが視えるのではなく、視えるものが存在する」 )
幻の鶴によって、傷を受けた春睦は、再び能の新作にとりくむ。
「鶴を美しいと観る世界、優雅で、哀艶で、上質な禽とみる世界、それは正常で、正当とみなされる世界・・・・・少なくともそれらの世界だけは、完全に払い落とした」
かえりみられることのなくなった妻は、禽の嘴ならぬナイフで彼を傷つけようとする。だがその動機が、あくまでも地上的であるがゆえに、その傷から流れ出す血は能に呑みこまれ、彼女の本意とは別に、彼をさらなる高みへと運ぶのだろう。なぜなら、門は傷を受けし者にこそ開くのだから。
2000.05.19.
京都には多くの血天井が残されている。そのうちのひとつ、洛北の獣林寺の血天井は関ケ原の合戦時のものなのだが、調査によってその血の一部にごく最近の血が混ざっていることが発見された。この冒頭部分の描写が素晴らしい。血液のルミノール反応によって発光する血。血天井の奥にひそむ獰猛な獣の眼、何かの魔がじっと眼下をうかがっている・・・・・・この描写は、血の理由が明かされたとき、立ち返って読んでみるとよくわかる。この重要なシーンは美しくなくてはならないのだ。
「獣林寺妖変」は歌舞伎界を舞台に、歌舞伎の魔にとりつかれた者たちを描いた物語である。個人的な思い出として、小学校中学校のとき、よく父親に連れられて歌舞伎を見に行った。5月、7月、そして年末の京都。舞台には、確かに極彩色の「魔」が住んでいた。「海という字はひとつでも、深いと浅いは客と間夫、間夫がなければ女郎は闇・・・・・・」例えば有名な揚巻の悪態の初音で、ゾクリと総毛だたせるような神通力を持ちうるかどうか−−−それが妖術師としての役者の真髄であろうと思う。
では、「獣林寺」において「魔」の体現者とされる“乙丸屋”とは誰なのか。中井英夫は乙丸屋のモデルを六世中村歌右衛門(成駒屋)としており、「現存する歌舞伎俳優そのままであり、毫も作者の想像力によって産みだされた部分がない」のは遺憾だとしているのだが、例えば松田修が分析するように、乙=音、丸=輪=羽と読めば、乙丸屋はすなわち音羽屋のもじりであることは間違いないだろう。音羽屋、つまり歌右衛門とは芸風の異なる女形の重鎮、七世尾上梅幸のことだ。
それに、この物語に登場する3人の「カレッジ俳優」つまり、従来のお家制度にとらわれた古い歌舞伎界の外から入ってきた大学出身の俳優のことだが、赤江瀑の経歴としておもしろいのが、日本大学芸術学部演劇科を中退していることだ。同級生には、のちにカレッジ俳優として売り出す嵐徳三郎(今も現役の歌舞伎役者で、かつては「日大歌右衛門」と綽名されていた)、それに今は廃業したが大谷正弥という人がいたことに驚かされた。
・・・・・・と、くだくだモデルの存在について書いてきたのだが、実を言うと僕はこの小説にはモデルなんていないんじゃないかと思っている(上の尾上梅幸にしても、ひとりのモデルに限定するわけじゃないという反証としてあげたにすぎない)。ただ、歌舞伎の「魔」を体現する、ある種抽象的な人間像、それが乙丸屋であったのだと思う(実際、乙丸屋自身はリアリティーをもって描かれていない)。
堅牢な城塞のように古い制度で塗り固められた歌舞伎界に、その底知れぬ「魔」に魅せられたがゆえに、不毛だとは知りつつも挑み、そして敗れていく。そこには部外者、最初から「見る者」と定められてしまった者たちの、哀しみあるいは怨念が渦巻いている。中井英夫が指摘した「作者もまた魔につかれ、右往左往している」というのは正しい指摘であると同時に、これが即、物語の欠点となるのではなく、逆にそれはむしろ作者の狙いではなかっただろうか、と思う。
2000.05.15.
戦災孤児の弓村高は、ロシア人舞踏家にその才を見込まれ、若くしてバレエ界の寵児となる。彼の名を世に知らしめたのはパリ公演での短い自作舞踏詩「クレタの牛」であった。20世紀初頭の狂える天才舞踏家ニジンスキーが「牧神の午後」で、一夜にしてうつし世の神と化したように。彼はニジンスキーと同じ芸質を持ち、その生もまた同じ軌跡をたどっていくのだった。
以前、ニジンスキーの写真を見たことがある。「奇跡の跳躍」と言われた若い牧神は、写真の中で永遠の跳躍をとげていた。中井英夫は後書きで「飛翔する魂」という言葉をつかう(実際には「飛翔を忘れた魂」が芸術を制限することを嘆いているのだけど)。二度と着地することのない彼の飛翔は、この呪わしい現実という世界と反対のベクトルを持つ力そのものとして、作者の目にうつったことだろう。そして、その奇跡的な飛翔を、この現代に再び蘇らせ、描ききろうとする彼の熱意は切実なものがありはしないだろうか。
<私は肉体に宿った神である>と昂然と言い放ったニジンスキーの「飛翔」は、関係者の死によって闇へと跳躍する弓村の飛翔として描かれる。その飛翔をもはや止めることができないと知った友人は、投身自殺という失墜をとげた。ミステリーの体裁を持ってはいるが、はっきりとした解答は与えられない(彼はよく他の作品においても、トリックとして記憶のすり替えを使っているようだ。この記憶によるトリックというのは、現代のミステリーとして有効な方法だと僕は思っている)。27歳で狂気の人となり、余生をサン・モリッツの精神病院ですごしたニジンスキーの結末を、赤江瀑は「これからも狂気のうちに繰り返されるであろう殺人」の予感に代えている。
京都の夜の描写など、リアリティーを持ちながらも幻想的である文体は、三島由紀夫や中井英夫の系譜に名を連ねる人と見ていいだろう。しかし、一方でいろんな読み方が可能な作家だとも思う。よい意味で捉えがたい作家である。
2000.05.12.
私立探偵ブルーはホワイトと名乗る人物からブラックを見張るという依頼を受け、ブラックの向かいのアパートを借り、連日見張りを続けるのだが、ブラックは一日中家にいて何かを書き、本を読んでいるだけで、何も行動をおこそうとはしない。ブルーはブラックの読んでいる本を買って読み、様々な想像によってブラックという男を再構成しようとするのだが、「何も起こらないこと」が次第に彼を不安にしていく。なぜブラックを見張るのか。そもそも見張られているのが自分の方だったとしたら・・・?
当然のものとして認識していた世界が、ふいに崩壊する心もとなさ。意味付けしようとする努力は、曖昧模糊とした霧の中で行き先を見失ってしまう。視線と記述。かつてブルーにとって言葉とは「彼と世界とのあいだに立つ大きな窓」であった。だが見ることも書くことも、何かを与えるのではなく、彼に世界を失わせるばかりなのだ。この喪失感と浮遊感ともどかしさは、現実に生きている僕たちにもわかりやすい感情だろうと思う。
だが、書くことと見ることの行き詰りが僕たちの置かれた状況なのだと認めながらも、これはれっきとした「物語」なのだ。「何も起こらなかった」のではなく、それは裏返しの意味を帯びて、別の次元での意味付け、物語化されるのである。
「その男には私が必要なんだ・・・彼を見ている私の目が必要なんです。自分が生きているあかしとして、私を必要としているんです」
2000.05.10.
若く潔癖な修道僧である主人公は、自らの叙聖式の日、美しい遊女クラリモンドに出会って以来、彼女に思いを寄せるのだが、僧籍の身であるためその恋を押し隠し、再会したのは彼女の臨終の祈祷の場であった。しかし、僧侶が哀しみのあまり遺骸にくちづけをしたそのとき、彼女は喜びとともに目を覚ますのだった。その日以来、夜の夢の中で彼は愛するクラリモンドと暮らす優雅な貴公子であり、そして昼間は夢の中での涜神行為の許しを求めて神に祈りつづける僧侶という、完全な二重生活が始まるのだった。
人格の分裂、二重生活というテーマは、彼が生涯敬愛したというホフマンの影響が濃い。ゴーティエはその実生活における豪快趣味のために世俗的にすぎるという批判の向きもあるようだが、ボードレールやネルヴァルの親友であり、ネルヴァルの不幸な死は彼がともに旅行した際に船のマストにとまった不吉な鳥のせいだったと信じて疑わない、無邪気で子供のような恐れを持つ幻視者であったという見方もある。
この本でおもしろいのは、一般的な吸血鬼物語や伝説における吸血鬼とは非情な、人格をほとんどもたない相互理解の不能な化物として描かれているのに対し、ここに登場するクラリモンドは恋する吸血鬼として非情に魅力的に描かれていることだ。ある夜、彼女に睡眠薬を盛られていることに気づいた主人公は、薬を飲むふりをして彼女の様子をうかがってみる。生きていくのに血が必要な彼女は、主人公が弱らないだけのわずかな血を涙ながらに吸っていくのだった。それを見た主人公はますます彼女に魅了され、もはや彼女が吸血鬼だということは問題ではなくなる。
しかし神学校時代の師セラピオン神父が、変容していく「真昼の彼」を心配し、クラリモンドの死体を破壊するに至り、彼の二重生活と愛も終わってしまう。そしてゴーティエはクラリモンドではなく、この神父の方をこそ「悪魔」というたとえを用いて描写しているのである。
異形の者へと寄り添っていく、美しい吸血物語の傑作!大推薦。(岩波文庫でも、おなじみ田辺貞之助の訳で「死霊の恋」として出版されています)
2000.05.07.
「虚無への供物」の作者、中井英夫の最晩年助手をつとめた本多正一による“彗星との日々”の写真および文章を編集したもの・・・などとあっさりと紹介することもためらわれる。というのは、好きになりすぎてほとんど扱いにすら困ってしまう作家がいるとしたら、それが中井英夫だからだ。
すでに終わってしまったものとしての写真。本多氏自身がインタヴューで答えているように、写真を撮るということは、一枚の虚構をつくりあげることなのだ。だから僕はその言葉にそって、この本が単なる中井英夫の思い出をつづったものではなく、本多氏のひとつの試みであったととらえたい。
「虚無への供物」第一章サロメの夜。黒天鵞絨のカーテンが開いた1954年12月10日−−−その39年後の同じ日、1993年12月10日に中井英夫は帰らぬ人になった。帰らぬというのは、その言葉のとおり、彼はついに地球という名の流刑地を離れ、彼の「ふるさと」へと帰っていったのだろう。時間と空間の彼方にある、決して行きつくことのない場所。そこでは何もかもが現在と裏返しの、本当の生活が行われている本国へ。
彼の代表作である「虚無への供物」が始まった日と、彼が亡くなった日が同じだったというこの偶然の(しかし神秘的な)一致は、文中幾度も繰り返し言及されている。この言及は、その彗星の死すらも美しい物語へと昇華しようとした、本多氏の(そして彼にしかできない)最大の弔歌であると思う。顔を合わせば・・・的な彼らの微笑ましい口喧嘩のエピソードや、何気ない日常のスナップ写真も、まさに「中井英夫最後の美しい物語」なのだ。この試みは、自らの死を描けないことを作家としての欠落だととらえていた中井英夫への、素晴らしい美酒の一滴であったと、僕は思う。
「薔薇は不在なるがゆえに、限りなく美しく“その人々”の胸中に現前する」
2000.05.05.
「匣の中の失楽」の後でこれを読んだものだから、正直な感想としては肩透かし。前者が“アンチミステリー”あるいは“メタフィクション”であることを執拗なまでに追究した本であるなら、この「狂い壁狂い窓」はストレート(?)なミステリーである。
しかし思うに、この本の主題はミステリーにあるのではなく、むしろミステリーを形式として使ってしまうという、彼の小説の本質は失われていないようだ(それに謎解きそのものに対する、どこかなげやりな感じがしないでもない。熱中しつつも醒めているような、逆説的な態度は嫌いじゃありません)。
現実の転換や、虚構の中の虚構といったことが語られていない分、じゃあ何が書かれているかというと、それは題名のとおり狂った壁と狂った窓。小説の舞台となった「樹影荘」は、竹本健治自身が昔これと同様の建物に住んでいたらしく、使われるエピソードも実際に体験したことが交えてあるそうだが、著者はこの建物に妖しい生命を与えようとしている。主人公は狂った建物であり、家が人の狂気を呼び覚ます(確かにまれにそういった建物があるものです)。
偏執的な彼の描写はとても好きなので(枕元に坐って自分を見下ろす死んだ妻の顔。その毛穴からおびただしい白い線虫が這い出し、自分の顔の上にぽろぽろとこぼれてくる描写など)、これはそういう小説なんだと思って読めば、僕的には納得できました。偏執的な描写の点では「匣〜」のときよりも、奥泉光と近い雰囲気があります。
ちなみに。
この小説に登場する小野田という大阪人は明らかに中井英夫「虚無への供物」の八田皓吉が意識されてて、それはいーんだけど、頼むから大阪人に「〜だす」って言わせるのはやめてほしー(笑)他の箇所は許容範囲ですが、「だす」だけは我慢できん。「虚無」を読んだときにヒデーなぁと思ってたら、しっかり竹本健治にうけつがれてた。あの大阪弁を監修したのが塚本邦雄らしいが、彼は普段から「〜だす」って使ってたんだろうか。それはもしや塚本弁では。疑問。
2000.05.01.
BIBLIOPHILY INDEXへ
LABORATORY表紙へ戻る