8時:「藍」
「お、遅ーーっい!藍は何をやってるんだぁあああっ」
その夜も笠井家ではいつもと同じ光景がくり返されていた。
丁寧にラップがかけられた皿を横目に睨み付けながら箸をくわえている父、龍夫。
「あなた、もう先にいただきましょうよ」
母、夕子はすました顔でぬるくなった麦茶を飲んでいる。
「って、言っても聞くあなたじゃないわね」
「わかってたら言うな。……今何時だ?」
「8時5ふ……」
夕子が言い終わるか終わらないかという時に玄関のドアが勢いよく開いた。「たっだいまー!!」
湯気が出そうなくらい顔を真っ赤にして、笠井家の一人娘、藍が部屋に飛び込んできた。
「藍、今何時だ?」
「え?8時だよ」
「違う!8時5分だ」
龍夫がテーブルに拳を叩き付ける。わずかに皿が踊る。
「お前は我が家の約束を忘れたのか?夕飯は8時全員揃っていただく事!だいたいお前……」
今度は藍が大きな音をさせてテーブルに両手のひらをつく。
「おとーさん!」
その勢いに一瞬、龍夫はひるむ。
「はいっ」
「娘が一生懸命学校で頑張って、走って帰ってきて、ただいまって言ってるのに。まず お帰りって言うのがホントでしょ?それをおとーさんは何?」
「……お、おかえり」
「ただいま。わ、これおいしそう。いっただきまーす」
こんなふうに藍のペースで話が終わるのもいつもと同じだった。
数日後、藍はテニス部の試合の後、打ち上げで帰りが遅くなっていた。もちろん連絡は家にしていた。だが、あの父の事だ。1分遅れてもブチブチ言うに違いないというのに、もう9時近い。
念のためにもう1回電話しておこうか、いやそれより1秒でも早く帰った方が………。
試合で力を出し切ったと思っていたが、まだこんなに走れるとは藍も自分で驚いた。
それほど急いだというのに。
門の前で龍夫が腕組みをして仁王のような顔で立っていた。
「藍!今何時だと思ってる!」
向こうの角の家から犬のけたたましい声が聞こえてきた。
「9時……です」
「我が家の約束は?忘れたのか!」
犬は鳴き止まない。藍も大声を出す。
「おとーさん!」
「うるさいっ。連絡をしたら許されると思ってるのか?待ってる身の気持ちがわからんのか?」
今回は龍夫もひるまず言い返す。
藍は何も反論できず、自分の部屋に飛び込むのが精一杯だった。
「はあああ、高校生が8時門限なんて今ドキ考えらんないよね」
その日の夜中、友達とひとしきりメールをやりとりした後、藍は喉が乾いて1階に降りた。
もう1時過ぎだというのにリビングには灯りが付いていてぼそぼそと話す声がする。
だめだな。もっと藍とうまく話せたらいいんだが」
「あら、あなたそんな事思ってらしたの?怒ってばかりでそうは見えないわよ」
「お前までいじめるなよ……」
「うふふ、ごめんなさい。でもね、藍にもお付き合いとかあるわけだし、8時は……」
「おい、付き合いって、あいつ男がいるのか?!」
「あなた!そんな事言ってないでしょ」
あきれた父の単純さに馬鹿馬鹿しくなって2階に戻ろうとした時、藍はふと気付いた。
(前にも、ずっと昔にも同じような事が、あった)
藍がまだ小学生だった頃、龍夫は残業や休日出勤の多い仕事についていて、ほとんど家にいなかった。たまに家にいる時でも夕子のもらすグチにたまらず口論が絶えない毎日だった。
その夜トイレに起きた藍が1階に降りてきた時、めずらしく穏やかな声が聞こえてきて、ドアの前で耳をすませたのだ。
「もっと、うまく話せたらいいのにな」
「そうね、いつも怒ってばかりになっちゃって。あのね、今日藍がこんな事をいったの。」
「ん?」
「うちもみんなで揃って夕ご飯食べられたらいいのに、って。あの子も寂しいのよ」
「……そうか」
それからしばらくして、龍夫は今の仕事に変わった。朝は早いが帰ってくるのもその分早い。
給料は下がったらしいが、夕子との夫婦仲はよくなったらしい。その頃から、笠井家の夕食は8時にみんな揃って、というのが決まりになったのだった。
「そーか、あたしが言い出した事だったのかぁ。やれやれ、しょうがないなあ」
頭を掻き掻き、藍は部屋に戻った。
明日は8時に間に合うように帰って来ようと、決心して。
翌日の夜。
「お、遅ーいっ!おとーさん何やってんのぉ?」
時計を睨み付け、腕組みをする藍。
「おとーさんといい藍といい、どうしてそんなに似てるのかしら」
夕子は、おかしそうに麦茶を飲む。
「おかあさん!親子だからに決まってるでしょ。今、何時だと思ってンのよ」
「今?まだ8時前じゃない。その内帰ってくるわよ。先に食べる?」
「……ダメ!待ってるのっ」
8時ジャスト、龍夫が帰ってきた。
「藍、なんでお前がもういるんだ」
「おとーさん!帰ってきたらまず、何?」
「た、ただいま」
「お帰りなさーい。さ、食べよ。もうお腹すいちゃったよお」
きょとんとした顔で立ったままの龍夫に藍が片目を閉じて笑った。
「おとーさん、1日1日大事にしないと一人娘はすぐ嫁にいっちゃうよ」
「!」
結局、笠井家の夜はいつもこうして藍のペースで更けていく。