5時:「奈緒」
「そろそろね」
奈緒はテラスのカーテンを少し開けて外をのぞいてみた。
「あれ?まだだわ」
日もだいぶん長くなり、5時といってもまだあたりは明るい。しかし4月とは言え、花冷えという言葉があるくらいで、この季節は油断をするとすぐ風邪をひいてしまう。
窓ガラスから伝わるかすかな冷気に、彼女は首をすくめ、カーテンを閉めた。
そして壁にかけてある丸い時計に目をやる。
「もう時間なのに」
いつもならば、窓の外には彼女の飼い猫すずがいるはずだった。
すずは朝7時にエサをやると7時半には外へ出せと催促を始める。奈緒が朝食を終えて手が空く8時にすずを家の外へ出してやると、それっきり夕方まで戻ってこないのだ。
いったい外で何をしているのか、奈緒はいつも不思議に思っていた。
だが、すずは時間に正確だ。夕方の5時になると、テラスの窓の外に座って奈緒を呼ぶ。
「ナーオ」
と鳴くその声がまるで自分の名前を言っているようで、彼女はいつも笑ってしまう。
彼女が窓を開けると、すずは得意そうな足取りで部屋の中に入り、大きく前後にのびをして、ゆっくりとエサのある場所へ歩いていく。
奈緒はそのすずの後をついていってエサと水を用意してやるこの時間を、とても楽しみにしていた。エサをガリガリと勢いよく食べていく愛猫の姿を見て、やっと夕食の準備を始められる。
結婚して会社をやめ、子供のいない奈緒にとって1日のルーティンワークをこなすには、何かの区切りをつけてくれる時間が必要だった。帰ってきたすずを見ると元気が出て、仕事にとりかかれるのだ。
ところが、今日はなぜかすずが時間通りに帰ってこない。
奈緒は夕食のポトフのために野菜の皮をむかなくてはと思いながら、リビングのソファに座ったまま、動けなくなっていた。
「すず、どうしちゃったんだろう。もう5時半なのに」
頭の中に<交通事故><子供達のいたずら>などの悪いイメージがよぎる。先月、ワクチン接種の時に獣医の先生から言われた言葉を思い出す。
「ワクチンでは防げない病気も他の猫とのケンカですぐ伝染りますし、ケガもあります。できるだけ家の中で飼ってあげて下さい。」
奈緒にも言ってる事はよくわかる。だが、すずは外に出るのが好きだし、閉じ込めるのはちょっと可哀想な気がした。
「やっぱり先生の言うコト聞いとけばよかったかなぁ。ケガして帰ってこれないのかな」
一昨日、首輪につけておく迷子札がとれたのにつけなおさなかったのが悔やまれた。
不意に玄関のカギを開ける音がした。
奈緒はソファからとび起きた。夫の帰りが今日は早いことをすっかり忘れてしまっていた。
どれくらいの時間がたっていたのだろう、いつのまにかあたりも暗くなっていた。
「ただいまー。どうした?門の灯りもつけないで」
「ごめんなさい、あ、あのね、すずが………」
「ナーオ」
「え?すず?」
すずが夫に抱かれて奈緒の方を見ていた。
「やだ、すず、どこに行ってたのよー」
すずの代わりに夫が答えた。
「こいつね、ちょうどオレと門の前でバッタリ会ったんだよー。それがね、ほら、ここ」
すずの首の所に桜の花びらが1枚ついている。
「きっとね、花見してきたんだよ、こいつ」
「え〜っ?!」
奈緒はすずにエサをやりながら、次の休日は自分も花見に連れていってもらおうと思った。
もちろん、すずも連れて。
「だから、夜桜は今日だけよ。明日からまたいつもの時間に帰ってきてよ」
すずは照れくさそうな目をして、また
「ナーオ」
と鳴いた。