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   『救いの日』 2月27日(木)  

しかしサウルは言った。
「きょうは人を殺してはならない。
きょう、主がイスラエルを救ってくださったのだから。」

サムエル記第一 11:13

 イスラエルの初代の王サウルが選ばれたとき、ある人たちは若い王をあざけり、従おうとはしませんでした。

 しかし、サウルは神が選んだ王でした。ですから、イスラエルがピンチに陥ったとき、サウルは神の力によって国を救います。
 その時、人々はサウルをあざけったよこしまな者達を殺そう、と言い出します。その時にサウルが語ったのが冒頭の言葉でした。

 サウルは、神が自分たちを救われたのだ、ということを強く意識していました。
 それゆえ、自分に敵対した民への処罰よりも、この神に感謝することを選びました。
 ここに、キリスト者の行動原理があります。

 私たちも、人に侮辱されること、あらぬ誤解をされることがあります。
 しかし、そのようなことをいちいち恨んだり、仕返しをたくらんだりするのはいかにも不健康です。
 私たちもまた、神の大きな愛と赦しによって救われているのです。
 その救いを心に受け止めるとき、人からのそしりなどは些細な事でしかなくなります。

 イエス・キリストはあなたを救うために十字架にかかられました。
 今日も救いの日です。
 憎い人を、もう赦すべきではないでしょうか。

 

   『披露宴と学生服』 2月22日(土)  

義の実を結ばせる種は、平和をつくる人によって平和のうちに蒔かれます。
ヤコブ 3:18

 友人の牧師の結婚式に行ってきました。
 冷たい雨の降る中ですが、たくさんの人が教会に祝福のために集まっていました。

 学生服を着た中学生たちも何人もいました。教会の近所の子達です。
 彼らは小学生の時から教会に連日のように出入りして、牧師館にしのびこんだり、いろいろやんちゃなことをして、牧師を困らせました。しかし、彼は決して怒ることなく粘りづよく彼らを導き続けました。

 披露宴の最後に、中学生たちが出てきて歌を歌いました。
 その歌と、彼らのあいさつを聞いていて、涙が出てきました。
 「仕事が忙しいのに、泳ぎに連れて行ってくれたことありがとう。」「先生のおかげでクリスチャンになりました。」「結婚してからは、勝手に牧師館に入りません。」それぞれの言葉に、美しい兄弟愛のようなものを感じました

 彼らの歌と言葉をじっと聴いている新郎と、これから牧師夫人になるかわいらしい新婦の優しくて深いまなざしが、印象にのこっています。

 

   『破れ口をふさぐ人』 2月20日(木)  

わたしがこの国を滅ぼさないように、わたしは、この国のために、
わたしの前で石垣を築き、破れ口を修理する者を
彼らの間に捜し求めたが、見つからなかった

エゼキエル 22:30

 現代は、既成の多くのものが崩壊している時代です。教育、モラル、夫婦や家族のあり方、さまざまな人間関係…。どこから手をつけてよいのか分からないような傷つき、崩れ果てた状況が至る所にあります。

 皆様の家庭に、また皆様の教会の中にも、古くからの深い傷や、破れ目があるかもしれません。
 悲しみ、ため息をつくしかないような現実を前にするとき、私たちは失望や憤りを感じます。

 しかし、クリスチャンにはいつも希望があります。イエス・キリストがおられるからです。キリストは、神と人の関わりの破れ口に立つお方です。絶望的に見えた神と人との断絶を、キリストはご自身が十字架にかかることで修復されたのです。このキリストの救いの恵みを覚えるとき、神の愛と恵みが私たちの心に流れ込んできます。そして、私たちは力と希望を頂いて、さまざまな現実の破れ口の修復に取り掛かることができるのです。
 クリスチャンの方へ、今は絶望する時ではありません。憤るときではありません。
 ともに石垣を築き直し、レンガを一つずつ積み上げていきましょう。

 神は、神の御前で石垣を築く人、破れ口を修理する人を探しておられるのです。

 

   『教会って・・・』 2月18日(火)  

『教会はキリストのからだであり、
いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の
満ちておられるところです。』
エペソ人への手紙 1:23

 「教会って、いいところだな」と、最近教会に来られたEさんがつぶやきました。
 山陽教会のことや、教会員の方のことをあれこれ話した後の、何気ない一言でした。
 ささやかな一言でしたが、妙に実感が感じられ、今日一日の一番印象にのこった言葉になりました。


車内ランチ(青年会スキー)

 この教会の全ての人が、同じようにつぶやくようになることを、私は望みます。
 この町の全ての人が、
 この世界のすべての人が、
 「教会って、いいところだな。」としみじみつぶやく日が来ることを、私は心から望みます。

 

   『喜びの日にも』 2月15日(土)  

『あなたがたのうちに苦しんでいる人がいますか。その人は祈りなさい。
喜んでいる人がいますか。その人は賛美しなさい。』
ヤコブ 5:13

 苦しみの日に、神に向うことは難しくありません。
 助けを求めて祈らずにはいられないからです。
 多くの人は、どうしようもない困難に直面して、教会の門をたたきます。
 そして、力強い神の救いを知るのです。

 しかし、神を信じ困難を脱した人が、その後、長年信仰生活を送る中で、それまでとは別種の戦いを感じることがあります。
 それは、かつて苦労していた時のような熱意をもって神に向えない、というジレンマです。生活に何の不満もなく、幸せであるはずなのに、昔のような信仰の喜びを感じられないのです。
 そして、自分の信仰は生ぬるくなってしまった、と自分を責めたりします。

 しかし、それは大きな間違いです。
 嘆きの祈りだけが信仰ではありません。
 悲しみの日には、涙ながらに祈ります。
 喜びのには、心から主に感謝すればよいのです。
 感謝と賛美こそ、成長した信仰者の結ぶ実なのではないでしょうか。

 冒頭の短い聖句に、クリスチャンの生涯の二つの側面がまとめられています。

 

   『ねたむほどの愛』 2月14日(金)  

『万軍の主はこう仰せられる。
「わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、
ひどい憤りでこれをねたむ。」』
ゼカリヤ 8:2

 可愛さ余って憎さ100倍、ということばがあります。
 本当に愛する者に裏切られたとき、燃え上がる怒りはとどまるところを知りません。

 冒頭の聖句は、神を裏切った人間に対して、神が燃えるような愛と憤りの告白をしている箇所です。
 聖書の神は熱い愛で、あなたを思い続ける方です。
 神のことばに素直に心開くとき、神は本当に喜ばれますし、神の招きに背をそむけるならば、実に悲しまれるお方なのです。

 神は、私たちを愛するゆえに、決して無関心ではいられないのです。
 自らの身に滅びを招くような、罪人の私たちであっても、神はねたむほどの激しい愛で、私のところに帰っておいで!と呼び続けてくださるのです。
 今日も。 明日も。