読書日記
ごく個人的な
手際も鮮やかな上質のマジックを見たような読後感。目に見えるものは、二重の、多重の姿を持っている。それらはある路地裏に入りこんだそのとき、ふいに現れる。老獪なマジシャンの手にかかると、路地裏は海底のアトランティスの列柱が並ぶ深海風景へと変わる。実際に目に見えている光景は何も変わらなくても。だから秘密の宴はそれを「見よう」としない人にとっては、ただの路地裏にすぎない。魔法の布をはぎとるその鮮やかさが魅力的だ。
アンドレ・ブルトンの「ナジャ」を読んだときにも似たような感覚をおぼえたのだが、「ポムレー路地」には軽快な明るさ、笑い、軽妙洒脱な言葉の遊びがある。くさめ爆弾、殺し屋の石鹸、下痢座蒲団、放水シガレット、悪魔の釘、端のない糸、愛人温度計、雷銀粒、抱腹名刺、噴霧バッジ、花嫁の合鍵、・・・等々。子供の頃、お祭りの露店の間を歩いていたとき、世界はこんなふうに見えていなかったか。路地裏の魅力。しかしこのように「隠された存在」がふいに現れることによって、僕たちの存在そのものが安定性を失って、二重の存在になる。現代の神話は、このような不安定な均衡の上でのみ成り立つのだろう。
2000.08.26
魔眼信仰とは、ある邪悪な魔力を帯びた眼によってにらまれると、必ず不幸がおこると信じることであり、特にナポリで強く信じられていたという。そういった魔力を帯びた眼の持ち主を魔眼者というのだが、これは本人の意思とは無関係であり、自分がまさか魔眼者であろうとは意識していない。この小説の主人公もそうした魔眼者のひとりとして描かれ、彼は療養中の恋人に会いにナポリへと赴くのだが、その地で魔眼者としての自分の存在を知り、やがてはそのことが悲劇を生むことになる。
ゴーティエがたいへんな迷信家だったことは、以前「死女の恋」のときにも述べたが、魔眼についても彼は非常にそれを恐れていた。例えば、彼はオペレッタの作者オッフェンバックのファンだったのだが、彼が魔眼者だと聞き知ってからは、彼のレヴューを新聞に載せることすら嫌がって逃げていたという。また自宅の玄関先に、魔眼者の視線をそらせると信じられていた、大きな雄牛の角を飾っていたそうだ。だが、オッフェンバックの話からもわかるように、思うに彼が恐れていたのは魔眼者そのものというよりも、むしろ「魔眼者であると恐れられていた者」ではなかっただろうか。この小説では、魔眼という迷信が描かれているのではない。そういう迷信を通じての、不幸の感応力、感染力といったものである。彼は実生活において迷信家であったが、その小説においては、迷信、幻想、そして現実の間を行ったり来たりし続けている。主人公の青年が果たして本当に魔眼者であったか、そんなことは描かれない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。すべてはただの偶然であったとも片づけられる。だが、そのことは実は問題ではないのだ。偶然であろうとなかろうと、彼は魔眼者であるとみなされた。だから、彼は彼らの次元において確かに魔眼者だったのである。
恋愛物語の悲劇とも読めるだろうけど、そういう意味での後味の悪さではなく、不吉な澱を読後に残すような本。
2000.08.20
古代研究の大家であった伯父の不審な死をきっかけに、主人公は遺品の中に膨大なノートと新聞記事、そして醜悪で病的なシンボルをほどこした浮き彫りを見つける。調査をすすめるうちに、浮かび上がったのは、共通の夢。ひとつ眼の巨人族が住み、緑色の粘液をしたたらせる石柱がそびえたつ、失われた都市「ル・リェー」の幻。その地下深くには、目覚めのときを待つクトゥルーが眠っているのだった。
その夢を主人公は「見た」わけではない。彼はただ、残された資料を読み、それを追体験したにすぎない。つまり、我々読者の立場とそれほど変わらないのだ。正確な地名、年月日によって、この追体験する恐怖は裏付けされていく。その周到さはかなり念の入ったもので、彼の悪夢の世界にのめりこんでいくことに魅力を感じるならば、この作品はかなりおもしろいものだと感じるでしょう。この周到さには、わかっていながらも惹かれていくような、蟻地獄的魅力があるようです。
今回は、創元推理文庫の宇野利泰翻訳で読んだのだが、この作品は1971年、クトゥルー神話を日本に紹介する先駆として、矢野浩三郎訳で「ミステリ・マガジン」に掲載された記念的作品でもあるようだ。
今まで、クトゥルーという名前のみだったものが、この作品になって初めてその御本尊を拝めるわけだが、異形の者たちがふいに白昼のもとに姿を現すとなると、どこか悲哀の入り交じった滑稽さが加わって、僕の趣味からはやや遠ざかる。ただ、ラブクラフトの場合、異形の者が今回のようにそのまま登場するパターンと、周辺のみが描かれるパターンと明らかに2通りの作風があって、これは僕の感想だけれど、実際のところラブクラフトは、そこまで怪物の描写にこだわっていなかったのでは、と思う。で、本文にあたってみると、描写は執拗だし、なんだか形容詞は大仰だし、なんだ、やたら熱心じゃないかと思わせるのだが、結局肝心なところになると「怪物の姿の凄まじさは、彼の描写力をはるかに越えていて・・・」とサラリとかわしてしまう。だから、クトゥルーの描写にしても、だいたいの姿は描かれていても、かなりの部分読者の想像力にまかされている部分も大きい。むしろ彼の執拗さはどこにあるかというと、もっともらしい資料を出してくることによる、現実への論理づけ、秩序だてという部分にあるのではないだろうか。彼のもってまわったスタイルというのは、夢と現実とをつなぐ接点のようなものかもしれない。
2000.08.14.
魔術師が密林の奥深く、円形の廃虚で夢を見ている。彼は意識的に夢を見る。そして一人の完全なる人間を、夢見ることによって現実へ押し出そうと試みているのだ。やがて一人の息子が生まれた。彼は他人が夢見た幻である。ある日、廃虚は炎に包まれ、焼け滅びる。滅びの瞬間、炎に全身を包まれた魔術師は、地獄の苦しみを味わうどころか、甘美な愛撫をそこに感じるのだった。なぜなら、彼もまた悟ったのだから。
「おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだ」
自分もまた夢見られる存在だったと知ったとき、そこにはなにかしら救いのようなものがある。それはなぜなんだろうか。僕はそれは人間の有限性ということと関係があるように思う。人間の創造を夢見る男。これは当然、想像力によって人間を創り出す作家であるボルヘス自身と重なっている。夢見る男もまた、夢見られている存在だった。終わりのない輪。創作行為によって、作家自身もまた夢の円環へと必然的に入っていくことができる。自分の創造した人物が「実在」するのであれば、自分の存在もまた夢見られる存在だということを、否定することなどできなくなる。他者、分身というのはボルヘスのほかの作品でも良く出てくるテーマで、常に彼は真摯に「実在とは何か」ということを問い続ける。他者になること、あるいは自らの分身を生みだしたいという欲求は、有限の存在である人間にとって、永遠の憧れであるとも言えるだろう。そして、それは創造するという行為を通じてのみ可能ではなかろうかと思う。書物の中でだからこそ可能な、永遠ならざる僕たちの甘美な夢。
「そして、彼がきみを夢みることをやめたならば・・・・・・」
2000.08.05.
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