■円地文子『双面』(国書刊行会)

歌舞伎の女形の魅力とは何なのだろうか。
女形とは、男の中にある女と女の中にある男を両方表現できる存在である。
僕が思うに、元々は男である女形が女になろうとするベクトルが一方的に働くだけでは、実は真に魅力的な女形たりえないのだ。どんなに逆説的に聞えようとも、実は男としての性質を取り戻そうとする、逆方向のベクトルが同時に働くことによって(これは必ず同時でなくては意味がない)、反対側の力に引き裂かれつづける、その中心に存在することのできる女形こそが、望みうる究極の女形なんじゃないだろうか。おそらくこの小説もそうしたことが言いたかったのだろう。
ちなみに、小説のモデルは6世中村歌右衛門。

2001.06.25.

■オノレ・ド・バルザック『サラジーヌ』(国書刊行会)

恋した歌姫が実は男性だった。騙された彫刻家のサラジーヌは激怒するのだが、ここでおもしろいのは、サラジーヌが彼をののしりながらも、実は両性具有者の本質を言わんとしていることだ。例えば、彼の怒りは「女という女に不完全の烙印を押す」「怪物」に対して向けられる。物語の筋としては、性のはざまにある者に対して激怒しているにすぎないのだが、実際のところ彼は、両性具有であることこそが「完全」なのだと認めている。
小説中、かつてサラジーヌが恋をしたカストラートの肖像画を眺める場面がある。
20歳の彼の肖像はアドニスに喩えられる。「あなたもアドニスの中にエンデュミオンの原形をお認めになったはず」
エンデュミオンとはギリシア神話でお馴染みの、不老不死の永遠の眠りを与えられた少年のこと。つまり、両性具有者こそが不老不死の存在であり、永遠性を持ちうるのだということだろう。

2001.06.25.

■オスカル・パニッツァ『あるスキャンダル事件』(国書刊行会)

前述のフーコーがバルバンの手記とともに出版した小説であり、バルバンの事件の脚色というよりも全体的に変更を加えた物語。
この小説が両性具有のテーマにとりつかれていた19世紀をよくあらわしている一方で、この小説が特殊であるのは、他の両性具有を扱ったものが、それを理想的な存在としているのに対して、ここではむしろ醜く、おぞましいものとして描かれている点にある。
女子修道院寄宿学校の生徒である彼女(彼)は、中性的な存在というよりも、男性寄りの姿として描かれ、それゆえに女装した男(しかもそれが不釣り合いで似合っていない)という姿が立ち現れる。実際、彼女は他の少女たちから「悪魔」と呼ばれて恐れられ、あるいはからかいの対象になっている。

なぜ、フーコーはこの物語を、そしてバルバンの手記を取り上げたんだろうか。
「真の性」(すなわち生物学上の男性であるとか、女性であるとかいうことだ)に縛られることを否定する彼。おそらく、彼の目的としては、両性具有者を単に理想化することではなかったのだろう。19世紀の末には「理想」であり、新しい美という美学上の問題であった両性具有とは、現代においては「解放」というキーワードすら伴っているようだ。
現代におけるアンドロギュヌスとは、観念の世界に探すよりも、現実世界になんと多くいることだろうか。

オスカル・パニッツァについては、前述のフーコーが少し言及しているが、狂える精神科医の経歴はなかなか興味深い。手記とパニッツァの意外な結びつき、そして手記、パニッツァ、フーコーの結びつき、と書物は書物を語り継いでいくのである。

2001.06.22.

■ミシェル・フーコー『両性具有者エルキュリーヌ・バルバンの手記によせて』(国書刊行会)

19世紀の後半、エルキューヌ・バルバン(別名アレクシーナ)と呼ばれる寄宿学校で暮らしていた女学生が、実は男だったと判明した実際の事件があった。彼(彼女)は手記を残して自殺。その手記に対して、フーコーが自らの意見と、オスカル・パニッツァの小説「あるスキャンダル事件」を付けてまとめたもの。

ここで彼が言いたいのは、「真の性」というものは幻想にすぎないということ。そんなものに従わされざるを得ない現実の窮屈さ。それによって曲げなくてはならない自分自身。
そして、セクシャリティは人間の内側にある最高の真実を隠しているということ。

彼(彼女)の手記は、非同一性の幸福な中間状態だとフーコーはいう。この中間状態を幸福なと形容するところがいい。もちろんこの非同一性というのは、「真の性」にたいする非同一性であり、それは現実においては「異形」という姿で立ち現れざるを得ないのだ。

2001.06.22.

■アルベール・サマン『ヘルマフロディトス』(国書刊行会)

ヘルマフロディトスとはヘルメスとアフロディテの合成語、つまり両性具有者のことを指す。これは一編の詩なのだが、読んでいると19世紀末の詩人たちにとって、ヘルマフロディトスの美がいかに先鋭なものであったかがよくわかる。
異形の子は、灼けつくような異教の太陽から生まれる。例えばその美とは、物思いや病的さなど微塵もないルノワールのモデルたちに比べると、その「異形」こそが彼であり彼女であるものの美であった。それゆえに、彼女の、彼の、姿は昼間の太陽よりも、深々とした夕べの太陽となじむのである。

2001.06.12.

■フーゴー・フォン・ホーフマンスタール『ルツィドール』(国書刊行会)

二人の美しい姉妹。妹は幼少より男として育てられ、姉のことを慕っている男に恋をして、姉の身代わりとして男の架空の恋人となる。
彼女は男装という仮面をかぶり、そのうえさらに姉の身代わりという女性の仮面という二重の仮面をかぶらされている。強いられた服装倒錯に加えて、精神的な倒錯さえもが自らの外面に引きずられていくかのような物語である。そこにはなにかマゾヒスティックな喜びがないだろうか。
崩壊直前のオーストリア・ハンガリー帝国からやってきた、ゲルマン的世紀末の世界。ただ実に奇妙な説明調の文体で、大胆に物語をはしょったりする。
ウィーン風というのはどういうものなのだろう。それはフランツ・フォン・バイロスが描くところの陰影にひそんでいるのか。シュニッツラーの描くような、舞踏会がはけた後の女優の部屋で見る、緑色のシェードをかぶせたランプの暗鬱な光であるのか。

2001.06.12.

■増田和利『アーサア・シモンズ断想』

シモンズの文章というのは実際読んでいるとひきこまれるような魅力があって、それは詩人の生命にじかに触れるかのような印象の批評だからである。それが魅力でもあり、また欠点でもあるのだろうが、ヴェルレーヌに対する容貌のこだわりなんて、読んでて「クッ」と笑いそうになるぐらいおもしろいですよ。彼の文書で手近なところといえば、オーブリー・ビアズレーの小説『美神の館』(中公文庫)におさめられている『オーブリー・ビアズレーについて』でしょう。ビアズレーという生命の輝きそのもの、存在そのものへの情熱にうかされたような文章です。
彼もまたプルーストの小説の主人公のような、“一瞬一瞬の生を鋭敏に生きるよう宿命づけられた人への深い共鳴”を持つエステートなのだ。

2001.06.12.

■谷崎潤一郎『魔術師』

半羊神(ファウン)になった主人公とその恋人が、頭と頭をからませて離れなくなってしまうラストは不気味でかつ魅力的な場面である。アンドロギュヌスである魔術師の美しさは、肉体を超越した美しさでもあり、そうした描写において、他の作品での魅力的な人物を語るときの描写と、どこか異なるものを感じた。彼の描写の力は、あくまでも地上的なものであるのか。
それよりも、アンドロギュヌスの魔術師が彼の不思議な魔法の王国を築いている公園の描写が楽しかった。どこか乱歩好みの、「夜な夜な毒々しい化粧を誇っている」浅草めいた公園。(僕は実際に浅草公園を見たことがないので、幸いなるかな、僕の中の浅草公園とは純粋に乱歩の世界にとどまっているのです)

2001.06.06.

■山本芳樹『世紀末異端の幻想画家−侯爵フランツ・フォン・バイロス』

やはり比較される対象はビアズレーで、澁澤龍彦はバイロスに対して、「ビアズレーにある無垢、童心がなかった」と評するのだが、僕としては、バイロスにも無垢とは言えないにしろ十分な無邪気さがあったと思う。18世紀風のエレガンス、装飾性、そして彼は「ロココ趣味の絵を描くだけではなく、ロココ趣味の思考をしている」とまで言わしめたのだから。
ヴィルヘルム・M・ブッシュの言うように彼には涜神だとか不道徳といったものはなく、むしろ無道徳だったのであり、享楽の名匠というにふさわしいのだ。

バイロスの画集を奢覇都館から出版したときのエピソードが載っていておもしろい。出版に携わった生田耕作や資料提供した著者が当時の警察(とはいえもう80年代ですけど)に猥褻図画の疑いで取り調べを受けたおかげで、バイロス侯爵の名が全国に知れ渡ったという、実に心温まる話です(笑)。しかし、80年代にもなって、警察はまだそんな取り締まりをしていたのかと思うと驚きです。時代錯誤甚だしいですね。

2001.06.05.

■日影丈吉『異説蝶々夫人』

ハイカラ右京シリーズ。とはいえメインは女装の美少年、牛若正という異名を持つ稚児めいた少年などを描いた倒錯の世界です。
蝶々夫人といえば、余計なことを思い出してしまって、昔、ありましたね『M・バタフライ』というクローネンバーグの映画が。ジェレミー・アイアンズ演じるイギリス外交官と、ジョン・ローンの女装(これがキワもの!)による蝶々夫人との報われない、そして最後には狂気に至る愛。日影丈吉の小説は、女装の少年は出てきますが「女装した蝶々夫人」の話ではありません。蝶々夫人とは、そんなに服装倒錯をそそる題材なのかと思いますが、映画の場合、キャスティングはもうちょっと考えてほしいものです。(そのぐらいジョン・ローンの女装はキワものだった)

2001.06.05.








index
home