32 2017年度歴史講演会

2018年2月3日(土) @アビスタホール
「古文書はいかに歴史を語るか−文献史料が語る多面的な世界−」
講師 白水 智 中央学院大学教授

白水先生講演・古文書の読み解き
2017年度白水智教授講演会ポスター

31 2016年度歴史講演会

2017年1月21日(土) @我孫子市民プラザホール
「我孫子中世史へのアプローチ」
講師 岡田 清一東北福祉大学大学院教授・我孫子市史中世篇執筆

 


30 湖北郷土資料室特別展示

2016年12月13日〜22日 @湖北郷土資料室
特別展示・「一世紀前に書かれた『湖北村誌』とその草稿」

<『湖北村誌』について、村誌の構成と100年前の湖北村概観>の解説文

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特別展示全景(湖北郷土資料室)

菅井敬之助の『湖北村誌』草稿

「湖北村誌」に見る昔と今・パネル



29 2015年度歴史講演会

日時:2016年1月30日 午後2時半〜5時 @けやきプラザ・ふれあいホール
「地名のなりたち−地図でたどる大字・小字」
講師 今尾 恵介氏((一財)日本地図センター評議員)


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28 2014年度歴史講演会

日時:2015年2月1日 午後2時ー4時半 @アビスタホール
「我孫子の城館跡あれこれ」
講師 佐脇 敬一郎氏(柏市史編さん委員会参与)

我孫子の城館跡あれこれ
青木副市長のご挨拶

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講師:佐脇敬一郎氏
プロジェクターでの講演



27 2013年度歴史講演会

日時:2014年2月1日 午後2時ー4時半 @けやきプラザ・ふれあいホール
「平将門と我孫子の古代」
講師 川尻秋生 早稲田大学文学学術院教授

ふれあいホール・平将門と我孫子の古代

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川尻秋生先生



我孫子市民フェスタ2013に展示参加
講演会に先立ち、プレイベントとして「我孫子の将門伝説」の展示を行った。
2013年12月1,2日@アビスタ
我孫子の将門伝説展示


26 2012年度歴史講演会

日時:2013年2月17日 午後2時−4時 @アビスタホール
「水戸街道と我孫子宿」
講師 吉田俊純 筑波学院大学教授

吉田敏純先生

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水戸街道と我孫子宿



25 2011年度歴史講演会

日時:2011年10月10日 午後2時−4時 @アビスタホール
村 からみた 江戸時代
講師:渡辺 尚志
(たかし)氏(一橋大学大学院社会学研究科教授)

渡辺尚志先生 button2
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村からみた江戸時代



24 2010年度歴史講演会ポスター

日時:2010年10月10日 午後2時−4時 @アビスタホール
「地名の話 −日本語になった縄文語−」
講師:鈴木 健 氏(元龍ヶ崎第二高校校長・地名研究家)

鈴木健講師 button2
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地名の話・日本語になった縄文語



23 2009年度市民活動フェア 市史研展示リーフレット

日時:H22年3月6日(土)及び3月7日(日) 展示会場:アビスタ2F奥ガラスケース
テーマ:「手賀沼周辺の鳥猟」

当日展示場で配布したリーフレットで、展示を中心となって企画した清水千賀子会員が書いたものです。
内容は手賀沼の鳥猟の歴史で江戸時代から昭和17年の鳥猟組合の解散までを記載しています。

手賀沼周辺の鳥猟展示

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22 2009年度歴史講演会 ちらし

日時:2009年12月6日 午後2時−4時 @アビスタホール
「新井白石の裁判観−手賀沼漁猟の裁許状をめぐって−」

講師:山口 繁 氏 (元最高裁判所長官・市内若松在住

ちらしは山口繁氏が当会会報第92号に執筆された講演会予告記事 「新井白石の裁判観−新井白石は「元禄十五年手賀沼入会漁猟論裁許状・宝永元年手賀沼漁猟裁許状」をどのように評価するであろうか−」をポスターの中に組み込んだものです。


山口繁 元最高裁長官を講師にお迎えしての講演会








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右は講演会後開かれた
懇談会での山口先生



21 2008年度市民活動フェア 市史研展示

日時:H21年2月28日(土)及び3月1日(日) 展示会場:アビスタ2F奥ガラスケース
テーマ:「一世紀前に書かれた郷土誌・『湖北村誌』とその草稿」

「湖北村誌原稿」と復刻版、各種郡誌、市史研究誌などをお借りし、著者菅井敬之助氏と校閲者中野治房博士の事績や村誌復刻に努力された増田義二氏が手がけた田口静頌徳誌などの展示を行ない、多くの市民の方に、あらためて一世紀前になされた郷土先人の努力に目を向けて頂きたいと考えました。

展示は草稿や復刻版、菅井敬之助宛書簡など実物の陳列を行い、肖像やご一家の写真、湖北村絵図、中野家銅版画、田口静翁にまつわる写真などを説明文を付けてパネル化しました。
(菅井敬之助関係の写真や書簡など多数の資料をご子孫の石井敦子さんからお借りして展示しています。)

H28年12月13日〜22日湖北郷土資料室において、「湖北村誌に見る昔と今」と「敬之助・治房年表」のパネルを加え、同様の展示を行いました。
市史研会報178号参照下さい。

湖北村誌 



20 2008年度歴史講演会ポスター

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19 鶴見俊輔講演会ポスター
「柳宗悦を我孫子で語る―「白樺」から「民藝」へ―」
講師:鶴見俊輔(哲学者)
2008年3月15日けやきプラザ・ふれあいホール

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18 2007年度歴史講演会ポスター
「近代我孫子の教育と文化」
伊藤純郎教育大学教授

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17 湖北かまくら道のMap
(アクロバットリーダーが必要)

かまくら道

この道は古くから「鎌倉道」といい伝えられています。鎌倉道(鎌倉街道)とは幕府のあった鎌倉を中心として放射状に走る中世以来の古道で、この道はその下ノ道(鎌倉から常総地方へ通ずる)の枝道であったと思われます。

鎌倉道はいっぱんに山腹を通り、幅は1〜2間(1.8〜3.6メートル)、馬が二頭並んで通れる位の狭さで、とちゅう野営に便利なように井戸に近い所を選んでいるといわれます。また八幡宮・諏訪神社・氷川神社・熊野神社、禅宗、日蓮宗などの寺社の近くを通っているのも特徴です。

湖北の鎌倉道も手賀沼の北辺の台地の縁を縫うように東西に走っています。そして西から見ると、湖北台八丁目の八幡神社、中峠の天照神社、湖北台三丁目にあった熊野神社、中里の諏方神社、日秀の将門神社、新木の香取神社、大鷲神社(今は葺不合神社へ合祀)などの神社がその沿道にあります。また八幡神社下の元日(がんち)の井戸、熊野神社下の島ノ下の井戸、将門の井戸(石井戸)、香取神社下の香取の井戸などがありました。現存しているのは将門の井戸と香取の井戸だけです。

湖北の鎌倉道も団地造成などでだいぶ姿を消しましたが、いまなお中里市民の森付近〔古代の相馬郡家-ぐうけ-(湖北高校付近)の南側〕を中心に古道の面影を残している部分があります。現在湖北座会の手で清掃などの保全作業が行われています。

郷土のだいじな歴史遺産として永く後世に伝えたいものです。

   2000年4月1日  湖北座会

(中里市民の森にある「かまくら道」案内板より)

注) この道は、実質的には手賀沼べりの集落を結ぶ道として古くから使われてきたものであり、それぞれの谷津においては堤防として築かれた「常敷堤」を通っている特徴があります。
また、近年になって発掘されてきた相馬郡家正倉跡遺跡やひょっとして相馬御厨の初期の役所跡ともみられる羽黒前遺跡などの脇を通っている注目すべき点もあります。

マップを見たい方はこのボタンから
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16 H17年度市史研・史跡見学会

「明治17年自由を求めて蜂起した秩父困民党事件の跡を訪ねる」

秩父集合写真
秩父市吉田の龍勢会館前で集合写真

15 市民活動フェアinあびこ2007に展示参加

H19年3月3・4日「市民活動フェアinあびこ2007」に当会は
「古代相馬郡の中心地・湖北」の展示を行いました。

我孫子市の湖北地区には「相馬郡衙」(ぐんが、正倉)跡、古代東海道の駅家である「於賦(オフ)駅」を示す「意布(オフ)郷」の文字の書かれた墨書土器が発掘されています。
また、そこに記された「久須波良部」は正倉院文書として知られる「下総国倉麻郡意布郷 養老五年戸籍」に登場する藤原部が改称されたものとされています。
今回我孫子市教育委員会の御協力を得て、この墨書土器と正倉院文書の精巧なレプリカをアビスタ(我孫子市生涯教育センター)2Fで展示しました。
湖北地区の古代展示
当日配布した説明リーフレット「意布郷が姿を現した」はライブラリに入れてあります。ご興味があれば見てください。

14 市民活動フェアinあびこ2006に展示参加

H18年2月4日(土)、5日(日)「市民活動フェアinあびこ2006」に当会は
「鮮魚道を行く」パネル展示を行いました。

当日配布したチラシと
布佐〜松戸間の鮮魚道が
定められた基になった
「裁許書」文書解読文を
PDFファイルで見られます。
ボタンを押してファイルを
開いてください。


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会報48号に展示の報告が記載されています。

13 H17年度市史刊行記念歴史講演会ポスター

H17年12月14日@アビスタホール
「戦国の世の我孫子と相馬地域」
千葉県文書館 平野明夫先生(元我孫子市史編集委員)

このポスターの表示

このファイルを見るにははアクロバットリーダーVer.5以上が必要です。

表示後、元に戻るには左上の矢印を使ってください。
戦国の世の我孫子と相馬地域講演会場


12 H16年度市史研・史跡見学会

H17年2月20日(日) 「歴史的街並み、真壁城跡(国指定史跡)探訪散策」史跡見学会を行いました。
会報34号に高田明英氏の「史跡のなかに町がある−真壁町へのご案内」と
会報35号に中澤雅夫氏の「中身の濃かった真壁見学」も掲載しております。

真壁城跡で


11 市民活動フ
ェアinあびこ2005に展示参加


平成17年3月5日〜6日 10:00〜16:00 於アビスタ2F学習室 展示22
「市史研」の紹介、”明治初年の我孫子宿街並み研究から”を展示しました。
大変多数の方がお見えになり、楽しく又興味深げにご覧になっていました。
ありがとうございました。

明治初年我孫子宿街並み


10 H16年度講演会・懇親会スナップ
2004/8/15 柴 桂子さん『常総を旅した女たち』講演会と懇親会で

コスモスに囲まれた柴さん
講演『常総を旅した女たち』
講師紹介 講演中の柴さん
講師を紹介する品田会員 講演する柴さん
会場風景 入場者の記名
講演会場での皆さん 入場者に記名願いました
懇親会で乾杯 懇親会全員
懇親会で乾杯 懇親会最後に全員スナップ


9 H15年度市史研・史跡見学会スナップ
2004/3/7 『新撰組流山始末』見学会

流山市立博物館山下学芸員から陣屋跡で楽しく説明を聞く
 



見学者のみんな 左 双樹記念館、右 流山の富士山

8 15年度講演会スナップ
2003/8/3 水の館で開かれた大熊孝新潟大教授講演会「利根川の治水の変遷と水害」にて


講演台を飾った手賀沼トラストのハス   講演する大熊教授

講演会では開演30分前には集まりはじめ、用意したレジメ150部は全てなくなってしまった。集まった人々の内訳は

市内:約100名、東葛地域(柏、松戸、流山など):26名、県内他市:9名、取手・利根周辺:10名、東京・埼玉:5名で、当センター会員は32名であった。

講演会の準備は6月中ごろ大熊先生の最終承諾を得て、6月下旬運営委員会で具体的な準備に入り、教育委員会の後援承諾、ポスター・チラシの印刷、招待状やチラシの郵送、パソコンの借用を進め、当日演壇に飾るハスの花を手賀沼トラストから切らして頂いた。

今回の講演会は予想をはるかに超える人々が集まり、トラブルもなく終了できたことは、運営委員はじめ多くの会員の方々のご協力の賜物であり、大成功であったことを共に慶びたい。

長谷川一氏 (hasegawa.hajime@jcom.home.ne.jp)より
2003/5/25, 5/29付の長谷川さんのメールを編集させて頂きました

あの扁額は「天女宮」だった! 

扁額去る三月八日、湖北座会の古文書解読講座は、沖田の高田家の文書を読んだ後、ご当主のご案内で千間堤をはじめ、沖田村域の寺社など各所をご紹介いただき、貴重なお話しも伺いました。

そのときに高田さんがご準備された資料から、葺不合神社の部分を後記します。扁額の写真は、中沢雅夫さん(市史研会員)がカメラに収めて下さったものです。

 沖田の弁天様は丁度修復工事中でしたが、普段は見られない社殿の内陣も見せていただきました。そのとき、高田さんから社殿の正面に設置されている扁額の文字の読みについて、ご質問がありました。

第三字の「宮」は誰でも読めます。第一字の「天」は少し読みにくいが、横画の間を「人」の字形にすることが理解できれば読めます。大抵の漢和辞典にも解説があります。「天」と「宮」が判ると第二字は読めなくとも、「天満宮」かなというのが大方の第一印象でした。しかし、第二字は、見れば見るほど不思議な形をしています。

中沢さんとは、帰路湖北駅まで歩きながらいろいろとお話しをしました。

 祭神である市杵嶋媛命については、古事記や日本書紀もひっくり返してみました。

福岡県の沖の島の祭神でもあり、偶々写真集を持っていましたので、再読してみました。大分県の宇佐神宮についてはホームページを見まくりました。その段階で愚考したのは、第二字は「津」で「天津宮」(あまがつのみやとも読むのか)ではなかろうかということで、高田さんにご連絡致しました。このことはまた、高田さんご案内のツアーに参加された古文書の複数の方々にもお知らせしたように記憶しています。

 その段階で、文字の書体が篆書体(いわゆるハンコ字)である以上、専門家に質問することは叶わなくとも、少しは勉強しないといけないと思い、調べることを何人かの方にお約束しました。

さて、その結果ですが、沖田の弁天様の扁額の二番目の文字は、「女」と読みました。

全体で「天女宮」となり、天孫降臨の際に天下った三人の女性の一人である市杵嶋媛命にふさわしいと、独合点しています。

先日の高田勝禧さん宛のお手紙で、「津」ではないかとご連絡し、またその後「伝」とは読めないかとも考えていましたが、なかなかアビスタに出かける機会がなく、一度はバス通勤の途次、勢い込んでアビスタ前で下車したら、丁度休館日だったりして、お約束の篆書の観点からの検討の機会が延び延びになっていました。改築祝いを来週に控え、昨土曜日の午後、疲労からか、すっきりしない頭を沼縁散歩を兼ねて行って来ました。

図書館では次の二冊の本

小原俊樹『篆書の書き方』(木耳社)
小林斗あん『篆書千字文』(二玄社)

を借りて、200円のライブラリ・バッグに容れて家に帰ってからおもむろに読み調べました。

女篆書文字の左の縦画を、行・草書の感覚でサンズイや、ニンベンとする考えは、篆書では通じないことが、読書で明白になりました。

つまり、二字目の文字は、篆書では理解できないと考えました。

そこで、この文字の特徴部分である、真ん中を縦に下がり、横画を通り過ぎたあたりから、くねって曲がる点に注目して、もう一度両書を読み直してみました。 『篆書の書き方』p53で目が止まりました。説明文には、「左右の両手を前にあわせ、しなをつくってひざまづく女性の姿」とありました。小生が注目した点は、しなをつくってひざまづいている様子を表すものでした。

しかし、「女」と読むに当たって、問題は、最初の縦画に戻ります。

つまり「左右の両手を前にあわせ」ている点が変形してしまっていることです。ここからは、推測ですが、恐らく、風雨にさらされた扁額の文字は、当初書かれたものを、彫り直し、墨を入れ直して現在に至っているとしたら、その過程で変形したのでしょう。

篆書の「女」と言う文字は、どうでしょう、名主学を伝授されるとき、篆書までは必須科目には、入ってなかったでしょうし、普通の人には読めなかったのではないでしょうか。だとすれば、必ずしも篆書に詳しくない彫り師が間違えて彫り、墨を入れたとしても不思議はないと思ってます。

ということで、小生の現時点での結論は、「女」です。

「左右の両手を前にあわせ、しなをつくってひざまづく女性の姿」、いいですね。文字を発明した中国人は、しっかり見るところを見てますね。

以上のように、小生の現在の読みは「天女宮」です。質問をお受けした小生も、近世の名主文書について多少読めるだけで、篆書については全くの素人です。皆さんのご意見をお聞きしたくてメールを差し出した次第です。

 さて、次なる目標は、中沢さんからの助言で見えてきました。

  他の弁天様にも同じような扁額があるのかな?

 沖の島、宇佐、宮嶋まで足をのばすのは大変ですが、近場では布施の弁天様、これを含めた関東の三大弁天といわれる上野池之端と江ノ島ぐらいなら行けそうなので、確かめに行ってみる所存です。


葺不合神社:千葉県我孫子市新木1811番地 (平成15年1月より修理、5月末完工)


[本殿] ??(2字字母なし)草葺不合尊(ウガヤフキアエズノミコト) 神武天皇の父 奈良時代創建?

 建物  明治30年新宮建立 (匠)田口末吉
     明治41年字宮前の明神の森より合祀(國の命)

 彫刻 (東)八岐の大蛇退治
    (北)天の岩戸
    (西)神武東征

[拝殿] 厳島神社本殿(沖田の弁天様) 合祀後拝殿 
         元暦3年(文治2年:1186年)創建伝
     市杵嶋比売命 (弁財天−神仏習合)

  建物  明和2年(1765)弁天堂として建立 年代は本年の改修にて明らかになった

     大工 小文間 斉藤新兵衛
          配置 (左)御獄、(中)拝殿、(右)弁財天

 彫刻、絵 

     弁財天 厨子のみ修復600〜700万
     周囲の小壁 十二支 江戸時代の絵(大切)
     正面壁 天女の舞姿 明治時代か?

 6 岡本和男氏(kaz_.okamoto@nifty.com)より
 今年7月の研究講座で、現地を訪ねたルポ。

旧手賀沼ボート周遊の記

 帽子をつき抜けて脳がコンガリと焼きあがってしまう日照りの中で、見上げると空はこんなにも広いのかと改めて感じる。背丘面水の岸辺を水面に浮かぶボートの中から眺める。今離れた手賀沼公園、後で訪ねた根戸の林、若松から水神山そして五本松公園のこんもりした森は圧倒的な青空の中で黒々としたヴォリュームを見せてくれている。反対岸は建物による変化こそ少ないが、手賀の丘公園の森をはじめ、同じように空に対抗して存在している。
 13人の乗船客をゆったり乗せた長さ10m、幅2mのFPR製エンジンつきのボートは10時岸を離れ、今日は手賀沼を印西の利根川に通じる水門まで行き、帰りに沼南の下沼を経て根戸まで行って戻る歴史部会のユニークな研究講座を行う。イグサござ2畳分2枚に想いおもいに船端に寄りかかって座り、軽快に走る船が切る風が心地よく、船首で跳ねる水滴が焼けた腕や頬を冷やしてくれる。しかし、船尾が作る波の真っ白なはずの泡は薄緑に黄土色をちょっと混ぜた色あいを見せ、これは水門に至るまで変わらなかった。
 所々に木や竹の杭の上に円筒形をした網の上の部分が干されている。いろいろな魚が見るとも無く見ている水面上に飛び跳ね、その度に歓声が上がる。

飛び跳ねた 魚の大きさ くいちがい

 やがて曙橋の堰の下を、一同身をかがめて通り過ぎると手賀川となる。遠く白く立ち並ぶ湖北台団地を過ぎ、水道橋をくぐると、両岸の視野は土手にさえぎられ、はるか彼方に斜面林は遠のく。間近のマコモ、アシやカワウ、サギ、アジサシなどの観察に変わってくる。カワウは思いのほか多く、船のすぐそばで潜水の実演を見せてくれる。期待をして見つめるが、ずっと後ろの方に浮き上がり、既にえさは飲み込んだ後のようだった。しばらくマコモ、アシ、ヨシ談義が続く。浅間橋を過ぎるあたりから沼南側の土手上を走るサイクリングロードの一部と思われる工事中の様子が見える。ここからは両岸の丘の森ははるか遠く、もし水面があったとしたら下沼を含めて南北はかすんだ広い湖だったことだろう。長い干拓の歴史の末に、地図上はただ水田が広がる。空はひたすらまぶしく、高圧線がそれを仕切っているのが唯一の景色だ。
 次に布佐の終末処理場のしゃれた建造物が目を引く。プラントのそばを通る。これがなければ湖岸の公会堂の様だ。アオサギが土手にいて飛び立つ。灰色に見える。大きく首を曲げて川を越えて悠々と飛んで行く。開枠橋の上を発作の方へ向かっていった。急に川が二筋に分かれる。左の六軒堀に向かう。このあたりからは両岸も迫り橋が多くなってくる。新しく旧手賀沼沿いに走る予定道の橋、成田線、と思ううちに356号線の下をくぐる。ここで船を下りれば布佐の人は家がすぐそばなのにとの声も出る。普段上ばかりを通り過ぎていて、橋があったかなあとも思う。
 右に曲がりながら前方に利根川に通じる立派な手賀沼排水機場の水門が見えてきた。今度はこれを通り過ぎるわけにはいかない。手賀沼干拓を進め、現在の水位調整を行っている。もう一つの川、弁天堀も同じ水門で遮られている。さっき別れた右の川だ。こちらを今度は遡って、帰路となる。ここは川幅も狭く、岸には住宅も近い。岸辺の花が彩り鮮やかとなって、水郷の名が浮かぶ。と、再び356号を過ぎ、弁天さまを右に見てすぐ鉄橋が斜めに掛かっている。ちょうど見慣れた緑色の電車が轟音を上げて通ってゆく。

歓声を あげて見上げる 成田線

 岸辺が近いと変化もあって、何となくはしゃいだ気分になる。県道の新しい橋をくぐると高圧線まで、アオサギの案内で船も緩やかに進む。この周りも干拓の努力と長く水害との戦いが続いたところである。合流地点と開枠橋を過ぎ、再び広い田の続く水面を走る。水路も大きく広がり、左の下沼に向かう。また暑さが身にしみてきた。急に船頭さんが左の岸辺に船を寄せた。菱の群落を見つけたのだ。生栗と同じ味がするその実のことを懐かしそうに語ってくれる。ほとんど最近は見られないそうだ。それとは対照的に沼南の箕輪にハスの大密生しているところへ、船を出してすぐ、連れて行ってくれたことを書き落とした。今年は雹のせいか、数少なかったが大輪の花が見事であった。誰かが放置したハスが自然に繁茂したそうである。自然にはなかった魚が増えたり、手賀沼はそれなりに変化してゆくのだろう。

          この水に いきてゆけよ 菱草よ

 一服したのにやはり暑い。氷の袋を頭の上に乗せ、帽子をかぶる人、日傘を絶対手放さない人、無言で堪える人、さまざまである。手賀干拓一の橋を抜けると広い下手賀沼に出た。高圧線をぼんやり見上げていると、船のすぐ横ですごく大きな魚が飛び上がり、危うく船端に寄りかかっている人の頭に当たりそうになった。ハクレンという。この前、同じようにボートで周遊している時あれが船に飛び込んできてさア、一瞬今日の昼はこれの刺身と頭をよぎったけれど、船頭が両腕で抱えて血だらけの奴を水に戻してやったんだ、と仲間が話してくれたが、もしあれが飛び込んできたら船がひっくり返るほどパニクったろうなと思った。1m位あったろうか。
 左手に滝田家住宅と思われるような立派な茅葺の家が見える(まだ確かめていない)。暫らくアシの密生する両岸を行くが、やがてこれ以上は浅くて駄目といって船は引き返す。この先は金山落し、桜の名所の今井の堤があるがだいぶ手前のようだった。後は飲み物に手が伸び、ひたすら戻る。手賀川に出て、曙橋で再び頭を船底にこすりつけて潜り抜け、広い手賀沼に戻って来た。手賀大橋も過ぎ、今度は白山、船戸の下から呼塚新田の方まで行って帰ってこようというものであった。
 柏側には瀟洒な建物や白い病院の建物や印象的な形の新しいふるさと大橋等がにぎやかに見え、今までのゆったりした沼とは全く違い、かわいい彩りのボートが浮かんでいてもおかしくない雰囲気になった。我孫子側も根戸、白山の斜面林に映える白い高級住宅があり、誠に華やかである。先程の瀟洒な落ち着いた茶色の建物は人が中に集まるコミュニティの施設ではなく、北千葉導水路の江戸川と手賀沼への水を配分する設備を備える第2機場だ。布佐の利根川沿いに第1機場があり、パイプで繋がれている。利根川の新しい水が手賀沼をどんどん通り抜けて欲しいものだと思う。
 近世には木下河岸や沼南方面から荷を積み、たてに沼を通り抜けて戸張河岸や呼塚河岸で中継し、流山や松戸に向かうルートがあったという。

夏の沼 呼塚河岸の 賑いおもう

 子供達だった頃、足で砂地を掻き分け貝を取ったと、乗船の仲間が思い出を語るこの沼に今後どんな動植物が繁殖するのだろうか。
 船は出発地の手賀沼公園の桟橋に向かった。10時に出帆し、下船は13時15分だった。
 各自の家からチョット出掛けてできる何とすばらしい周遊だったことか。
                                                                                                (平成12年7月23日)


 柴田弘武氏hirotake@mvb.biglobe.ne.jpより
  来る10月の研究講座での発表が予定されている著書が、去る6月20日に崙書房から発刊されました。

『常陸国風土記をゆく』

 本書は『常陸国風土記』に出てくるすべての場所を訪ねて、その地を写真と文で紹介するものです。写真は去年亡くなられた「ジャパン・フォーカス」代表、日本写真家協会代表の横村克宏さんが担当され、柴田弘武が文章を担当したものです。

常陸国風土記をゆく 『常陸国風土記』については数多くの著作物がありますが、その多くは秋本吉郎校注の岩波古典文学大系本『風土記』(1958年刊)を底本として利用しています。しかし、その後の研究は、秋本吉郎校注には少なからず問題点があることが指摘されるようになりました。
 例えば、行方郡板来村の項で、タケカシマノミコトが原住民の国栖(くず)を騙し討ちするに際して、「杵嶋唱曲(きしまのうたぶり)を七日七夜遊び楽しみ歌ひ舞ひき」と読み下したのに対し、植垣節也校注の小学館本『風土記』(1997年刊)では、「杵を鳴らし曲(うた)を唱(うた)ひ、七日七夜、遊び楽しみ歌ひ舞ふ」と読み下します。前者によれば、肥前国の「杵嶋唱曲」がこの地で歌われたわけで、タケカシマ軍の出身地が九州にあることを証明する根拠の一つとなっていました。それが、「鳴杵唱曲」と読むべきだとなると全く意味が違ってしまいます。
 本書は、底本に小学館本を使用し、なるべく最近の解釈を取り入れるように心がけました。
 また、芸津(きつ)の里などでは、いままで紹介されたことのなかった、キツヒメを祭る北浦村小貫の神子御前の宮を紹介したり、仏の浜の項では通説の度志観音を否定し、木村恒雄氏の唱える日立市小木津浜の磨崖仏説を取り入れるなどしています。
 そして、『常陸国風土記』の底流には、古代産鉄民の伝承が色濃く反映していることを提唱しています。

 また、本書の三分の一近くのページをしめる写真は、横村克宏氏が文字通り命を懸けたものであり、風土記の世界の「風土」を見事に抉り撮って、迫力満点のものとなっております。

 ぜひ、手にとってご覧戴きたいと思っています。
       (柴田弘武 記)

柴田弘武文・横村克宏写真『常陸国風土記をゆく』(崙書房 A5判224頁  定価2000円)
    崙書房■本     社■千葉県流山市流山2−296−5 電話0471−58−0035
        ■茨城営業所■茨城県石岡市国府4−6−5   電話0299−24−0595

4 高木繁吉氏(f0471-74-0631)より
3月の研究講座は、国立歴史民俗博物館・企画展示の見学会。その感想文を、市史研の会報に投稿

『地鳴り山鳴り−民衆のたたかい300年』を観て

  宗吾霊堂を訪ねる
 
まず、博物館に行く前に、「民衆のたたかい」のシンボルである佐倉惣五郎を祀る宗吾霊堂を参拝した。宗吾霊堂の参道を入り、墓前に線香を手向け、山門をくぐり本堂で合掌した。次に奥の宗吾記念館に行き、人形仕立ての宗吾一代記を見物した。そして古風な二階建て木造の資料館に入り、ぐるりと見学した。資料的に一番大切な「惣五郎」と記された古文書は、国立歴史民俗博物館に「出開帳」に行って姿はなかった。代わりに境内では「地鳴り山鳴り」展のポスターが誇らしげに掲げられていた。
  絵巻物に描かれた一揆
 見学会の説明役は、贅沢にも「地鳴り山鳴り」展をプロデュースした新井勝紘同館教授が引き受けてくださった。なんと二時間も熱心に解説をしていただき恐縮した。
 冒頭の絵巻物「夢の浮き橋」には誰しもが驚かされるだろう。天保時代の庄内藩「三方領地替え」反対一揆の記録である。全三巻で全長五十メートルという長大なものである。絵巻物の内容は、幕府が庄内藩と川越藩と長岡藩を同時に領地替えしようとした暴挙に対して、庄内藩全域で起こった一揆の一部始終を、沢山の挿し絵と文で克明にまとめたものである。これは文字通り「一見の価値」がある。また、一揆の絵巻物が山形県鶴岡市の致道博物館の所蔵であることを知って、展示がより身近なものとなり、興味はさらに深まった。というのは二十年程前に市史研の旅行で同博物館を訪ねていたからである。

  常設展「躍動する民衆」と企画展示「地鳴り山鳴り」
 国立施設で権力と対立した民衆運動を堂々と展示した、歴史民俗博物館の見識の高さと関係者の努力を高く評価したい。初代館長で古代史家の井上光貞先生(故人)は、新井さんの師匠筋の色川大吉先生の強い提案を受け入れて、常設展に「躍動する民衆」のコーナーを新設したという。井上先生は知己の西嶋定生先生(我孫子市史編纂委員・故人)の誘いで日秀西遺跡調査を見学した機会に、色川先生は柳田国男ゆかりサミット国際シンポジウムなどに参加した機会に、我孫子を訪ねられた。その際にこのエピソードをそれぞれから伺ったことを、今回久しぶりに思い出した。その常設展「躍動する民衆」コーナーでの英断をさらに発展させたのが、この企画展示であると思うと感慨一入である。
  百姓の「訴」から人民の「主張」へ
 
「一揆の絵巻物」の次は幕藩制社会の近世と、近代へと時代が変転していく移行期の民衆運動の展示であった。近世後半から幕末維新そして自由民権期の主な運動や事件が、社会史の手法を活かしながら、ビジュアルに紹介されていた。
 ここで、義民増田五郎右衛門の顕彰記念碑(静岡県藤枝市)をみて感じたことがある。五郎右衛門は文化年間に本多田中藩に抵抗し斬首された一揆の指導者である。これと同時代に本多田中藩は駿河下総の良民の九〇人余りを表彰したと記録している。その際に地元の青山村の五郎左衛門と茂兵衛、下ヶ戸村のいちが表彰されている(「あびこを探る」No一四六)。地元農民の表彰の裏面には、義民への過酷な弾圧があったことも忘れてはならないだろう。また、祟りで信州松本状の天守閣を曲げたと伝えられる「加助一揆」の資料館が紹介されていた。『増補版THEアビコ』の調査の際に見学したが、その旅では美しい虹をみて「加助の虹」かと感動した思い出がある。付け足しだが、筆者は学生時代に「百姓一揆論ノート」を発表して歴史の勉強をはじめたが、そこに取り上げた義民を企画展示に探すと、「展示カタログ」の「全国義民一覧」に、「宮城県・文政六年六月・陸奥国伊具郡仙台領一揆・菊池多兵衛」と収録されていて、当時を思い出し懐かしかった。
 幕末維新期の一揆から自由民権運動のコーナーでは、「民衆のたたかい」の正負の歴史、「秩父事件百周年」の時は市史研のバスツアーで秩父事件跡と清春白樺美術館を巡ったこと、「青年民権家の『常総紀行』」を「あびこを探る」(No一五三)に載せる際に、新井さん達の努力の結晶「町田市立自由民権資料館」を訪ねたことなどを思い出した。

  「義民の世界・佐倉惣五郎」と「現代によみがえる記憶」
 このコーナーでは「佐倉藩と”惣五郎一揆”」「惣五郎物語の成立」「歌舞伎の惣五郎」「ひろがる惣五郎」と、義民の伝承に力が注がれていた。宗吾霊堂から「出開帳」に来ていた惣五郎の名が記されている古文書は、ここにきちんと展示されていた。
 ここでは、「あびこを探る」(No一三〇)に、元は岡発戸の旧家にあった「義民佐倉惣五郎の直訴文という古文書」を紹介したことを思い出した。
 また、今年湖北座会から出版された小林節子『星野七郎さんと手賀沼』には、「佐倉宗吾(木内惣五郎)と印旛沼」が取り上げられたことを思い出して、身近なところで佐倉惣五郎の記憶が現代に甦っていることを改めて感じた。
 以上、力作の「地鳴り山鳴り−民衆のたたかい三〇〇年」展を我孫子市の市史づくりや市史研の活動と結びつけて紹介してみた。
 今回は特に面白い佐倉の国立歴史民俗博物館へぜひどうぞ。会期は五月二一日まで。


 高木繁吉氏(f0471-74-0631)より
昨年9月の研究講座での発表が、論文として、「常総の歴史」第24号(崙書房 A5判120頁定価1000円)に掲載されました。
    崙書房■本     社■千葉県流山市流山2−296−5 電話0471−58−0035
        ■茨城営業所■茨城県石岡市国府4−6−5   電話0299−24−0595

『相馬御厨と四神相応の地』

  目次
  はじめに
 1 相馬御厨の地
  (1)相馬御厨と相論 (2)千葉常重(平経繁)の寄進状
 2 四神相応の地
  (1)風水思想と四神思想 (2)四神思想と四神相応の地
 3 相馬御厨の地と四神相応の地
  (1)常総地方と四神思想 (2)相馬御厨の四至と四神相応(東の境 南の境 西の境 北の境) (3)千葉常重寄進状の四至と四神相応の地
  おわりに − 常重と常胤について

 人々が暮らしに適う地を望み住処とするのは当然であろうし、また為政者がその適地を人智を尽くし治めようとするのも、うなずけるであろう。
 古来から、暮らしの適地について四神相応という表現がある。中世の陰陽道の書は四神相応を簡潔に記している。原文を読み下すと次のようになる。
 東に流水有り青龍と曰う。南に沢畔有り朱雀と曰う。西に大道有り白虎と曰う。北に高山有り玄武と曰う。
 右、此の四物を具え足る、則ち、四神に相応の地と謂う。尤も大吉也。
 さかのぼって、古代末に記され伊勢神宮に残る古文書には相馬御厨の四至(東西南北の境界)が書かれている。原文を読み下すと次のようになる。
 東は蛟もう(虫罔)の境を限る。南は志子多の谷並びに手下の水海を限る。
 西は廻谷並びに東大路を限る。北は小阿高並びに衣河の流れを限る。
 相馬御厨の存在は、常総地方の古代中世史の世界で、欠かせない。相馬御厨は、古代末の十二世紀前半に伊勢神宮に寄進された下総国相馬郡の荘園で、以後、中世地域社会に長く存続した。
 その相馬御厨の研究では、これまで政治史や社会経済史の分野で成果が多かった。

  ここでは趣を変えて、相馬御厨の最初の寄進者である千葉常重(平経繁)が記した古文書に、四神相応を暗示する表現があるのを指摘し、歴史景観の見地から相馬御厨の歴史像に彩りを添えてみたい。(「はじめに」より)

 相馬御厨という小世界は、遠目で見ると筑波を後景に「手下の水海」を前景にした「背山臨水」の地であり、近くに見ると大小の谷津に抱かれ前が水と面する「背丘面水」の地であり、それが「入子」になった地相である。すなわち広くも狭くも天地の利ある蔵風得水に相応しい地といって良いだろう。(「千葉常重寄進状の四至と四神相応の地」より)


2 岡本和男氏(kaz_.okamoto@nifty.com)より
今年2月の研究講座で、福島茂太氏から著書『常磐線沿線の湧水』のお話を伺い、現地を訪ねたルポ。

松戸の湧水散歩

 常磐線沿線の湧水を見て、今週の散歩は松戸に湧水にしようと今朝決めて行ってきました。小生、冬の間は土日のどちらかをカミさんと首都圏の一日散歩することにしてます。
 ぱらぱらと本をめくって、電車で行くのに都合の良い松戸周辺と決め、宮の下湧水、カンスケ井戸(名前が良い!)、北竜房湧水、関さんの森を歩くことにしました。

 風早神社を訪ね、(社の樹木はすばらしく太く、歴史を感じさせました)そこから上本郷2小の方へ向かい、学校の横の住宅との境の道を犬にほえられながら歩いて、他人の家の庭に入っていくような感じで学校との間を覗き込むと、溝に水が流れているのが分かり、細い溝脇の道を進んで行くと、それはありました。切石でトンネルから涌き出るように囲った湧水です。その量は素晴らしく多く、涌き出ている土の部分は見えないのですが、暗闇から出て落ち込むあたりの砂は白く、踊っているのが分かります。なにか神々しい気分になります。
 ここの湧き水を見ると、かつて沼津の国道脇に出ている富士の涌き水や、蒜山の下にある塩釜で感じた’すがすがしさ’を思い出し感激しました。
 更に斜面に近いところには池のような溜まりが材木で囲われていますが、ここは涌き水は殆どありませんでした。それでも、これで気分を良くして次のカンスケ井戸に向かい、すぐに見つけることは出来ましたが水量は僅かでした。次の北竜房湧水は大事にされて公園の脇にあり、また湧き水量はあるのですが風情は余り感じませんでした。萬満寺に寄った後食事し、関さんの森に行きました。少し荒れてはいるものの良い森でした。しかし、池は水が少なく汚れていて残念でした。
 結局、宮の森に守られていた宮の下湧水が最高だと感じました。何時までも清水が流れ出るよう祈るばかりです。
 今日は8kmを歩いたことになります。北小金から電車に乗って帰ったのです。福島さんに感謝します。

福島茂太文・横村克宏写真『常磐線沿線の湧水』(崙書房 A5判158頁定価1700円)


1 岡本和男氏(kaz_.okamoto@nifty.com)より
今年1月の研究講座(NHK公開放送「週間ブックレビューのつどい」)に参加した後で、佐野真一氏から公判の予定を伺い、法廷を訪ねたルポ。

佐野真一さんの第2回口頭尋問527法廷傍聴記

 私としては初めての裁判の傍聴をしました。以下に報告します。
 昨2月25日13時30分、東京地裁5階の527号法廷にて、原告中内功、被告佐野真一の民事43部平9年(ワ)27256号が開かれました。小学校の教室よりチョット大きい広さに、3割の部分が仕切られた30数人分の椅子席のある傍聴席に、数分前に着席して待ちます。既に原告・被告双方の弁護人2人が座って、書類を用意してます。書記が2人正面に座り、傍聴人は10人程度。佐野さんが本日の証人と共に一つしかない傍聴席脇の入口から部屋に入り、法廷の中央に3つ用意してある椅子の一つに座り、そこへ裁判長以下判事2人が入ってきて、廷吏が「起立」と声を張り上げ、全員が立ってお辞儀をして座ります。直ちに小さな演台付きの椅子に被告は座るよう言われ、裁判が開始されます。
 すぐに被告側の弁護人が反証に入りました。前回に引き続いているようです。
 多分、全ての原告側の言い分に対し行っているのでしょう、証拠甲、乙のページを示しつつ被告側の反論が次々と続きます。延々1時間半に及び、時々ページが追えず裁判長から’待った’が掛かります。もやし事件、ボールペンもらいの件や、山口組との関係の意味、'使途不明'の意味など、本を読んでいないので良くは分からないのですが佐野さんの見聞や関係者の証言、新聞などで証拠’乙’を示して反論をしました。この反論が終わり、裁判長以下全体がホットするほどでした。
 次に原告側が反対尋問に入り、もやしブチマケの件は直接見たのか、聞いたのか。見てもいないものをあたかも見たように書いたのはなぜか。それは信用しうる見た人から見聞したものです。激すると物をぶつけるというが、それは見たのか。どんなものを投げたというのか。信用できる誰それから聞いたもので、机を投げるとは思えない。身の回りのものでしょう、と言ったやり取りがあり、代理人とおぼしき人が次に立ち、かなり激した声で、
「被告人、貴方に取材を受けたダイエー周辺の人たちは皆、このような記事を書かれて裏切られたといっている。もし、こんなものを書かれると分かっていたら取材を受けたと思いますか。」
「分かりません。仮定の上の質問では−−」
(裁判長)「もしということで、貴方の考えを−−」
(被告弁護人)「裁判長、仮定の質問をされても答えられないでしょう」
(原告弁護人)「弁護人は何の権利があって裁判長の言葉を遮るのか」
(裁判長)「まあ、まあ、原告側はもう少し順序立てて質問してください。」では、
と言いつつ同じ内容の質問になり、また騒然となる。
「では、ダイエー周辺の人の取材の前に、その目的を相手に知らせましたか」
「いろいろな方に取材してますが、相手により聞きたいことを前もって伝えています。しかし、その結果の記事はこうですと始めに持って行くということはむしろおかしな事じゃありませんか。それはできません。」
(裁判長)「相手を絞ってください」
「中内功に対してはどうだったか」
「手紙で申し込みをしました」
「広報室へは連絡しているか」
「直接はしていませんが、広報室の山本さんとは前からの知り合いで、何度か会って目的の話をしています。」
「最後に今の気持ちを聞きたい。」
「日本の流通業会の問題を取り上げたいと思い、優れて改革を進めてきたダイエーのことを書きたいと考え、取材を進める内に、ダイエーが段々又小売商店に変わってきてしまっていること、その元はカリスマとしか表現できない中内会長にあると考えるようになった訳です。」−−「最後に中内さん自身がここへおいでになって、議論をして欲しいと切に希望します。」 
ここで再び、原告側代理人が「このような見てもいないことをあたかも見たように偽りの内容を書き、−−」といい、
被告弁護人は「貴方は偽りの内容を書きましたか」
「いえ、偽りは書いてません」と答えて終わりました。2時間が経っていました。
 この後、被告側証人喚問が始まりますが、帰らないといけない時間になり、そっと法廷を抜けました。
 佐野さん側に立ったような傍聴記になりましたが、第3者から見てもこんな感じではないでしょうか。只、原告側弁護人が質問の最後に、日経ビジネスが弁護費用を出していると聞きましたが本当ですか。それは知りません。といったヤリトリもありました。
(岡本見聞記)


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