読書日記
ごく個人的な
舞台は第二次大戦後のウィーン。オーストリア=ハプスブルグ家の支配が終わり、かつて貴族たちの住んでいた世界が崩壊しつつある時代。主人公の少年は大使館員の父親に連れられてウィーンに来た折り、偶然“美しすぎる”容貌を持つ貴族ヘルベルトと出会う。親密になった彼らは、ヘルベルトの領地がある東欧へと旅立った。鬱蒼とした樅の森が広がるボヘミア、そして厳しいカルパチアの山々を望むビストリッツァ。ヘルベルトは少年に言う。
「ねぇ君、維納にもまだ貴族は沢山いるけれどね、それは名目だけさ。本当の意味での貴族はもう滅びてしまったんだよ」
真昼には鬱々として生気のないヘルベルト。蒼ざめた顔の同じように美しい従者たち。やがてヘルベルトは住みにくくなったウィーンを離れ、共にトランシルヴァニアにある彼の領地へ行こう、そしてそこで一生好きな学問だけをして暮らせばよい、と少年を誘う。しかし、少年は父の強い反対にあい、強制的に日本へ帰されたうえに、ヘルベルトが名乗っていたのは200年も前に死んだ貴族の名前だと聞かされるのだった。
吸血鬼にこんなに惹かれるのはなぜだろう。彼らは永遠に凍結された時間を生きるものたち。陽光のもとでの“健全な”コミュニケーションに破綻をきたしたものたち。死者が蘇り生者の生血をすする。彼らは時間という枷を乗り越えようとする。彼らは彼方とこちら側を行き来する。そして僕たちを彼方へと連れ去ってくれる。
「銀色の輝く鋸の歯、処々に露出している赤褐色の巨大な岩棚、山裾を幾重にも覆う黒い樅の森林。馬蹄型袋小路の行き詰りに奇跡的に拓かれた細い一本の白い街道が、天啓ででもあるかのように私を誘ってやまないと思えたのです。この道を行けば、ヘルベルトの壮麗な城がある、そこではあの深い陶酔に浸って暮らすことが出来るのだ・・・・・・」
のちに年齢を重ねた主人公は回想する。ヘルベルトといたとき、樅の木の下で感じたエロティックな酩酊を。この目眩を振り捨ててしまったとき、彼の時間は動き出す。もう永遠に17歳ではいられない。
吸血鬼になれなかった少年。吸血鬼物語の最も純粋な部分のみを抽出した、硬質でありかつ甘美でもある名作。
2000.07.19.
色濃い闇。何一つ動かない暗黒城。耳を澄ませるときらびやかで涼やかな音色響いてくる。やがて浮かび上がる花櫛の無数の小花、それらの触れ合う響き・・・・・・冒頭のイメージの美しさに圧倒される。なにひとつとして描写に無駄がないというか、意表を突くと同時に、確かにそう描く以外にないはずだ、と妙に納得させられる描写。鮮やかな色彩感覚は初期の頃よりずっと洗練された趣があるし、闇の章とも言える第一章とまさに歌舞伎の極彩色の世界である第二章との転換は、まるで舞台上のどんでん返しを見ているようだ。
場所は江戸三座の一座とおぼしき舞台裏。櫓には白木の座棺が吊るされている。虚構の世界で棺を守っている者は、三人の女形を中心とした「歌舞伎の精」たち。一方現実界では、歌舞伎戯作者の大家、鶴屋南北の魂を現代劇に蘇らそうとするひとりの劇作者が、その試みに敗れ、命を失った。彼を愛していた女優たちは、鶴屋南北の魂を求めて、歌舞伎の精霊たちが住まう舞台裏へとやってくる。このやかましい女たちは、櫓に吊られた棺には、鶴屋南北の魂を歌舞伎の精霊たちが独り占めするために閉じ込めているのだと考え、棺を狙いにやってきたのだ。しかし、棺の中に閉ざされていたものは、彼女たちが考えるようなものでは決してなかった・・・・・・
「演劇界」6月号に、赤江瀑は「色悪考」という文章を寄せている。
ここで語られているのは、色悪の魅力とは両性的でない、あくまで男性的なものだということ。そしてこの「色悪考」でもっと強調されてよかったのは、その男性的なるものが、白塗りの下に“隠されている”ことだと思う。そういう意味で、僕はこの文章の続きにあるのが「星踊る綺羅の鳴く川」だと思うのだ。
僕がいつも思うことは、歌舞伎の魅力は、そして美しさは、常に二重性にあるということ。それは「ありのまま」から最も遠い位置にある、不自然な、隠されることによって初めて輝きを放つ、人工の美しさなのだ。
例えば「星踊る〜」の中の、次の台詞。
「女でない身が女を生きる・・・女形は幻のもの。幻を生きてこそ、生き抜いてこそ、一角の花。・・・だってあなた、お舞台は幻の生きる場所。決して幻以外のものは住めない場所でござんしょう?」
ナチュラルな、ありのままのものになど、僕は色気なんて感じないだろう。それは秘められているからこそ美しい。この秘められたなにものかが、棺の中に封じ込められているのだ。
太夫の精が皮肉をこめて言う。「女の体で演じられる南北なんて、そりゃ南北じゃァありませんよ」。幻の身を生きる必要がなく、棺に閉じ込めるべきものを持たない、「ありのまま」で女を演じる女優たちには、永遠に彼らの秘密に手が届かないのだろうか。そうかもしれない。だけど赤江瀑は最後に棺に刃物を振りかざす女優の姿を描いている。
以前読んだ「獣林寺妖変」も歌舞伎に関連する話だったが、これはあくまでも歌舞伎界を舞台にした、という小説だった。それに対し、「星踊る〜」は歌舞伎の内部へと深く入り込んだ作品だと言えるだろう。
歌舞伎による舞台化を切望する一冊。
2000.07.17.
真夏の明るい午後に起こった突然の惨劇。赤いハンモッグでまどろむ刀研師に突き立てられた名刀「次吉」。その刀で胸を貫き、死体の側で自害する母。そして父の割腹自殺。つい数時間前まで楽しく一家団欒をしていたはずの家族が、突然不可解な悲劇に突き落とされる。それは主人公駿介がうたた寝している間に起こった、白昼の悪夢だった。
古典悲劇「オイディプス王」は、生まれながらにしてこの子は将来父を殺し、母を犯すだろうと予言された王子が、一度は捨て子にされるものの、自ら気づかぬまま予言のとおり父を殺し母を犯していたと知り、両目をえぐり放浪の旅に出るという話。オイディプス的なものとしてあげられるひとつに、「父親殺し」があるが、「オイディプスの刃」での父親の死の間接的理由は子供たちの争いにあったにせよ、よりオイディプス的なものとして鮮明なのは、自らを求め、運命を知るに至るという、自己を発見するという物語だろう。
他の二人の兄弟が、母の代替物として香料の道を進む明瞭さに比べ、主人公の駿介にはその明瞭さがない。彼はただひとり、運命に逆らうプロメテウスたらんとする。彼は真実を求める。しかし炎の指が書くという運命の書を読み取ったとき、彼にもはや境界はわからない。なにが自由意志で、なにが運命であったのか。
「自分だけが・・・知らずに自分を生きていたのだ・・・これまでの暮らしが、すべて一夜にして消え失せていた・・・自分で選んだと思えばこそ、生きてこれたのだ」
「殺し蜜狂い蜜」でも使われていたが、ミステリーとして読むならば、これもまた記憶のすり替えトリックの変奏曲だ。
それにしても赤江瀑は、今回出てくる香水や刀にしても、物が持っている魔力を引き出すのが巧みである。そしてラストシーンの色彩の鮮やかさが素晴らしい。幻想文学の特集号で香沢真矢がこれらの鮮やかさを歌舞伎に喩えていたのは実にうなずける話で、引用してみると、ラストの雪のシーンは「積恋雪関扉(つもるこいゆきのせきのと)」。舞台には一面の雪。中央に満開の桜の木が一本。この世のものではない矛盾した光景だが、これに近い感覚が赤江瀑の描写にはある。もうひとつは「義経千本桜」。駿介の記憶の闇を、狐忠信に喩えていて、これも非常におもしろい。(ちなみに、僕はスーパー歌舞伎というものをあまり好かないのだけど、一度テレビで見た狐忠信の場面だけは印象的だった。暗い舞台に人工的できらびやかで安っぽくてどぎつい衣装が、実にふさわしく思えた。余談だけど)
ちなみついでに。
このオイディプスの刃が出版されたころ、中井英夫は小説の舞台にもなった南仏グラースへ旅行していたらしく、「香りへの旅」の中で懐かしそうに思い出している。
2000.07.02.
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