第1章 移民とオーストラリアの歩み
1788年に初めて、イギリス政府によって、イギリス人囚人のオーストラリアへの組織的な移住が開始された。この時以来、オーストラリアの歴史は、常に移民と関わりながら築かれていった歴史である。
イギリス人の植民が始まった時点では、イギリス政府は、オーストラリアの植民地を、流刑地、貿易中継点、海軍基地などに利用する以外の考えを持っていなかった。しかし、1830年までには植民活動が本格化し、イギリスの余剰資本と余剰人員にとって重要な土地となったのである1)。
オーストラリアの方も、イギリスに様々な面で依存しており、従属していた。オーストラリア経済を支える労働力の確保2)、またオーストラリアの植民地化と、その管轄、そして社会の構築にはこのイギリス人の移民や囚人とその家族が貢献したのだ3)。その後も、イギリス系のスコットランド、アイルランド、ウェールズ、イングランドの4つの地域から移民を確保していった。この点から、白人社会に見る多民族性は、すでに18世紀末の入植初期の時代にはじまるのだ4)。
以降、連邦が結成される1901年までに、オーストラリアの人口は380万人になったが、そのほぼ77パーセントはオーストラリア生まれで、大部分がイギリス系であった。
(2)ゴールドラッシュ期
19世紀半ばには、オーストラリアで金鉱が発見された。それより一足先に金が発見されていたアメリカ・カリフォルニアに見切りをつけた人たちも、シドニーやメルボルンに向かった。イギリスとアイルランドだけからでも50万人もの移民がオーストラリアに渡った5)。1850年代に一攫千金の夢を見てイタリア人が大量にオーストラリアに移住してきた6)ように、イギリス以外の他のヨーロッパ諸国からの移住者も次々とやって来た。特に、安い賃金で働く東欧からの移民、そして更に中国人を筆頭に大量のアジア系労働者が殺到するようになった。
このゴールドラッシュは、それまでのイギリス系が圧倒的に主流だった民族構成に、イギリス以外のヨーロッパ系とアジア系が加わったという構図の大きな契機であったのだ。
(3)移住制限法成立期
オーストラリアが連邦政府となるのと同じ年の1901年、オーストラリアはアジア人と有色人種の移住に厳しい制限を設けるのを目的にして、「移住制限法」を制定した。これにより、一旦、急激に増えたアジア系の新規移民者は締め出され、既にオーストラリアに移住し、居住をしていたアジア系の人の数も減少の一途をたどったのだ。〔表1参照〕
表1 アジア系人口の推移 7)
中国人 |
日本人 |
インド人 |
|
人数 男性比率 |
人数 男性比率 |
人数 男性比率 |
|
1901年 |
30,542 98 |
3,554 93 |
4,681 99 |
1911年 |
22,753 96 |
3,489 94 |
3,653 96 |
1921年 |
17,157 93 |
2,740 93 |
3,150 94 |
1947年 |
9,144 72 |
157 62 |
2,189 92 |
出典:A.T. Yarwood and M.Knowling, Race Relations in Australia: History (Melbourne: Methuen Australia, 1982) p.237
移住制限法が導入される前の1901年は、オーストラリアにおけるアジア人居住者数のピークであった8)が、当時、オーストラリアに居住していた主要なアジア系であった、中国人・日本人・インド人の居住者数はどれも1901年を境にして減少をしつづけることになった。とりわけ、排斥の中心的ターゲットとなっていた中国人の減少は著しく、1901年から1911年で約25.5%、1911年から1921年で約24.6%減少し、毎10年ごとにオーストラリアにおけるアジア系グループの規模は縮小していった。
(4)第2次世界大戦期とその後
第2次世界大戦期とそれ以降、オーストラリアは常に、人口の少なさが国家存亡の諸問題の根底にあると考え、それを移民の大量受け入れによって解消しようとした。
1930年代以降、出生率の低下が続いていたため、オーストラリア生まれの労働力は慢性的に不足していた。その上、それまで密接な関係を続けていたイギリスは、第2次世界大戦のため、国力が弱くなり、経済的にもオーストラリアを総轄していくことが困難になった。そのイギリスは、次第にオーストラリアから距離を置くようになり、イギリスからの移民は減少する一方であった9)。
第2次世界大戦後には、社会も経済も疲弊していたオーストラリアは、世界の中では小国であるという事実の前に絶望していた。人口の少ないオーストラリアは、侵略の危機にさらされるか攻撃を受ける危険性が高いと考えられていたからである10)。1943年、当時の首相、ジョン・カーテン(John Curtin)は、オーストラリアの安全性を確保するために必要不可欠な人口は3千人であるとの認識を示していた。このため、政府は、安全保障と経済開発のための労働力として2%の人口増加を計画し、そのうち1%は移民でまかなうことが急務であるとした。1940年代当時の人口が730万人足らずのオーストラリアが戦争による損失を補い11)、そして将来にわたるこの国の防衛計画を達成するためには人口の大幅な増加しかなかったのである。
1947年、移民大臣アーサー・キャルウェル(Arthur Calwell)は、移民の大量受け入れ計画を打ち上げた。その計画は当初、イギリス人中心の受け入れが進められていたが、それだけでは目標としていた移民受け入れ数には足りなかった。そのため、1940年代後半以降からはイギリス以外のヨーロッパ諸国からの人々も受け入れることに積極的になった。1945年から1988年の間で、イギリス以外のヨーロッパから200万人の人々がオーストラリアに移住した12)。それまでにも、イギリス系以外のヨーロッパ系からの移民は、安い労働力として、特にゴールドラッシュ期には既に多く存在していた。しかし、第2次世界大戦後のこの非イギリス系移民の積極的受け入れは、オーストラリアに、あくまでもイギリス系の人口構成を保持するというこだわりを捨てさせた。そして、オーストラリアの存亡という死活問題に移民が大きく関わり始めたため、それ以前までのオーストラリアの移民受け入れ姿勢とは性質を異にするものである。
このような移民の大量受け入れに乗り出したことで、オーストラリア社会と経済はそのパワーを取り戻すようになった。移民がオーストラリア経済に最も大きな衝撃を与えたのは、戦後しばらくしてからの1947年から61年にかけてであり、その期間における労働力人口の増加のうち、73%が移民である13)。オーストラリアがもくろんだ通り、継続的な人口増加は、イギリス系のみならず、非イギリス系移民の大幅な受け入れによって達成された。この意味で、戦争直後の移民は最もオーストラリアで歓迎されたのだ。
(5)アジア系移民の増大
「移民統計(Migration Australia)」によれば、1997〜1998年のアジアからの永住移住者は25,300人で、全移住者の33%を占めている14)。アジア系は、高い出生率で人口の伸びが著しいので、このままいくと、40年後にはイギリス系の割合がアジア系に追い越される可能性もあると予想される15)。
〔図1〕からも分かるように、1980年以降はアジアからの移住者の増加が統計の特徴となっており、オーストラリアにおいてのアジア系移民の流入は著しい。これには1970年代初めに白豪主義が撤廃されたこと、ベトナムをはじめとする政治・経済難民を受け入れたことなどが大きなきっかけとなっている。特に、インドシナ地域のベトナム・ラオス・カンボジアの3カ国出身者が多い。オーストラリアにおけるアジア系移民を見る時、これら3カ国のインドシナ系移民が大半を占めるのである。
図1 海外出生者の出生国別推移 16)

また、アジアの多くの国、とりわけオーストラリア近隣のアジア諸国では、オーストラリアに留学することが一種のステイタスとなっている。教育長期滞在者は全体の57%(59,700人)がアジア出身者で占められ、うち77%は教育目的で豪州を訪れている17)。 今や、オーストラリアはアジア系の多くの国々の人々にとって、新しい居住地としてのみならず、教育面でも標的とされているのだ。
(6)現在
(6)−1 進む民族多様化
オーストラリアの人口は現在、およそ1800万人である。前述したように、連邦国家として独立してから、オーストラリアは常に人口増加を移民、難民の受け入れによってまかなってきた。
1788年以来、イギリス系の人々がオーストラリア人口の大半を占めていることに現在も変わりはない。そうはいっても、非イギリス系のヨーロッパ諸国(北欧・西欧・南欧・東欧)の出身者とアジア地域出身者の合計は、一貫して増え続けており、民族の多様化傾向は2025年まで引き続くと予想されている18)(参照:巻末資料A)。
「オーストラリアは一体、どこの文化圏に属するのか」という問いはしばしばなされるものである。その問いは、多様化が進んだ社会には適していないように思える一方で、オーストラリア最初の入植者がイギリス人であったこと、生活様式や町並み、建造物、そして、現在もイギリス系の移民とその子どもが占める割合が最も高いという先の事実からも、やはり根底にはイギリス系の伝統が流れている。
しかしながら、オーストラリアを支える人口の構成は実に種類豊かである。〔表2〕は、オーストラリア人口を出生地別に見たものであるが、1998年のオーストラリア生まれの人口は14,356,600人であり、全体の約76.6%を占める。残りの4,394,400人は、オーストラリア以外の約200以上の海外の生まれであり19)、その割合は23.4%に達し、年々、増加傾向にある。
表2 オーストラリア人口の出生地別構成比(1998年推計) 20)
出生地 |
人口(千人) |
構成比(%) |
オーストラリア |
14,356.6 |
76.6 |
オーストラリア以外 |
4,394.4 |
23.4 |
(特に出身者の多い国) |
||
英国・アイルランド |
1,230.4 |
6.6 |
ニュージーランド |
339.3 |
1.8 |
イタリア |
251.4 |
1.3 |
旧ユーゴスラビア |
202.2 |
1.1 |
ベトナム |
169.6 |
0.9 |
ギリシャ |
141.6 |
0.8 |
中国(香港を除く) |
139.8 |
0.8 |
ドイツ |
121.2 |
0.7 |
フィリピン |
111.7 |
0.6 |
オランダ |
95.3 |
0.5 |
香港 |
64.9 |
0.4 |
総人口 |
18,751.0 |
100 |
(資料)オーストラリア統計局
また、1999年における移民の出生国の種類は、オーストラリア連邦政府が成立し、移住制限法が制定された1901年当時と比べると増加している。次のページの〔表3〕が示すように、1901年当時では、統計に載せる程取り上げられずに黙殺された、もしくは存在しなかったであろう国々が多く見られるのに対して、1999年では、旧ユーゴスラビア(208,400人)、ベトナム(175,200人)、中国(156,800人)、フィリピン(116,900人)、オランダ(92,700人)、香港(62,000人)と、1901年当時にはデータのなかった国々からの移民が、それぞれ飛躍的に伸びている。近年のオーストラリアでは、民族の種類は多様化が進む一方であるのだ。
表3 オーストラリアにおける外国生まれの移民数の比較(単位:千人)21)
出生国 |
1901年(a) |
1999年(b) |
イギリスとアイルランド |
679 |
1,227.2 |
ニュージーランド |
26 |
361.6 |
イタリア |
6 |
244.6 |
旧ユーゴスラビア |
- |
208.4 |
ベトナム |
- |
175.2 |
中国 |
- |
156.8 |
ギリシャ |
1 |
140.2 |
ドイツ |
38 |
123.5 |
フィリピン |
- |
116.9 |
オランダ |
- |
92.7 |
香港(特別行政区)(c) |
- |
62.0 |
海外生まれ総数 |
858 |
4,482.0 |
オーストラリア生まれ総数 |
2,908 |
14,484.8 |
総人口 |
3,774 |
18,966.8 |
(a) 国勢調査、(b) 推定人口、(c) マカオを含む
(6)−2 移民の子ども世代
今や、オーストラリアの10人に4人は移民または移民の子どもで、その半数は英語を母国語としない国からの移民の子どもである22)。時の経過と共にオーストラリアの主要な位置を占めつつある移民の子ども、つまり、移民第2・第3世代と呼ばれる人々にも、オーストラリアの移民史を論じる上では注目する必要がある。
先の出生地別統計〔表2〕と〔表3〕では、第2・第3世代の人々は、オーストラリア生まれであるため、オーストラリア生まれの統計にそのまま含まれている。確かに、移民第2・3世代は移民第1世代より英語を話すことに不自由なく、学校生活を通して、民族的にバックグラウンドの異なる子との交流の機会は豊富であり、それゆえにオーストラリア社会に適応している可能性は極めて高い。また、第2次世界大戦後は、すべての移民に英語教育が義務づけられることになったことから、2世や3世で英語のわからない国民は少なくなってきている23)。しかし、今日オーストラリアで使われている言語の数は尚も250以上と推定されており24)、新しい世代も自分の親の言語を継承している25)。下の〔表4〕にあるように、1996年度の国勢調査による、オーストラリアの家庭で使われる上位数カ国語の使用人口とその割合では、オーストラリアの家庭において、英語以外を話す5歳以上の人が全体の15.4%を占め、その数は2,464,200人にものぼる。外国生まれの親世代の移民に、この英語と両親(もしくは片親)の出身国の言語を話すオーストラリア生まれの移民の子孫を加えると、人口の約40%になる26)。
オーストラリア人といっても、そこには親が属する民族性の影響がしっかりと残されており、今日の‘オーストラリア人’を一くくりに定義することはできず、また、する必要もない。事実、第2世代、第3世代の者となると、オーストラリア生まれでありながら、たとえばギリシャ系オーストラリア人、イタリア系オーストラリア人、ベトナム系オーストラリア人といったように、親のバックグラウンドを個人としてのアイデンティティの中で保持している。オーストラリア人であると認めながらも、その根本にある民族性の差異も許容する寛容なオーストラリア社会の一端がそこにあるのだ。
表4 家庭での使用言語 27)
使用言語 |
使用人口(千人) |
(%) |
英語 |
13,498.10 |
84.6 |
非英語 |
2464.2 |
15.4 |
(内訳) |
||
イタリア語 |
363.2 |
2.3 |
中国語 |
321.9 |
2.0 |
ギリシャ語 |
257.0 |
1.6 |
アラビア語 |
159.7 |
1.0 |
ベトナム語 |
133.2 |
0.8 |
ドイツ語 |
95.4 |
0.6 |
スペイン語 |
86.2 |
0.5 |
マケドニア語 |
67.6 |
0.4 |
タガログ語 |
66.8 |
0.4 |
クロアチア語 |
66.1 |
0.4 |
ポーランド語 |
60.5 |
0.4 |
マルタ語 |
44.1 |
0.3 |
アボリジニ諸語 |
43.8 |
0.3 |
その他 |
698.7 |
4.3 |
合計 |
15962.3 |
100.0 |
注)5歳未満は除く。アラビア語にはレバノン語を含む。
タガログ語はフィリピンの公用語。
(出所:オーストラリア国勢調査 1996年)
注
1) 人口問題審議会・厚生省人口問題研究所編「国際人口移動の実態 ■日本の場合・世界の場合■」
東洋経済新報社 1993年 p.161.
2) マイロン・ウェイナー 内藤嘉昭訳「移民と難民の国際政治学」1999年 明石書店 p.130.
3) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.4.
4) Ibid., p.4.
5) 歴史教育者協議会編「知っておきたい オーストラリア・ニュージーランド」 青木書店 1999年 p.72.
6) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.32.
7) Ibid., p.48.
8) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.48-49.
9) マイロン・ウェイナー著 内藤嘉昭訳「移民と難民の国際政治学」1999年 明石書店 p.130.
10)ジェフリー・シェリントン著 加茂恵津子訳「オーストラリアの移民」勁草書房1985年 p.173
11) Ibid., p.172.
12) I.M.Cumpston (1995), “History of Australian Foreign Policy 1901-1991 vol.1”,
University of London p.88.
13) 加賀爪優「戦後経済の構造と市場動向」有斐閣選書1988年 pp.215-216.
14) 国際化協会海外事務所
http://www.clair.nippon-net.ne.jp/HTML_J/FORUM/SP_JIMU/134_1/INDEX.HTMhttp://www.clair.nippon-net.ne.jp/HTML_J/FORUM/SP_JIMU/134_1/INDEX.HTM#2
15) 大津彬裕「オーストラリア 変わりゆく素顔」大修館書店 1995年 p.191
16) 国際化協会海外事務所
http://www.clair.nippon-net.ne.jp/HTML_J/FORUM/SP_JIMU/134_1/INDEX.HTM#2
17) Ibid.
18) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.33-34.
19) 国際化協会海外事務所
http://www.clair.nippon-net.ne.jp/HTML_J/FORUM/SP_JIMU/134_1/INDEX.HTM#2
20) 田部美博「海外出身者と多文化社会への政策対応」
http://www.jlgc.org.au/J-Kaigaishushinsha.htm
21) オーストラリア政府統計局2001年年鑑
22) 塚本昌司「非英語圏出身者に配慮した行政サービス」
http://www.clair.nippon-net.ne.jp//HTML_J/FORUM/GYOSEI/086/INDEX.HTM
23) 歴史教育者協議会編「知っておきたい オーストラリア・ニュージーランド」青木書店 1999年
p.41-42.
25)歴史教育者協議会編「知っておきたい オーストラリア・ニュージーランド」青木書店 1999年
p.41.
26) 総理府内閣官房多文化問題局「多文化国家オーストラリアのための全国計画」木鐸社1979年
pp.228.
27) 歴史教育者協議会編「知っておきたい オーストラリア・ニュージーランド」青木書店 1999年 p.26.