■J・G・バラード『結晶世界』(創元SF文庫)


すべてが徐々に水晶化していくという奇妙な現象が起きている世界で、癩病院の医師だった主人公は、音信の絶えた友人を探すため水晶化が進む森へと向かう。彼の表面上の目的はかつて関係があった友人の細君に会いに行くというものだったが、やがて彼はなぜ自らが結晶化した森へ行くのかを悟る。
水晶化していく森の描写がすばらしい。植物も鳥や水、人間もすべてが水晶化し、プリズムを通して光り輝く世界はとても美しく、もし森に踏み込んで結晶化されてしまうとしても、それは死=時間の終わりというものではなく、結晶の中で永遠を得るということなのだ。
永遠へのうずくような憧れ。
それはバロック芸術が求めるような永遠性、不死性であり、この小説のいたるところにもバロックのモチーフが登場する。一応SFというジャンルではあるものの、バロック芸術から世紀末バロックの流れをくむ作品だとも言えるだろう。

2001.11.25.

■ジャン・ポール・サルトル『嘔吐』(人文書院)


昔、初めて読んだ時は、完璧な瞬間を求めるアニーに共感していた。だが、それは明確さに欠いていたものだったと思う。アニーの言う「特権的瞬間」とは、本の中にある挿し絵の場面の特権である。彼女は生きていく中で、最も相応しく在ること、完璧に存在することを欲している。サルトル自身も以前はそう考えていたに違いない。しかし、そうした生きていること自体が芸術になる、といった考え方はもはや乗り越えられなくてはならないと、彼は考えたのだろう。
生きていくとうこと、そのものには、独学者の存在が表しているようなユマニスト的な意味などない。ただ、物質のように存在する。蟹のように。マロニエの根のように。それは彼に嘔吐をもたらす。ただ唯一、耐えられるのはアニーが求めていたような、完璧な瞬間を求めることであったが、彼女もそれを求めることを止め、もはや若くない肥った女になってしまった。
だが、ロカンタンは嘔吐そのものである私を抱えて、生きていこうとする。サルトルの小説には、どこか行動を起こすための、倫理や道徳を求める志向がある。それが『嘔吐』では小説を書くという行為につながっていく。作品のみが実在を浄化してくれる。 ロカンタンはジャズ奏者のことを考える。彼のことは実在とは切り離されただと考える。僕はロカンタンのことを思う。実在のかなたにいる男のことを思う。

2001.11.23.

■須永朝彦『ガリヴァの知られざる旅』(国書刊行会)


これおもしろいなぁ。特に二つ目のガリヴァがいかにして吸血鬼になったか(!)っていう話なんて、もう読んでる間ずっとにこにこしていた。よく知られているスウィフトの『ガリヴァ旅行記』というのは、スウィフトが勝手に改作したもので、実は本当のガリヴァ旅行記があるのですよ、というお話。それで、ガリヴァはある夜突然死んでしまうのだけど、それは死んだのではなくて、トランシルヴァニアの山奥のお城で月の出る晩に開かれる舞踏会に出るためで、つまり吸血鬼にされたのだけど、なんと彼を吸血鬼にするのが森蘭丸だったりする。しかも表記は「モリラン・マル」で、織田信長は「オダノ・ブナガ」。ちょっと気に入ってしまったのは、明智光秀→「アケティミツ・ヒデ」・・・・・いそうでいない?(笑)トランシルヴァニアのお城には、古今東西の吸血鬼と化した夜の住人たちがたくさん住んでいて、女装好きのヘリオガバルスやネロにミケランジェロとレオナルドもいるし、ワイルドにベケット、それにルードヴィヒ2世にはリヒャルトという従僕までいるのには楽しすぎる!・・・かなり本気で連れて行って欲しい。

2001.11.19.








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