4時「真紀子」




真紀子はパート社員だ。しかし、彼女はだからといってやりかけの仕事を放ってまで時間通りに帰るつもりは無い。といって、その後の予定に遅れるわけにもいかない。
保育園の先生はお迎えの時間にとてもうるさいのだ。少しでも遅れるとお小言を頂戴する羽目になるので、できるだけ遅刻は避けたいのだが。
こんな時、いつも真紀子は心の中で葛藤する。
仕事と子育て、両方頑張りたい。手抜きはしたくないけど、どちらが優先事項だろう。
男の人は、こんな悩み感じる事もないのだろうか。

「榊さん、もう時間でしょ?いいですよ、あとやります」
向いの席の香苗が真紀子に声をかけた。このへんが潮時と、真紀子もあきらめる。
香苗の一言でホッとしたというのが正直なところかもしれない。
「ごめんなさい、じゃあ、沖さんお願いしますね」
手早く荷物をまとめ、会社を後にする。急がなくてはならないのに道は混んでいた。
イヤミを言われるのを覚悟して保育園の門を開けると、先生は不思議そうな顔をした。
「榊さん、どうかされたんですか?」
「どうかって、真人のお迎えに……」
「もう帰られましたよ、お父さんと。お約束されてなかったんですか?」
真紀子は頭に血が上ってくるのをその一方で冷静に感じていた。
「あ、そうでしたそうでした。ごめんなさい、勘違いしちゃって。じゃあ、失礼します」
そそくさと保育園を出るなり、真紀子は震える手で携帯電話を取り出した。
rrrr……呼び出し音だけが続いている。もう待てない、と思った時に、つながった。
「……もしもし」
相手は榊 信也、真紀子の夫だ。と言っても離婚調停中で、ここ1年ほどは電話のやとりさえなかった。
「真人を返して。どこにいるの?どういうつもり?」
「……ああ、真紀?久しぶり。……どこって、家だよ。僕らの」
相変わらずの信也ののんびりした口調にイラつきを覚え、その話の中身に驚く。
「僕らの?あなた今『僕らの』って言ったの?」
「うん、そうだよ」
「何でそうなるのよ、なんで勝手に家に上がるのよ!」
真紀子はそこが街中だということを忘れて大声をあげていた。すれちがう人々が驚い振り向いていく。しかし、信也は呑気そうな声で彼女の質問に答えた
「だって、今日は真人の誕生日だろ?」
「あ!……」
忙しさに今日が息子の誕生日だということを忘れていた。毎年、真人の誕生日には信が仕事をやりくりして真人のお迎えに行き、真紀子はごちそうを作って、祝う約束になっている。信也は今年もそれをするつもりなのだ。
「僕らのことは仕方ないけど、それで真人が誕生日に寂しい思いをするってのは何かね」
そうだ、その通りだと真紀子は思った。あぶなく可哀想な誕生日にするところだった。
「……ありがと。あなた」
「いやいや。ん?……あ、真紀、真人がケーキ忘れないで、って」

夕食後の後片付けをしながら、真紀子はひとつため息をついた。
今日の真人は本当に嬉しそうだった。信也が覚えててくれなかったらあの笑顔はなかっのだと思うと、複雑な心境になる。
毎日保育園にばたばたと送りに行って、急いで会社に向かって、帰りの時間を気にしながら仕事をして、急いでお迎えに行って、休みの日には溜まった家事をやっつけて。
季節の移ろいや日にちにすらも気を配る余裕がなくなっていた、と真紀子は今さらながら思う。
それに比べて信也は……
「真紀、真人もう寝たよ」
お父さんに本を読んでもらうんだ、とはしゃいでいた真人はあっという間に寝てしまったらしい、信也はすぐにキッチンに戻って来た。
何に対しても真剣味の感じられないところに我慢できずに離婚を切り出した真紀子だったが、今日は信也のもつゆったりとした空気が心地よかった。真人だけでなく、真紀子自身が、今晩は本当に楽しく過ごせた。
「あなた、今日はほんとにありがとう。あたし、すっかり忘れてて……ごめんなさい」
「いやいや。僕も久しぶりに楽しかった。真人が大きくなっててびっくりしたけど」
「どんどん大きくなるわよ、これから。……もっと頻繁に会いたい?」
信也はにっこりと笑って、大きく頷いた。
「真紀にも、毎日会いたい」
「……どんどん老けていくわよ、これから」
真紀子は自分がなぜ泣いているのかわからないまま、信也のあたたかい腕の中にいた。
明日の朝、帰ったはずの父親がまだ家にいて、のんびり朝ご飯を食べているのを見たら、真人はどう思うだろうか。また別れ話になるかもしれないのに、そんな残酷な事をしてもいいのだろうか。ぐるぐると考えながらも、真紀子は久しぶりの心地よさに沈んでいった。






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