■澁澤龍彦『高丘親王航海記』
澁澤龍彦はベルメールとバタイユとを比較して、ベルメールは「その欲望を神への叛逆の、つまり侵犯の中で実現しようとするのではなく、むしろイノサンス(無垢)の中で実現したいと願っている」と書いた。『高丘親王航海記』に描かれているような晴朗なエロティシズムは、どこかベルメールのイノサンスにも通じるところがあるように思う。ただベルメールの人形には黒い残虐性があって高丘親王のそれとは大きく違うところだけれど、、そこから何があらわれてくるかは別として、イノサンスのエロティシズムという点は、彼らに共通するものではないだろうか。
僕が気に入っている場面は、父親の美しい愛人藤原薬子が幼い親王に添い寝をしてやりながら、彼の股間の小さな二つの玉を掌につつみ込んで、鈴のようにころころ転がす・・・という場面で、そこにはべたべたしたいやらしさは全くない。頭だけが人間の女で下半身は鳥である世にも珍しい単孔の女というものたちの部屋を親王がめぐる場面も同様に、透明で美しく、子供がおもちゃ箱を覗き込むような、イノサンスのエロティシズムがあるのだ。
澁澤さんはこの小説を病床で書いたという。
60代も後半に入った年齢にもかかわらずいつまでも若い、というよりも子供のような魅力を持っている親王(あだ名が「みーこ」なのがおかしい)は、澁澤さん本人とどうあっても重なるだろう。憧れてやまない「さかさまの国」天竺への旅の途上、願いなかばにして病に倒れた親王は、天竺と往来するという虎に食われることで、虎の血肉となり天竺へ行こうとする。そこには死への不安はあっても、恐怖はない。むしろ輪廻転生の静かな喜びにみたされているのだ。それはなんて感動的な、美しい最期だろうか。
きっと澁澤さんの死の床の境地も、このような透明な喜びにみたされていたんだと信じたい。2002.01.15.
■エレミール・ブールジュ『落花飛鳥』
「この世は悪しき夢、我らははかない幻影にすぎないのか。喜びや楽しみは、手を伸ばせばこわれてしまうシャボン玉みたいなもの。足元に永久につきまとうのは我らが墓なる大地。いつの日か、そこに落ちるべき墓穴なのか!」
『デカダンスの想像力』を書いたジャン・ピエロによると、デカダンスの美学とは先ず人間の生存についての悲観的な考え方を土台にしている。現実世界への深い絶望は、デカダンスに先立つ数十年前、ロマン主義の世紀病と呼ばれた憂鬱よりも、より深刻さを増しているようだ。
このような美学を身につけたものにとって、社会の外に身を置くことが最善であり、彼らは自らの感覚をできる限り洗練させることによって、生に倦んだ精紳に刺激を与えようとする。
一夜にしてコミューンの闘士からロシア大公という時代に逆行するような地位についた主人公フロリスもまた、こうした19世紀末ヨーロッパの不安に駆られた精紳の持ち主のひとりだった。彼は自らの領地で、まさに「魔法の島」と呼ぶに相応しい逸楽の宴を繰り広げる。しかし、彼が真に悲惨であったのは、「魔法のような宮殿」に住んだ、まさにその時が最も不幸だったのだと自覚していることだろう。世の中はひとつの茶番劇にすぎない。宗教も科学もそして「美」すらも、確かなものは何ひとつない。第三部のエピグラフに掲げられたスペインの諺の通り≪すべては無≫なのだと。
この小説中に繰り広げられるのは、拭いがたいペシミズムである。なのにここに描かれた世界が美しいのは、不安に駆られた精紳が理想と美とを求めてやまないその痛ましさゆえかもしれない。
僕の最も好きな部分は、主人公フロリスの母親であるロシア大公妃が死んだ場面である。
母の遺骸を運びながら一行が歩きはじめると、祭のために準備していたイルミネーションで飾られた岬が水平線の彼方に輝き、その光に庭園や宮殿がまばゆいばかりに浮かび上がる。打ち上げ花火がいくつも上がり、花々が水晶のように咲き乱れる。遺骸を運ぶ人達はその光景を言葉もなく見守るのだ。
おそらくあらゆる小説史上もっとも美しい葬儀の場面ではないだろうか。2002.01.09.
■ジョゼファン・ペラダン『クレダンの竪琴』
若くして死んだ竪琴の名手である前妻が後妻を追い出してしまい、伯爵は彼女の竪琴の音色とともに城に閉じこもるという話で、基底にあるのはペラダンの超常現象への深い傾倒。
ペラダンの名前はよく目にするし、折りに触れ引用されるのだが、彼自身の作品というとそれほど一般には読まれていないのではなかろうか。僕自身もペラダンといえば奇矯な「薔薇十字団」の導師というイメージが先行する。
ペラダンは非常に美男子で、あらゆる酔狂に狂い、自らを「彼岸の広告人間」と称し、バルベー・ドールヴィリやジャン・ロランのような人間が彼に夢中になったそうだ。 ペラダンの趣味はモローのそれとどこか共通の部分があるように思う。
この小説のいわゆる「伝説好み」にしても、モローが好んだ伝説のキマイラ、隠された現実であり、個人の潜在意識というよりも、集団的無意識へと向かっていくようなものなのだろうか。2002.01.08.
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