第2章 多文化主義への歩み
(1)白豪主義政策
前章ではオーストラリア連邦政府が、1901年に移住制限法制定したことについて少し触れた。これは、現在で言うところの移民政策である。移民政策とは、対外的にその国の移民、ひいては、他民族に対する態度を示すものである。オーストラリアは1901年のこの移住制限法の制定と施行をもって、「白豪主義」国とみなされた1)。そして、この法律自体が、別名を「白豪主義」法(’White Australia’ Policy)とされ、この「白豪主義」体制はおよそ72年もの間、維持された。
では、オーストラリアが白豪主義を採用した背景とは何であったのだろうか。そして、その具体的な内容について検証してみたい。
第1章で述べたように、ゴールドラッシュ期は、アジア系の移住者が金と労働の場を求めて、急激にオーストラリアに流入していった。これはそれまでのイギリス系を中心とする白人社会であったオーストラリアにとって大きな出来事であった。その上、金を求めて新たにやって来た中国人は、当時の平均よりかなり安い賃金で働いていたため、白人たちは、自分たちの労働の場が奪われると危機感を持つ結果になってしまった。また、アメリカ合衆国のゴールドラッシュ期と同じように、オーストラリアにおいても、中国人に対する無知から生ずるいわれのない憎悪が広まっていた。可視的にイギリス系やヨーロッパ系とは異なる外見、他とは積極的にコミュニケーションをとろうとしない閉鎖性などへの反発2)として、中国人排斥運動が各地に広まっていったのだ。
そこで、オーストラリアの各植民地は、それぞれ独自の判断で、19世紀後半に中国人排斥法や有色人種排斥法を制定しはじめた(参照:巻末資料B)。そして、オーストラリア連邦政府によって、各植民地法を一本化され、まとめあげられた結果として生まれたのが、1901年の移住制限法であった3)。つまり、この法律は1901年に突然生まれたものではなく、中国人やほかの有色人種との長いあいだの対立の延長線上にあるものと位置付けができる。そして、白豪主義的思想は、もとはといえば、ゴールドラッシュ期の中国人移民労働者を排斥することに端を発する。
そうはいっても、この移住制限法には、中国人など非白人の移住を禁止するとは書かれていない。ただ好ましくない人物の移住を認めない、とあるだけだ4)。表面上は、特殊な病気、過激な政治的信念、経済的活動能力の不足といった基準を示していた5)が、実は、移民資格の審査のひとつとしてヨーロッパ諸国以外からの移住希望者に対しても「ヨーロッパ言語」50単語の書き取りテストが行なわれ、それに合格しなかったものはいかなる者でも移住ができないことになっていた。また、このテストは1901年当時オーストラリアへ移民してきて5年以内のものにも適用され、テストに落ちた場合には出身国へ送還されることになっていた6)。当然の結果として、オーストラリア連邦政府によるこの包括的な移民制限法の影響により、それ以降、中国系移民をはじめとするオーストラリアでのアジア系人口は軒並み減少し続けた。
このような歴史の流れを見てみると、オーストラリアには「白豪主義」という明瞭なイデオロギーはなかった7)。ただ、移民政策がオーストラリアにヨーロッパ以外からの移民が来ないような巧みなからくりになっていたのである。
(2)移民政策の大転換
(2)−1 ウイットラム政権期
およそ72年間続いた白豪主義に基づく移民政策は、1972年12月5日に誕生したゴフ・ウイットラム(Gough Whitlam) による政権(註1)の下、廃止された。それ以前では、たとえば1958年に、人種に関する条項の撤廃、英語テストの廃止、1966年には、非ヨーロッパ系移民の一時滞在を認めるなど、戦後、移民審査を規定する移民法の改正が漸進的に行われてきたが、どれも、悪しき伝統・白豪主義と完全に決別する態度を打ち出せないままでいた。しかし、ウイットラム政権は、長い間オーストラリアに付きまとった「白豪主義国」という汚名を完全に払拭するためのステップを着実に踏んでいった。ウィットラムは、人種差別の概念をあらゆるオーストラリアの法律や慣習から取り除くべきであると考え、オーストラリア政府がこれまで堅持してきた人種差別的な対外政策の改正を進めた8)。また、国際的には、人種差別撤廃のための国際会議への積極的な参加、国際労働機関(ILO)が扱う権利や自由に関する2つの事項を批准、そしてスポーツ競技における人種別のチーム作りにまで疑問を呈した9)。
これらの動きを通して世界各国に白豪主義との決別のアピールを進めたウィットラム政権は、1973年、遂に、オーストラリアの移民法から人種差別条項を公式に撤廃し、更には1975年には人種差別禁止法を成立させることによって白豪主義を終焉させたのである10)。
では、ウイットラム政権になって、オーストラリアが移民に対して、人種による差別をやめ、開放的な移民政策を打ち出す急激な動きに出た理由は何であったのか。それは、ベトナム戦争終結が大きな転機であったといえる。ウイットラム政権以前のそれまでのオーストラリアは、国際政治でイニシアティブをとりたいという大国志向が強く、アメリカの外交政策に追随することが多かった。ベトナム戦争中には、日々高まる国民の批判の声を押し切り11)、アメリカ軍を支援するための派兵を継続させた。ところが、アメリカがベトナムから撤退することを決定し、ベトナム戦争が終結すると、アジア太平洋地域の安全保障は、アメリカに頼ることはできない現実に直面した。オーストラリアは地理的にアジア太平洋地域に属し、この地域で生きていくしかないということを受け入れるに至ったことが、周辺諸国のアジア系・有色人種を進んで受け入れてこなかったこれまでの白豪主義方針を転換させたのだ。
(2)−2 フレイザー政権期
移民の中でもアジア系移住者数の大幅増加が見られたのは、マルコム・フレイザー(Malcom Fraser)政権下であった。フレイザー政権は、ベトナム戦争開始以降、周辺国で劇的に増加した難民の問題に迫られ、難民キャンプからの難民受け入れに関する初の政策指針を1977年に発表した12)。
オーストラリア周辺国の難民は70年代前半には存在しており、ウイットラム政権下でも既に、難民受け入れは行なわれていた。ところが、ウイットラム政権期の難民は、南ベトナムの官僚や軍人、政府関係のビジネスマンが中心で、その受け入れは極めて限定的であり13)、大規模な難民受け入れを始めたのはフレイザー政権が初めてであった。このフレイザー政権になって以降、オーストラリアが難民受け入れに積極的姿勢を示し始めたのには、難民問題という国際問題への対処義務を強調する一方で、ASEAN諸国からの外交的圧力を無視するわけにはいかなかったという背景があったからである。インドシナ地域から漂着してきた多くの難民を受け入れてきたASEAN諸国は、オーストラリアが難民を大規模に受け入れないとして批判し、組織的にオーストラリアに難民を送り出し、大量のボートピープルを出現させた。この事態に対処し、アジア地域との友好関係を継続するためには、難民発生国とその周辺国に配慮した姿勢をアピールする必要があったのだ。
オーストラリアは、難民の受け入れ数を、西欧・周辺諸国と分担したが、その数はオーストラリアが最も多かった。ベトナムを中心とするインドシナ難民は、70年代後半に顕著な伸びをみせ、77−78年には1年間に12,000人を記録し、1978年以降は毎年、インドシナから逃れて来た難民のうち、平均14,000人をオーストラリアが引き受けた。そして、1980年代末までには約100,000人がオーストラリアに難民として入国した14)。(参照:巻末資料C)さらに80年代に入ると20,000人を超えるまでになった。
70年代を通じて全世界からのオーストラリアへの総定住者数、つまり移民と難民の合計は、一貫して減少傾向を示していたが、東南アジア地域を中心にアジアからの移民と難民は増加の一途をたどっており15)、オーストラリアが全世界から受け入れた移民・難民のうち、アジア系の比率が77年を境にして20%を超え、83年には35%に達した16)最大の理由は、こうしたインドシナ難民の急増現象にあったのである。
以上のように、フレイザー政権の移民政策に見られる変化は、周辺アジア諸国での難民の急増という社会現象を汲み取り、それに対応するために変換されていった。アジア系人口の大幅な増加は、初めは、オーストラリアが地理的にアジアに属するという再認識によりアジア系移民に門戸を開き、その後はインドシナ難民増加という現象によって一層、促進されたのだ。
(3)現行の移民政策
移民の原理は、人口確保にはじまって、未熟練労働者の確保、半熟練労働者、熟練労働者、ビジネス移民と、年々移民に高度な職業能力が求められており17)、その流れは、多文化主義に基づく開放的な移民政策を非難した1988年の「フィッツジェラルド報告(FitzGerald Report)」以来、オーストラリアで、決定付けられた。
この報告の中で、従来の自由な移民選択基準では長期的な社会的、経済的安定が期待できず、熟練労働者やビジネス移民を柱として、企業家精神に富み、実務知識や技能を有する優秀な移民労働者の選択が望まれていることが明確にされた18)。オーストラリアは、社会や制度の整備度等から判断して先進国の一つであることは確かであるが、その一方で、国内産業は第1次産業に偏っているため、諸外国の経済状況に影響を受けやすいという脆さがある。オーストラリアが石炭や鉄鉱石などの天然資源の輸出をし、日本のように、資源を使って、より付加価値の高いものを製品化し輸出するような目立った産業がないのだ。
そこで生み出されたのが、新しい産業基盤を形成するための移民を見極めるため、移民の能力をポイントで表示する、移民選択基準(参照:巻末資料D-1とD-2)である。これによって、移住希望者の年齢、教育水準、技能、職歴などにポイントを設定し、合計点の高い移民から優先的に受け入れられる19)20)。
こうした政策の結果、1980年代から1990年代初期にかけての熟練技術者の受け入れは10,000人から52,000人へと拡大した21)。移民の大部分は移住してくる前に、支配人や管理者、教授、商人、あるいは、専門職といった職種に就いており22)、最近増えている香港からの移民には、高い教育を受けた者も多く、技術も金も持ってくる23)。
オーストラリアは長い間、優秀な人材が他の英語圏に流出する傾向がある。これは先にも述べた、「オーストラリアには目立った産業がない」ということとリンクする。つまり、十分なキャリアや技術を持ち、かつ英語を話せる者は、より将来性の高い市場へと向かう。オーストラリア統計局の調べによると、1997年から1998年で128,000人のオーストラリア生まれの人が永住のため海外へ渡航し、その大半は専門職やホワイトカラーの若者が占める24)。世界経済をリードするアメリカや高い経済成長率を続けるシンガポールなどの新興の経済発展国などが渡航先の代表例である。この流れに歯止めをかけるには優秀な人材を移民としてオーストラリアに積極的に受け入れることで、国内の産業・経済を補強し、将来有望な市場と産業分野の確立をオーストラリア国内で図ることが必要である。また、移民が技術や資格をどれだけ持っているかを入国審査のポイントにするということは、企業内では職員の評価に実力主義が持ち込まれ、移民が差別されない公平な競争原理に基づくオーストラリア社会になるという望ましいものである。
(4)多文化主義(Multiculturalism)
「多文化主義Multiculturalism」という言葉がオーストラリアの公式の政策として登場したのは、移民大臣アル・グラズビー(Al Grassby)が1973年に発表した多文化政策が最初であった25)。「多文化主義」とは、多民族的状況による複雑化した社会で、新たに起こる課題に対応しながらも、民族の多様性をそのまま認めながら調和ある一つの社会を作っていくことを目指す概念である。前項までで論じた移民政策は、いわば、この概念に沿って変革されていったものであり、オーストラリアの移民政策が人種による排斥をやめ、開放的なものへと転換し、多民族社会を促進させていったという点で、移民政策は、オーストラリアが多文化主義を標榜する国家であるという姿勢を内外に明確に示すものの一つであった。
多文化主義に基づく政策は、関根政美氏によると、(1)異文化・異言語の維持と発展、(2)移民・難民・マイノリティの社会参加の促進、(3)受け入れ国への啓蒙宣伝、というように大きく3つに分類することができ、このうち、いくつかの政策を意識的に実施している国が多文化主義国家に相当する26)。(註2)
オーストラリアの行なっている様々な取り組みも、こうした分類に沿っている。たとえば、病院、裁判所、警察、行政サービスなどの通訳サービス27)、総合的な国際ニュース番組映画を多言語で放映する多文化テレビチャンネルとしてのSBS(特別放送サービス)への政府の出資、第2言語としての英語プログラム(ESL)(註3)やすべての生徒に、オーストラリア社会を構成している人びとの出身国についての理解をもたせるとした国家間・異文化間学習プログラム等の教育関連での措置28)が挙げられるが、こうして見てみると、多文化主義政策の実現、そして多民族国家の堅持には、教育面が非常に大きい役割を担う。
1975年、フレーザー首相政権下に設置されたガルバリー諮問委員会(Galbally Committee of Enquiry)が、オーストラリア政府以外の機関でなされている移民への諸サービスの貢献度を調査・報告するための「ガルバリ―報告書」を作成し29)、1.移民の文化がもっている知性や芸術などの特質が、オーストラリア文化をより豊かにすること、2.同化政策によって、アイデンティティが抑圧されているという移民たちの不満を取り除き、平穏な社会をつくること、3.移民以外のオーストラリア人にとっては第2言語が学びやすくなるし、移民の子どもたちにとっては両親の言語が学べるようになり、移民の両親と子どものあいだの意志の疎通がはかれるようになることなどを挙げ、多文化主義という概念と政策が国と社会全体にもたらす利益を認めた30)が、これらも、教育現場での取り組みなしでは実現できない。1.の、「移民の文化がもっている知性や芸術などの特質が、オーストラリア文化をより豊かにする」といった認識や、3.の多様な言語が容認され、それらに触れる機会の増加は、主に、教育現場で与えられるものであるからだ。
オーストラリアの教育面での多文化主義政策で特筆すべきは、移民が被るであろう言語的不利益・社会的不利益是正を達成することを目的とするばかりでなく、すべての人―つまり、非英語系の人も英語系の人も―が公教育の現場で、例えば、‘多文化主義とは何か’、‘多民族で共存するにはどうすべきか’等を学ぶ機会が与えられるのである。多文化主義は教育を通してすべての人によって理解され、すべての人が民族や文化の多様性に寛容になる社会で多文化主義による恩恵を受けることができるのだ。
注
1) ジェフリー・シェリントン著 加茂恵津子訳「オーストラリアの移民」勁草書房 1985年 p.123.
東洋経済新報社 1993年 p.162.
3) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.40.
4) 歴史教育者協議会編「知っておきたい オーストラリア・ニュージーランド」青木書店 1999年
p.77-78.
5) 関根政美 「多文化主義国家オーストラリアの誕生とその現在」人文書院 1997年 pp.281.
London p.64.
10)Ibid., p.64.
11) 見世千賀子「オーストラリア―多文化社会に向けた公教育の再構築」玉川大学出版部 2000年pp.177.
12) Stewart Firth(1999), “Australia In International Politics”, Allen&Unwin p.16.
13) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.235-236.
14) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.226-228.
15) I. M.Cumpston (1995), “History of Australian Foreign Policy 1901-1991 vol.1”, University of
London p.70-71.
16) 関根政美 「多文化主義国家オーストラリアの誕生とその現在」人文書院 1997年 p.176-178.
17) Ibid., 179.
18) 中西直和 「オーストラリア移民文化論 ―「異文化」と「普遍主義」の節合―」松籟社 1999年 p.87.
19) Ibid., p.112.
20) Ibid., p.64.
21) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.224.
22) マイロン・ウェイナー著 内藤嘉昭訳「移民と難民の国際政治学」1999年 明石書店 p.133.
23) Ibid., p.135.
24) 大津彬裕「オーストラリア 変わりゆく素顔」大修館書店 1995年 p.195.
25) 「オーストラリアからの便り」 http://www.adpac.co.jp/australia/News/news18.htm
26) 竹田いさみ「物語 オーストラリアの歴史―多文化ミドルパワーの実験」中公新書 2000年 p.219.
27) 関根政美「多文化主義国家オーストラリアの誕生とその現在」人文書院 1997年 p.148-1
28) 竹田いさみ他編「オーストラリア入門」竹田いさみ他編 東京大学出版会 1998年p.76.
pp.183-184.
30) 浅岡高子「オーストラリアの多文化・多言語主義政策」日本評論社 2000年 pp.170.
Ibid., pp.170-171.
(註1)多文化主義標榜以降の歴代首相
第27代首相 ゴフ・ウィットラム 在任期間:1972年−1975年
第28代首相 マルコム・フレーザー 在任期間:1975年−1983年
第29代首相 ロバート・ホーク 在任期間:1983年−1991年
第30代首相 ポール・キーティング 在任期間:1991年−1996年
第31代首相 ジョン・ハワード 在任期関:1996年−(現在2期目)
(註2)多文化主義国家の定義
関根政美氏は、一般的に見て、以下に示したような政策のうち、いくつかを意識的に実施している国が多文化主義国家と分類できると述べている。
(1)非英語系移民・難民の伝統文化・言語の維持と発展を求める(言語・文化維持促進プログラム)
●コミュニティ言語によるエスニック・メディア(TV・ラジオ放送など)への政府による公的援助
●エスニック・ビジネスへの政府による援助・奨励
●非差別的移住法の実施と同移住法への超党派的な支持
(2)非英語系移民・難民の社会・政治参加の促進(社会参加促進プログラム)
●通訳・翻訳サービスの充実(電話通訳サービスや、裁判、病院、警察他公共施設での通訳サービスの拡充など)
●公共機関における多言語出版物の配布
●国外取得教育・職業資格の積極的な認定
●成人英語教育プログラム
●優遇保障措置―新着移民・難民を対象とした特別福祉援助プログラム
―教育・就職における積極的差別是正措置(アファーマティブ・アクション)
●永住者・長期滞在者への選挙権付与(地方選挙への参加を中心に)
●人種差別禁止法および人種差別行為罰則法等の制定
●人権・平等委員会の設置
(3)ホスト社会の人々への啓蒙(異文化間コミュニケーション促進プログラム)
●学校、企業、公共機関での多文化教育の実施(異文化間コミュニケーション教育や人権・反差別教育を含む)
●多文化問題研究・広報機関の設置
●多文化主義法の制定(多文化社会であることを公的に認知する)
(引用:関根政美「オーストラリア」『多文化主義・多言語主義の現在 カナダ・オーストラリアそして日本』人文書院 1997年 p.148―150)
(註3)第二言語としての英語 (ESL―English as a Second Language)とは
非英語系の生徒も平等に教育の恩恵が受けられるように、そして彼らがより広範に地域社会活動に参加できるようにするため、しっかりと英語を学校で学ばせることを定めた政府による移民子弟教育プログラムの一環。このプログラムは、オーストラリア政府の、英語がオーストラリア市民の共通の言語であるべきだという方針を補強するためものでもある。