6時「裕治」
夫婦の間に流れる空気が、変わった……と感じる時、それは食事の時の視線だったり、互いの話に対する相槌だったり、寝る時の姿勢なんかの日常に転がってるごくごく小さな変化に触れた時かもしれない。もちろんよくない方への変化。僕がそれを感じたのは夏の頃だっただろうか。だが、別に僕はどうこうするつもりはなかった。香苗が何も言わない限り、僕と別れる気はないということなのだから、放っておくのが一番いい。いずれ戻ってくる。
そう信じていたし、実際最近は香苗が落ち着いてきたように思える。うまくおさまってくれたのだろう。安心した反面、僕だけ損をしたような気になった。香苗だけ傷付かないのは不公平ではないだろうか。そんな思いを抱えている時、えりから「会いたい」と連絡がきた。
えりは香苗と結婚する前につきあってた3つ年下のコで、一言で言えば、華やかな女だった。といって、全身ブランドで固めているというわけでも化粧が濃いということでもないのだが、彼女がそこに現れると、雰囲気がガラリとかわる。まるでスポットライトが当たっているかのように、その場の人間はみんなえりに惹き付けられた。だからえりとつきあい始めた当時は仲間から随分とひどく言われた。しかし、つきあってみるとごく普通の女の子で、当たり前のように2人の仲は進展し、普通に別れた。おそらくは僕よりイイ奴が現れたんだろう。そのヘンのことはよく覚えていない。なんせかなり前の話だ。なんで今さら僕に会いたいんだろう。香苗と結婚している事は知っているはずだが……。でも、まあいい。香苗だって、僕以外の誰かと会っていたんだし、僕が昔の「友人」と会うのを止める権利はない。えりがどうしてもというならひと晩くらい……。
待ち合わせは6時。昔よく行った店の中にした。えりは寒いのは嫌いなのだ。時間に遅れるといつも手先を氷のように冷たくして怒っていた。怒るとその後が厄介だったから、冬の待ち合わせは屋内の暖かい所を極力選ぶようにしたのだった。自分でもそんなことを覚えているのが不思議なくらいだが、昔の店に行くのに迷う事もなかった。
店に入ると、もうえりは来ていた。前と変わらずスポットライトが当たっているからすぐわかった。彼女も僕がわかったらしく、軽く右手を挙げた。
「元気だった?」
そう言うえりの顔にはどことなく疲れが見えた。だが、相変わらず美人だ。
よく笑い、人を不快にさせる顔をせず、姿勢もいいし、話もうまい。
僕にはやっぱりもったいない女だったなと思えてくる。
「……で、なんかあったの?」
食後に出てきたエスプレッソの香りを楽しみながら、僕は今回の最大の疑問を彼女にぶつけてみた。えりは一瞬息を止めてから、大きく吐き出した。
「うーん、ややこしいんだけどね」
「うん」
「今、愛されてる実感がなくって、悩んでるの」
「愛されてる実感……?」
「そう、裕治さんとつきあってた時はそんな事で悩まなかったのよ、私。だからどういう感じだったかなって、思い出したくて」
「それで……」
僕は頭を抱えたくなったが、耐えて、話の続きをうながした。
「でもね、所詮無理な話よね。だってあなた今別の人を愛してるんだもの」
「それは……」
違う、と言いかけたが、言葉にならなかった。話が僕の目論見から外れていきそうだった。
「それより別の事思い出した。あなたと別れた理由」
「ああ、他にイイ奴が現れたんだろ?」
「……そうじゃないの。あなたが私にでさえ本心を見せてくれなかったから」
かなり意外な話だった。本心って……
「それ、どういうこと?」
「私が他の人にフラついたりしたら、普通は嫉妬するとかしてくれるじゃない?怒ったり、問いつめたり、不機嫌になったり」
「……」
「裕治さん、わかってたのに全然変わらなかった。それって、私が側にいなくても平気ってことかなって、思うじゃない?」
「だから別れたのか……?」
「そう。後でかなりへこんでたって、友達から聞いて、ちょっとだけ後悔したけどね」
「そんな事で別れるか?普通……」
「私はね、自分が絶対に愛されてるっていう確信をいつも持っていたいの。多分誰だってそうだと思う。裕治さんの奥さんだってそうじゃない?」
香苗も……?僕に妬いてほしいと思ってるんだろうか。
「今日は裕治さんと会えてよかったわ。なんか答えも出そうだし」
「答え?」
いぶかる僕にえりは人さし指を立てて唇に当て、艶然と微笑み、柔らかな香りを残して帰っていった。つくづく今日はもて遊ばれてしまった感じがするが、そんなに人生甘くないということか。新年早々いい勉強になった。
あとは香苗……か。
「ただいま。あなた早かったのね、私の方が早いと思ってたのに」
コートを脱ぎながら香苗が驚いたように言った。
「ん?ああ、」
なんて言えばいいんだろう。まさか浮気に失敗したなんて言えないし。
「あなたがおしゃれして出かけるからてっきり女の人と密会なんだって思ってヤケ酒あおってきたのが馬鹿みたいじゃない。早すぎるわよ」
少し頬を赤らめた香苗の言い方が可愛く思える。ああ、妬かれるってのはこんな感じなのか。なんだか嬉しくなってこちらも言ってみる。
「おい、ヤケ酒って、誰か男と飲んでたんじゃないだろうな」
見る見るうちに香苗の顔がほころんできた。
「ね?それって、もしかして妬いてるの?あなた」
「ばか。そんな事聞くな」
なんだか夫婦の間に流れる空気が、変わったような気がした。
もちろん、いい方に。