▲▽▲The possibility under 1 %―vol.10▲▽▲
〜混沌の後に…〜
葬儀屋をどこにするか?その前に市役所に届ける。お坊さんに連絡する。社葬にはしない。
葬儀はどこでするのか――自宅なのか、お寺さんでするのか、それとも葬祭場か?全てが嫌な
ものではある、が、目を逸らすことの出来ない現実だ。父一人で出来るとは到底思えない。
私は(喪服の)着付けの手配まで考えていた。そこまで考えたところで病院から実家に移っ
た。駆けつけてくれる親類を迎え、そこで一緒に‘待機’しなければならないからだ。
「どうなったって言うんよ」「そんなに悪かったん?」到着するやいなや、誰もが異口同音
にまくしたてる。電話口で聞いたそのまんまの驚きの口調がひっきりなしに続く。一応
冷静に昨日の治療の経過(血漿交換について)と拒絶反応の話をするが、解っている人が
どれくらいいるかは疑問だ。わからなくて当たり前だとも思う。難しい話はさておき、
今が大変な状況であることだけわかってくれればいいと思った。
何がどうなって朝を迎えたのか、細かいところまでは憶えていない。ただ、一時はもうダメ
だと言われた母が何とか持ち直し、集まった親類のその後の予定が決まる事もなく‘解散’
出来たのは、幸運としか言いようがないと今更ながら感じる。或いは母親の日頃の行いが
余りに悪すぎて、天の神様も地獄の閻魔様にも引き取りを拒否されたかのいずれかだ。
今だから言える冗談であるが、その時はたまったものではなかった。深夜ゆえ多くの者が
母のそばに付き添ってやることは出来ない。(ま、仕様がないというか当然でしょうが)
父だけが付き添うことを許されていたわけで、その父からの連絡を待つのみの数時間は途方
もなく長く、やるせなく、それでいて緊張していた。電話が鳴らないで欲しいときっと誰も
が思っていたことだろう。――長い長い夜――そして空が白んできた頃、沈黙を切り裂くよ
うに響いたコールが澱んだ空気を一変させた。が、「なんとか持ちこたえた。取りあえず
生命の危機は脱したそうや」という声に安堵し、続く「集まってくれた人には一回帰って
もらって」と言う声は、私から伝えなくても聞き耳を立てていた全ての人に届いた。
「良かったなぁ」「帰っても構へんのんか?」「仕事もあるし一回帰るけど何かあったら
すぐに連絡してな」やがて、それぞれがそれぞれの持ち場へ戻って行った。「もう集まらん
でもええようになってな」誰に呟くとなくそんな言葉を呟いた時、猛烈な眠気に見舞われた。
「でも、オヤジと替わったらんなんしなぁ」父こそ一睡もしていないだろう。私はまだ
うとうととでもしていられる時間があったように思えるから…。
〜再トライ後の奇跡〜
拒絶反応がおさまった母は翌日も翌々日も同じ血漿交換を繰り返した。流石に心配であった
が、最初のような拒絶は起こらず、ことなきを得た。そして一週間後に二度目の血漿交換を
行った後、母の病状には好転が見られた。つまり肺の繊維化が食いとめられていると言うのだ。
「効果があったということですか」――ま、そういうことになりますね。どちらも手探りの
治療だが、光明が見えるのは嬉しい。「年賀状をどうしよう?」とずっと迷っていた父は
「出せそうや、印刷の手配してをくれるか」と告げて来た。私の仕事ばかり増えるが仕様が
ない。それでも20日を過ぎるまで書き始めなかった。投函したのは29日になってから
のことだった。
病院でのクリスマスそしてお正月、この年末年始は今までは他人事であった生活を経験する
ことになる。父も母も、そして私も。でも、11月のあの日で入院生活が終わってしまう
よりははるかに良い。病室は暖房よりも人工呼吸器の熱で、暖かいというよりむしろ暑かった。
季節を感じることもなく病気と闘う。まさにそんなところだったろうか。そうそう、蛇足に
なるが1998年のW杯予選の戦いは病室で見ることが多かった。がけっぷちに立つ代表を
見守りながら呟いたこと――日本が(W杯に)出られたら、母も助かる。そして絶対
出られる!そう信じて病室の小さな画面を眺めていた。ひでのシュートが跳ね返って岡野
が飛び込んだあのシーンを思い出す。きっと助かる!――確信した。信じるものは救われる!
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