日本の伝統文化はどこにある? 外国人による日本語の討論をテレビで見た。日本語を学ぶ若者たちが世界中から集まったのだ。外国人に日本語を教えている筆者には、大変興味深い番組であった。日本文化に関心の深いオーストラリアの青年が言った。「日本の若者が自国の文化に関心がないのは残念です」と。別の国の若者は「むしろ若者が作っていくこれからの文化に注目すべきだ」と言った。「文化はいまや共通の世界遺産だから、日本文化をアフリカの若者が伝えてもよいのでは?」という意見もあった。みなさん、どう思いますか?オーストラリアの青年は、自国がせいぜい二百年の歴史しかないので、長い日本の歴史に憧れがあるようだ。彼自身そう言っていた。これはアメリカ人も同じだろう。 ![]() しかし、たぶん彼等には分からない日本の悩みがある。いや、日本だけでなく、この討論に参加していた中国やトルコやモンゴルなどの悩みでもあろう。つまり欧米以外のすべての歴史ある国に共通の問題である。それは文化の断絶ということだ。世界で生きるために西欧化せざるを得ず、ある時期に伝統文化との断絶を経験したことである。たとえば、和服の文様や色彩の美、日本家屋の簡素で奥深い美は素晴らしい遺産である。しかし現実の生活では、そのまま引き継ぐことが出来なかった。和服を着て会社に行くことはできない。伝統の日本家屋を建てるには莫大な費用がかかるだろう。だいいち職人がいない。維持することも不可能である。
では、伝統文化は消えてしまったのか?決してそうではない。着物は祭りや冠婚葬祭など特別の場面に生き残っている。日本家屋は寺社や地方に残っている。東京には伝統文化は残っていないのか?オフィスにはない。官庁にもない。ホテルにもない。マンションにもない。じゃあ、どこに?寺社を除くと、外から見える伝統文化はほとんど残っていない。じつは残っているのは建物の内部なのだ。商業店鋪である。いまや飲食店の内装、服飾、家具、道具、料理にこそ、日本の伝統が凝縮しているのだ。そこは日本人が美酒と美味と楽しさとゆとりを求めて、出費を惜しまない心の故郷である。癒しの空間である。そこに和服や建築の美の伝統が残っている。そして外国から訪れたひとびとが日本文化に触れるのも、おそらくこうした場所が多いであろう。
そしてもうひとつ日本の伝統、日本の美意識が受け継がれている分野がある。歌舞伎や能狂言は残念ながら世界的に見れば影響力が小さい。いま世界に浸透している「ジャパン」は、マンガ、アニメ、ゲームである。これらの素材、キャラクター、ストーリー、画像、そして作者の職人魂の中に、生き残った日本がある。これらの作者は現代に生きる浮世絵師であり、戯作者であり、からくり師である。だからこそ外国の若者たちが新鮮な衝撃を受けて魅せられるのだろう。
2003年10月07日
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なぜゴルフに狂っちゃうか? ゴルフというものがありますね。「あしたゴルフだ、ウッシッシ」なんて喜んでるオトウサンもいるでしょう。「またゴルフなの、いいかげんにしてよ!」と嘆くオカアサンもいるでしょう。「山を削ってゴルフ場を作るなんてけしからん!」と異義を唱える方々もいるでしょう。ゴルフは安くない。安くないどころか、大変な贅沢である。あんな高い遊びが、なにゆえ日本に定着したか?日本には会社経済と消費者経済のふたつがあると言われる。会社経済なくしてゴルフの隆盛はありえなかっただろう。その証拠に会社が左前になると、ゴルフ場は閑古鳥が鳴いている。 じつは筆者もゴルフをやっていた。いっときは夢中になった。仕事をやめてからやらなくなった。ゴルフという遊びは会社のような組織と切り離せない。プライベートで気軽にゴルフなんてのは外国の話である。組織の中にゴルフをやりたいやつがいるから、ゴルフ接待が生まれ、ゴルフコンペが生まれたのだ。筆者の周辺にもかつてゴルフ気狂いがいた。いい年輩なのにシングル・プレーヤーだった。そんな連中が何人かいた。五十を過ぎてシングルを維持するのは並み大抵ではない。最低でも週一回はプレーしなければ無理だ。見ていると、彼等は生活のすべてがゴルフを中心に回っているのである。ちょうど「釣りバカ日誌」の浜チャンが、釣りしか考えてないのと同じである。むろん出世は二の次である。 まあ、彼等ほど打ち込まなくても、ゴルフには大の男を狂わせる何かがあるようだ。おじさんになっても、みんなで出来る唯一のスポーツだからだろうか?筆者も初心のころは必死で練習したものだ。毎晩マンションの屋上でクラブを振り回した。どうも日本人の真面目さに鍵がありそうだ。うまくなりたいという向上心。日本人にはこれがある。ゴルフ練習場がこんなに沢山あるのは、日本だけではあるまいか?ハワイのゴルフ場なんかでは、短パンに裸姿、クラブ一本だけの外人(じゃなくて本国人)を見る。空振りしてもキャアキャア喜んでる。どうもわれわれとはメンタリティが違うらしい。もっとも、自己流の練習をやり過ぎて、奇妙きてれつなフォームを披露する御仁がときどきいて、笑いを誘うのはご愛嬌である。
2003年10月04日
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ケーブルTVで世界が広がる ずっとケーブルTVを愛用している。当地にケーブル局ができて以来だから、随分ながいおつき合いである。チューナーが古くなったので取り替えてもらったほどだ。毎月番組表が送られてくる。全部で数十チャネルあるようだが、愛好するのは数チャネルのみだ。最大の功績はサッカーの世界が広がったことである。イギリス、オランダ、イタリア、スペインのプロリーグ・サッカーが見られる。サッカーは全世界、全大陸のスポーツだ。世界を見て日本を見るから面白い。日本のプレーヤーがヨーロッパで活躍している。最初はイタリアのセリエAをよく見たが、どうもセコいプレーがいやになった。いまはリーガエスパニョーラを好んで見る。おかげでスペインの町の名を覚え、バスクなどの地方色を知った。ただし、年に数度の最高のビッグイベントは、WOWOWなんて有料チャネルに独占されてるのがくやしい! NHK衛星放送は、大リーグ野球とサッカーと映画がいい。朝はMLBの時間だ。どうせ他局でも大したものはやってない時間帯だからね。松井やイチローを見る。そのうちほかの凄い打者や投手を憶えた。やっぱりMLBには凄いやつらがいるね。日本のプロ野球はほとんど見ない。映画はひと昔まえの名作が見られるのが嬉しい。それから世界のニュースがいい。世界の政治家も、経営者も、文化人も、芸能人も、庶民も、まあいろんなことをやってるもんだ。わが国と似てるとこもあるし、違うとこもあるな。なんて見ているのが面白い。日本の話題が出ても、外国の観点はまるでちがう。へえ、やつらはそんなふうに考えるのか? 米国のテレビニュースを見ていると、彼等の独りよがり、裸の王様ぶりが、手に取るようによくわかる。 民放五局はまずほとんど見ない。民放の経営者は、昔の言葉で言えば「一億総白痴化」をめざして番組を編成してるとしか思えない。女子供というと差別用語になるかもしれないが、どうも大の男には見るに耐えない馬鹿騒ぎばかりだ。あんな下らない番組の片棒を担いでいれば、ディレクターや女子アナなどの、不祥事が相次ぐのも当然だろう。難関の試験を突破してテレビ局に入社したのだろうに、周囲の環境がゆがめてしまうのだろう。水商売と同様である。まあ、これもおじさんの余計なお節介だけど。どうせ見ないんだからね。
2003年10月04日
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コンビニとおにぎりに目覚めた コンビニに目覚めちゃったのである。いまさら何を・・という感じだが、何しろおじさんだからね。若者とはかなりのタイムラグがあるようだ。コンビニたらいうもんが、そこらじゅうに出来ておるのは横目に見とったが、いままでご縁がなかった。唐突に何に目覚めたか?カップ麺ではない。弁当でもスナック類でもない。H系雑誌でもない。 おにぎりである。その多様さにまず驚いた。梅干し、おかか、シャケ、タラコ、昆布は<ジャパン・トラディショナル系>。<海の幸系>は、紅鮭、鮭ハラス、ねぎとろわさび、辛子明太子、焼きたらこ、いくら。タラバガニマヨネーズ、シーチキンマヨネーズなどのマヨ系も流行りだ。<肉系>となると牛肉カルビ、牛肉ハラミ、豚とろ、豚角煮、チキンマヨネーズ。豚とろって何だろ?「松茸」なんて高貴なお名前も見える。 こいつらを、とっかえひっかえ買って来て晩飯にするのだ。おじさんの食生活はへんてこなんじゃ。昼飯をドーンと食う。いきつけのレストランで中華か洋食のランチを取る。前菜からデザート、珈琲までついてる。珈琲のお代わりまでして、たっぷり時間をかける。そのかわり朝晩はちょこっとしか食わない。健康(ダイエットともいう)のためである。しごく調子がいい。ひとり暮らしになってから、さまざまな食生活を体験した結果ここに落ち着いた。自炊時代もあったが、買い物や料理にかける時間がもったいない、と思うようになった。ましてホームページなんぞ作り始めると、あっという間に時間が経つ。買い物なんかやってられない。 目覚めちゃったので、さっそく周辺のコンビニ探検をしてみた。ちょいと歩く範囲に10軒近くある。ファミリーマートだけで3店ある。ざっと店内を見回すが焦点は、おにぎりコーナーである。おおむね一個百円ちょっとだが、デラックスバージョンも登場した。「こしひかり」と銘打って和紙につつんである。由緒ありげなお姿である。形は三角が主流だが丸型もある。なんでか知らないが、どうしても三角の方に手が伸びる。「おにぎりは三角」という刷り込みがあるのかも。目覚めたばかりなので、各店の比較検討、おにぎり銘柄の格付けはこれからである。そうそう、おにぎりの隣には必ずサンドイッチが置いてある。ときどきこっちに目移りすることもある。これまた多種多様で、こんごの検討に値するメニューである。コンビニはおもしろい。一句『コンビニは文化大使だ弁当も』
2003年10月03日
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東京のこんな町に暮らした 東京で暮らした町を思い出してみた。まず学生時代。はじめての下宿は世田谷区経堂だった。駅から十分くらい。大学で紹介された。二階の四畳半で、賄い付き(食事付きのこと)の下宿だった。きれいな部屋だったが、三ヶ月で出た。夕食は六時からと決められていたが、食事時間で縛られるのがいやになったのだ。 移ったのが代々木上原の三畳間だった。クラスメートがそこにいて、来ないかと誘ってくれた。ここで二年暮らした。新宿が近いのでよく遊びに行った。代々木上原の駅でときどき吉永小百合に出会った。彼女の家が近くだったらしい。まだ有名になる前の話である。ほっぺにニキビがあったな。そんなに可愛いとは思わなかった。 それから本郷西片町に引越した。ここは昔から学者町といわれたところだ。閑静な住宅街だった。近くに本郷の旅館街があった。珍しく戦火に焼けなかった地域で、三階建ての木造旅館があちこちに残っていた。地方からの修学旅行生が集まる街であった。わたしも高校の修学旅行でこのあたりに泊まったと思うが、どの辺だったかはよく覚えていない。 社会に出てからは阿佐ヶ谷、池尻、東松原などに暮らした。阿佐ヶ谷は中央線だ。中央線の商店街はみな似ている。駅の南北に商店通りが走っている。アーケードがある。阿佐ヶ谷の隣りは高円寺。椎名誠さんで有名になった高円寺商店街があって、「高円寺のおばば」がいた。中野はブロードウェイなんて、すごい名前の商店街ができた。食い物屋、飲み屋はわんさとある。南こうせつの「神田川」。「窓の下には神田川、三畳ひと間の小さな下宿」というのは、たぶん中野区だろう。神田川は新宿区から都心へと流れているが、「二人で行った横丁の風呂屋、小さな石鹸カタカタ鳴った」にぴったり来るのはやっぱり中野のほかにない。その後結婚して目黒方面に移ったが、それはまた別に書きたい。
2003年09月26日
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きまり文句にうんざり きまり文句というのがありますね。身近なところでは家族のきまり文句。「もったいない、センゴ物のない頃は・・」と言うのはおじいちゃん。「お父さん、山口百恵が好きだったんでしょ?」と子供が言えば「そうよ、それであたしと結婚したんだから、ね」とお母さんが受ける。食卓で何百回も繰返されたセリフである。会話のなりゆきで「あ、ここで言いそうだ」と思うと案の定出てくる。「またか」という気はしても、まあ家族同志なら微笑ましいものである。 微笑ましいで済まされないのが、公の場のきまり文句である。野球中継。アナウンサーと解説者の掛け合いは、きまり文句のオンパレードである。つぎに言うことがみんな分かる。死球になると「当たった打者も痛いが、当てた投手はもっと痛いでしょう」。捕手がヒットを打つと「これでますますリードが冴えてきますよ」。投手が窮地に立つと「ピッチャーの心理状態は?」とアナ。「そうですね、気持的には」と解説者。この「きもちてき」なる言葉が大嫌いである。まともな日本語ではない。それはともかく、わが国のスポーツ中継者は「心理だ、プレッシャーだ」と言い過ぎる。明朗快活なはずのスポーツを陰々滅々たる心理講釈にしてしまう。これが野球をつまらなくした。きまり文句と心理偏重は、民放のプロ野球もNHKの高校野球もまったく同罪である。 新聞テレビ報道のきまり文句にもうんざりする。事件の加害者は「おとなしくて、そんなことをするように見えなかった」人ばかりだし、被害者はいつも「やり場のない怒りに声をふるわせる」ことに決まっている。こんなきまり文句でいったい何が視聴者に伝わるというのか? きまり文句は条件反射である。一種の判断停止である。ものごとの上っ面を撫でてそれでよしとする態度である。報道機関がそれでよいのだろうか。いちばん恐ろしいきまり文句は国家規模のそれである。ナチスドイツ、軍国主義日本のスローガンが国民をどこに導いたかを思い出せばわかる。そしていま、ブッシュU.S.A.に同じ危うさを感じるのは間違いだろうか?かの国の報道機関もその片棒をかついでいるようだ。
2003年08月18日
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日本の得意技はなにか? 日本がこれから世界の中で生きて行く道はなにか?日本の得意技はなにか? わたしの独断を述べる。コンセプトは「美」である。そしてコンテンツは「美品」「美味」である。これを支える精神(OS)が「職人魂」だ。日本人は本質的に職人である。工芸品はむろん工業製品にも職人の魂が生きている。米国人でさえ雑なアメ車より日本車を選ぶ。「美品」「美味」は、アメリカが逆立ちしても日本にかなわない分野である。彼等に味覚や美意識はない。 アメリカの得意技はシステムである。謀略である。Macintoshから剽窃したパソコンのOSで世界を制覇したビル・ゲイツの戦法は、まさに謀略そのものである。だがソフトもいろいろだ。OSやプログラムもソフトなら、それを使って創造した作品もソフトである。いま世界に通用する「JAPAN」はなにか?漫画だ。アニメだ。ゲームだ。寿司、てんぷらだ。歌舞伎、能狂言だ。これらはすべて作品(芸)である。日本人は作品をつくる民族なのだ。政治は謀略であり、戦争は戦略である。アメリカの独壇場だ。こんな舞台で戦えば必ず敗れるだろう。西部劇では負ける。歌舞伎の舞台に引き込むのだ。 魅力あるコンテンツを世界につなぐインターフェイスが「もてなし」である。客を迎える日本人のきめ細やかなもてなしは、間違いなく世界一である。諸外国に比べるものがない。これは日本に住む外国人が一様に感嘆することだ。商売だけではない。どんな田舎のおばあちゃんにも客人をもてなす心が生きている。遠くから訪れたひとを「まれびと」と呼び、厚くもてなすのは日本の美しい風習である。以上を総括すると、目ざす方向はイタリアと同じだ。日本は東洋のイタリアになるべきである。ひたすら「美」を追求すべきである。それが日本の得意技を生かし、日本人が幸せになり、そして世界のひとびとを魅了する道である。
2003年08月13日
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にっぽんの夏を味わった きょうはじめて夏が来た。梅雨が8月にずれ込み、つづいて台風が襲来した。外に出て全身で思うさま夏を味わった。たまたま「府中商工まつり」の最終日だ。わが家に近い大国魂神社は朝から賑わっている。太鼓の音が響く。わたしも境内の人波に混じった。JCOMの団扇をもらった。いまは情報時代。MOBILE、ADSL、CATV、の広告ばかりだ。 夏祭りに色鮮やかな浴衣と団扇と風船の波。まさに日本(にっぽん)の夏である。いか焼きやたこ焼きの匂いがただよって来る。神社前の信号に立つと真上から陽光と熱気が脳天を焼く。空を仰ぐと忘れていたスカイブルー。けやきの緑の彼方に入道雲らしき白いかたまり。ああ、やっぱり夏はいい。吹き出す汗を団扇であおぎながらそう思った。 けやき並木をぶらついた。伊勢丹のテントがずらりと並ぶ。「けやき広場バザール」と銘打って夏物衣料の大バーゲンだ。「残り少ないですよぉ、これが最後ですよぉ〜」と客をあおる。路上では外人がアクセサリーを売っている。「どこから来たの?」と声をかけたら、イスラエルだという。日本に来て一ヶ月だそうだ。日本語とヘブライ語の会話集を見せる。"How's your business going on?"と聞いたら「まあ、ぼちぼち」と日本語が返ってきた。。 いい香りが流れてきた。お香を焚いている。これは日本の若者。六角形の変わった箱で、インドのお香だという。はやりのインド・フリークかな?こんどはキムチだ。韓国おばさんがしゃがんで商いをしている。サラ金ねえちゃんがティッシュを配る。マックねえちゃん、居酒屋ねえちゃんは割引券だ。おや、マンションねえちゃんも団扇を配ってる。けやきの木漏れ日が美しい。ミンミン蝉が鳴いている。この夏の日に何か足りないものがある。かき氷。風に踊る「氷」の旗と氷を削るシャキシャキ音が懐かしい。
2003年08月10日
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音楽はお好きですか? 音楽はお好きですか?わたしは自分でもよく分からない。学校の音楽の授業はきわめて印象が薄い。わたしは関心がなかったし、先生もわたしに関心がなかった。時々の音楽はわたしの傍を通り過ぎていった。ロカビリーしかり、グループ・サウンズしかり、ビートルズしかりだ。いっときマイルス・デイビスやハービー・ハンコックのLPを買ったが長続きしなかった。もちろんクラシック音楽は「ご遠慮申し上げたい」ほうである。自然に乗れる演奏といえばブラスと打楽器のラテン・リズムである。ペレス・プラード、ザビア・クガートは好きだ。アルフレッド・ハウゼのタンゴはいまでも聴く。 あるとき妻と映画に行った。彼女が言った。「あのシーンの音楽素敵だったわ!」わたしは「エッ?」と思った。シーンは憶えてるが音楽なんて意識になかった。これで分かった。視覚人間と聴覚人間があるんだ。どう見てもわたしは視覚人間だ、と。妻は家事をしながらいつも音楽を聴いていた。自然に身体がリズムをとる。わが家の台所にはいまだにステレオ・スピーカーが残っている。妻の遺産である。 いまも残る音楽体験といえば女性歌手かな? 西田佐知子に始まり、山口百恵、テレサ・テン、中島みゆき、高橋真梨子と続いた。この五人はいまも好きで聴く。歌もいいけどやっぱり声だね。声が心臓に響く。男では石原裕次郎のみ。あるときカラオケで逃げられなくなっていやいや「赤いハンカチ」を唱った。「うまいねぇ」と言われてびっくりした。人前で唱う経験はほとんどなかった。音楽の先生から無視されたくらいだ。音楽の才能は全くないと思ってた。意外な発見だった。聴くことと唱うことは別なのかな?どうもよくわからない。
2003年07月31日
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夏休みは楽しいですか? 子供にとって夏休みは天国である。若い時は頭も心も白紙に近い。なんでも興味津々、なんでも吸収する。それなのに勉強ひとすじでは監獄だ。だから「きょうから夏休み!」とくれば天にも昇る心地だ。スカッと抜けた青空みたいな爽快感である。宿題なんてほったらかし。何をしてもいい。新しい経験ができる。 筆者の時代は貧しかったから、夏といえば海山だった。美しい海がいくらでもあった。透き通った水に潜って夢中で魚を追った。中学生になると山へキャンプに行った。テントを張り、焚き火をし、飯盒でごはんを炊いた。女の子たちと一緒に歌った。すべてがみずみずしい体験だった。大学時代は世の中にも多少ゆとりが出た。もっぱら旅行をした。友達の家に泊めてもらうのが普通だった。わが家にも夏休みに友人が大勢押しかけてきた。五右衛門風呂を珍しがった。 働くおとうさんは全然ちがう。「さあ、きょうからみんな夏休み」とはいかない。まず休みが取れるか心配だ。上司や仲間に気配りしなければならない。いつにしようか?どこに行こうか?こんどは家族と談合だ。予定が決まる前に気疲れしてしまう。昔は大人は大人、子供は子供で別行動だった。たまには子供に留守番させて、おとうさんはおかあさんとイタリア料理でもいかが?ワインを添えてね。 ボランティアにも夏休みがある。学校と同様一斉休みで長さも同じだ。だが天にも昇る心地はしない。暇を持て余す感がある。子供のように新しいことに挑戦したいが、新しいことはあまり残っていない。となると、何か忘れたものを復習するのがいいかもしれない。外国語とか歴史とか料理とか。ひとりですぐ出来るものがいいね。
2003年07月29日
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歴史を知らなかった 地理は好きだったが歴史には興味がなかった。外国の地図を片手に小説を読むような少年だった。だから当然外国に憧れたが、当時はわが家にも日本国にも金がなかったので行けなかった。歴史に触れた転機はヴェネツィアを見てからである。不思議でならなかった。なぜこんな海の上に都市を作ったのか。 塩野七生氏の「海の都の物語」を読んだ。魅せられた。はるか東方からなだれ込んだフン族アッティラの脅威が、ヴェネツィア人を海へ追い落としたことを知った。蛮族の侵入がヨーロッパを恐怖の底に叩き込んだローマ帝国の末期であった。以来千年にわたるヴェネツィアの歴史を、一篇の物語のように胸踊らせて読んだ。それは一国の歴史というより、勇気と知略と冷静沈着さに優れたヴェネツィア一家の物語だった。 歴史は織物の縦糸や横糸のような関係だから興味は自然にひろがった。バチカンは?メディチ家は?オスマン・トルコは?ハプスブルグ家は?やがてヨーロッパの歴史に行きついた。これはまさに血塗られた戦争の歴史である。十字軍いらい時と場所を変えて数百年続いた宗教戦争は血なまぐさい殺戮の歴史だ。 これに比べれば日本の歴史なんて平和なもんだ。肉食獣と草食獣ほどの違いがある。日本の戦さは優劣を決めれば片がついた。自民党総裁選みたいに根回しで味方を増やせば勝ちが決まったのだ。だが肉食獣は皆殺しである。日本国はさきの大戦で有史以来はじめて肉食獣と戦争したのである。どだい日本人は肉食獣と殺し合いをするようには出来ていない。それを教えてくれたのが、彼我の歴史である。
2003年07月21日
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なんでも食べ放題の時代 デフレ時代の流行は食べ放題である。洋食、中華、寿司、焼肉、すき焼き、なんでもある。お菓子の食べ放題まであって、女性を喜ばせ、かつ悩ませているようだ。もともとバイキングと呼ばれていたように北欧料理が元祖である。六本木の芋洗坂の下にスウェーデン・センターがある。そこで学生時代にはじめてスモーガスボードをご馳走になった。学生食堂にはない高級料理の山に目がくらんだ。思う存分食って一週間分の栄養を補給した。 ときどき中華食べ放題ランチに行く。客はさすがに若いひとが多い。麻婆豆腐、えび玉子チリソースなど数種類の料理に、あんかけ焼きそば、スープ、サラダ、漬物などが並んでいる。食べ方にはコツがある。はじめは少しずつ取る。しかるのち気に入ったやつを集中攻撃する。厨房の中も若い女性のバイトである。味を期待するのは無理だろうが、まあそこそこ食える。わかめのスープ、きゅうりの漬物などは割と気に入っている。外食で野菜をたっぷり食えるのはありがたいね。 お値段は男1000円、女900円。これはどう見ても男女差別だね。米国なら即刻訴訟沙汰になるところだ。それにあの国では男か女かよく分からないよ。あえて判別しようとしたら、おそらくセクシュアル・ハラスメントで訴えられるね。おまけに食べたあとが大変である。食べ放題のせいで肥満になったなんて、損害賠償を請求するやつがきっと出てくる。ざっと百億円ばかりね。あの国では何でも他人のせいにするのが流儀らしい。どうやら食べ放題商法は、良識ある社会でしか通用しないようだね。
2003年07月18日
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イタリアとドイツが喧嘩した
サッカーの話ではない。イタリアとドイツが子供の喧嘩をおっぱじめた。イタリアのベルルスコーニ首相がドイツ人を侮辱したのが発端らしい。この人物いろいろと物議をかもすおっさんだ。イタリア財界のドンである。テレビ、通信、映画、金融、不動産にまたがる企業グループの会長だ。セリエAサッカー「ACミラン」のオーナーでもある。マフィアの影なんて噂もちらほらあるようだ。もともと両国の仲は好くない。イタリアーノとドイッチェじゃ気質も水と油だしね。ローマ帝国の末裔から見ればゲルマンなんて野蛮人である。ローマ法王とドイツ皇帝の確執は中世の歴史をつらぬく怨念だった。イタリアが衰退してからはハプスブルグ家の支配を受けた。しかし国力が衰えたあとも、欧州各国ではイタリア留学が流行であった。イタリア帰りというだけで箔がついたらしい。日本の学者のアメリカ帰りみたいなもんかな? ゲーテのイタリア紀行は有名だが、彼もイタリアに憧れたのだ。以来ドイツ人のイタリア志向は根強い。いまも観光客は一番多いだろう。週末のフランクフルト発イタリア便に乗ると、ドイツのキャリア・ウーマン(でかい!)が目立つ。ロッサノ・ブラッツィみたいな伊達男を夢見てるのかも。イタリアにとってはお客さんだ。しかし、でかくて金髪で金持づらのドイツ人が気に食わないと観光相が言ってしまった。頭に来たドイツのシュレーダー首相がイタリア休暇の予定を取り止めたという。ビンタの応酬だ。笑っちゃうね。
2003年07月12日
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イタリアという国のふしぎ イタリアは不思議な国だ。世界でもっとも偉大な歴史を誇っている。ローマ帝国は歴史上最強のスーパー・パワーであった。ルネッサンスは輝かしい芸術を生み出した。いまもカソリックの総本山がある。しかしいまは大国ではない。英仏独の後塵を拝している。だが世界中から人を引き寄せる魅力は、フランスに劣らない。あるいはそれ以上かもしれない。お隣さんみたいに「わが偉大なるフランス!」なんて気張らないところも好ましい。
「ローマの休日」(オードリー・ヘプバーン)、「旅情」(キャサリン・ヘプバーン)などの映画がハリウッドで作られヒットしたのも、アメリカ人のイタリアへの憧れが根底にある。わたしも初めてローマ、フィレンツェ、ヴェネツィアを訪れたとき、圧倒され魅了された。建築、彫刻、絵画に圧倒され、料理、ワイン、ファッションに魅了された。世界中から人を集めて稼ぎ、世界中にデザインを売って稼ぐ。それがイタリアだ。
中世から強力な都市国家が覇を競い、イタリアが統一されたのは意外に遅く1870年である。いまだにイタリア人は、国家意識より地元意識のほうがはるかに強いという。北のミラノと南のナポリの敵対心は熾烈だ。だからサッカーのセリエAがあんなに盛り上がるんだね。田舎町のレッジーナが中村俊輔に狂喜するのもわかる。日本人もちとイタリア流哲学に習いたい。イタリアは職人の国だ。日本も職人の国だった。彼等は人生を楽しんでいる。国民所得が日本より低くたって平気である。男も女も、老いも若きも陽気に暮らしている。「のんびり行こうよ」とスローフード運動なんてものを始めてしまう。イタリアの国旗はトマトの赤、ニンニクの白、オリーブの緑といわれる。「マンジャーレ、カンターレ、アモーレ」(食え、歌え、愛せ)。それがイタリアである。
2003年07月03日
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江戸前イタメシを満喫した
別稿に書いたが、かつて「イタメシ食べ歩き隊」なる会があった。都心の十数箇所のイタリア料理店を食べ歩いた。印象に残った店がいくつかある。なかでも風変わりだったのは、CARMINE EDOCHIANO である。四ッ谷三丁目あたりの路地にある。変哲もないしもた家で看板も地味なので、見つけるのに苦労した。純然たる日本家屋に土足で上がる。玄関の靴脱ぎではさすがに逡巡した。狭い階段を上がり、二階の六畳間に通された。
料理は素晴らしかった。アンティパストで、期待か失望かがわかれる。なかにはひどい前菜を出す店もあった。ビールのつまみ盛り合わせとしか思えないやつもあった。この店の数種の前菜はどれも入念に手がかけられていた。以後の皿を期待させるに充分な味だった。つぎのリングイネもおいしかった。最後は肉料理だったと思うが、これは他の店の記憶とごっちゃになって定かではない。堪能したことは間違いない。店名の EDOCHIANO は店主の造語かと思ったら、なんとイタリア語辞書にちゃんとある。「東京の」を意味する。東京の、では面白くない。ここはやはり「江戸風の」もしくは「江戸前の」といきたい。現に EDOCHIANA は「江戸っ子」と訳されている。江戸前のイタメシなんて愉快じゃないか。このイタリア語は、バチカンから派遣されたイエズス会神父が作ったに違いあるまい。イタメシの話から、はるかに古いイタリアと日本の足跡を発見した。 P.S. 小さな店なので予約を。無休。03-3225-6767
2003年07月03日
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外国での立ち食いグルメ
外国旅行での楽しみのひとつに立ち食いがある。アジアでは屋台が街の主役だから、これは当たり前だ。しかしヨーロッパにも立ち食いの優れものがある。モンマルトルの丘の下に小さなパン屋があった。ショーケースひとつの内職みたいな店だった。だがうまかった。出来たてのミートパイ風の中身が素晴らしく美味だった。目についたらとりあえず試してみる。このやじうま根性がなくちゃ、意外なうまいものにはありつけない。イタリアでは何と言ってもパニーノである。大きなパンの間にチー
ズ、プロシュート、サラーメなど好みの具をはさんでかぶりつく。さまざまな具に目移りしてしまう。高速道路の休憩所でさえ、うまいパニーノを食わせる。大人気なので長い行列に並んで買う。周囲を見るとみんなパニーノとジェラートをぱくついている。最近は日本でも売っているようだが、どうも中身の具が本場と違うように思う。ミラノの有名なアーケード商店街の裏に、評判の揚げパンの店があった。観光の途中昼食につまんだら、あんまりおいしかったので、夕方また買いに行って晩めしにした。陽気な店のおばちゃんが「そうか、そんなにうまいか」と満面笑顔で包んでくれた。とろけるようなチーズの味はほかで食べたことがない。忘れないためパンの袋を持って帰った。LUINIという店だ。この種のパン屋をPANZEROTTIというらしい。
2003年07月02日
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はじめて男子厨房に入る かつて料理は女房まかせだった。ひとりになってさすがに危機感を抱いた。厨房を点検した。文字どおり勝手が分からなかった。鍋釜に食器に調味料、冷蔵庫の中。まず料理入門書を買った。だしの取り方、みそ汁の作り方から始めた。レシピ通りやるから大変である。やけに時間がかかった。臨機応変ということが出来なかった。それでも一年頑張った。このとき身についた最大の収穫は買い物である。男一匹スーパーで買い物するのは画期的体験である。はじめはうろたえたがいまは平気。レジの女性も男ひとりには親切だ。 つぎの一年は外食した。この街の目ぼしい店はほとんど食い歩いた。行きつけの店もいくつか出来た。ひとつは今風定食屋、ひとつは蕎麦屋、それに中華料理店、そしてイタリア料理屋。これらをその日の気分でめぐり歩いた。府中の食い物屋事情に詳しくなった。 また厨房に戻る気になった。だが前とは違った。臨機応変、いい加減にやることを覚えた。塩、砂糖、酒、醤油の使い方が分かってきた。基本は肉じゃがだ。肉じゃがを作りはじめて、ポトフになったりシチューやカレーに化けたりする。それでいいのだ。肉じゃがだけでも和風、中華風、洋風、カレー風味、ピリ辛風と変化する。肉では豚バラ肉がもっとも安くてうまくて用途がひろい。豚バラと白菜の重ね煮を辛子醤油でやると最高。豚生姜焼きはあっという間に出来てうまい。魚の干物も愛用した。また一年料理を続けた。 かくしていまや二度目の外食期に入った。男は浮気なのである。いまは気に入ったひとつの店に通っている。この店がある限り当分厨房に入ることはなさそうである。
2003年07月01日
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欧米の街のたたずまい
前に北京と上海について書いた。ここでは欧米の街にふれてみたい。もちろん好き嫌いは私の独断と偏見であることをお断りする。旅をするとき私の関心は、街と、人と、食い物である。米国の都市は論外である。ロスのホテルでは玄関先までホームレスの大群が押し寄せた。シカゴヒルトンでは、暗くなったら外に出ないでくれと言う。多少ましなのはニューヨークのみ。満足に街を歩けないのでは話にならない。ともあれ、彼等の食い物を見るにつけ、アメリカ人に生まれなかった幸せを感じた。
スイスから南ドイツにかけての町や村は遠目に美しい。見渡すかぎり緑の山肌にピンクや黄色のおもちゃみたいな家が群れている。家々は色とりどりの花で飾られている。だが町中にも人の姿を見かけない。そんな町ばかり見ているうちに、ああ、こんなとこには住めないなあ、と思った。美しい一方の町には住みたいと思わない。
パリのセーヌ河畔の建築群は壮観である。見事な均整と配置を誇っている。「どうだ、おそれいったか」という声が聞こえるようだ。へそ曲がりの私はつぶやいた。しかし何となくテーマパークみたいに見えるね。河畔の恋人たちは政府観光局のまわし者じゃないの?このあたりはまあ一度見ればいい、という気がする。川岸から離れた裏町のほうが面白い。ただし犬猫の糞にはご用心。フィレンツェやヴェネツィアの路地が好きだ。車を一切排除した路地と広場は人間のための空間である。路地の奥のトラットリアや広場に面したカフェを見つけると、相好をくずしてしまう。立ち寄らずにはいられない。ともに美しい街だが、パリはつきはなし、ヴェネツィアはつつみ込む。猥雑な街並に、陽気な人々があふれ、おいしい料理屋がある。それがわたしの理想のようだ。
2003年06月25日
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団体旅行の困ったさん かつての海外旅行を思い出すとき、良くも悪くも印象が強いのは、困ったさんである。時間を守らない。行方不明になる。買物に狂う。どうも一人旅のかたに問題が多いように感じる。常識はずれの行動に仰天することもある。ドイツに行ったとき変なおばさんがいた。片っ端から物を買うのである。ブランド品ではない。ちゃちなお面とか人形とかぬいぐるみなどだ。巨大な熊のぬいぐるみを抱えて歩く。バスの二席を占領して、大きな紙袋の間に埋まっている。ホームレスさんみたいだ。万事飲み込みが悪く動作がのろいぐずおじさんも困る。つねに集団から遅れる。迷子にならぬかと心配だ。はたまた、のべつまくなしに「トイレは?トイレ!」と叫ぶトイレおじさん。トイレくらい自分で探しなさいよ、ったくもう・・。周囲はいらいらして旅を満喫できない。 なかには愉快な困ったさんもいる。イタリア旅行のときおばさんペアがいた。ふたりとも呑ん兵衛である。おしゃべりである。店さえあれば白ワインのボトルをあけて居座る。並の量ではない。しかし楽しい酒である。なぜふたりで?と聞いたら「亭主なんか面倒くさくって。女同志がいちばん!」と異口同音に答えた。面白いのでいろいろ話したが、東京下町のおかみさんで、日頃から親友だとわかった。イタリア青年のガイドが終始同行した。二、三年日本で暮らしたという彼は、イタリア人にはまれなシャイな青年だった。日本のおばさん二人組にてもなくからかわれてポッと頬を染めた。
2003年06月19日
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こよなく酒を愛す 酒が好きである。いよいよ生ビールの季節だ。でもビールはたくさんは飲めない。腹がふくれて食えなくなる。ところが、ビール一本やりのひともいるんだよね。最初から最後までビール。十分毎にトイレへ行く。よほど通りがいいんだね。この手のかたは瓶ビールを偏愛するようだ。銘柄にもこだわる。日本酒は若い頃は飲めなかった。飲むと悪酔いした。いまは平気だが、過ごすと夜半に眼ざめる。喉がカラカラ。冷たい水が酒よりうまい。 いまは焼酎流行りである。和洋中華どんな店にも焼酎がある。安さと清涼感が受けているらしい。ただし、旨いという気はしない。旨いと思ったのは韓国で呑んだ安東焼酎(あんどんしょうちゅう)と、沖縄の泡盛である。那覇の国際通りに泡盛専門店がある。その地下の泡盛酒場で古酒(くーすー)を呑んだ。大きなかめがずらりと壁際に並んでいる。そこから柄杓で酌む。一合取って半分呑んだらフワーッとしてきた。あの酔い心地は仙人になった気分である。古酒も十五年以上になると絶品だが、お値段も張るようだ。 なにより好きなのは赤ワインである。二十年あまり愛好している。高級なものは手が出ない。そこそこのワインで充分だ。フランス物は高いので、おもにイタリア物をねらう。伊勢丹のワイン売り場でちょくちょく試飲する。うまく持ちかけて何種類も試す。味わって寸評するが、高いのは買わない。ラクリマ・クリスティという銘柄がある。「キリストの涙」という名前には古い由来がある。深い薔薇色が神秘的だ。渋味が好みに合う。高くはない。ワインほど味も香りも多彩な酒は珍しい。自分なりの掘り出し物を見つける楽しみがある。
2003年06月16日
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言葉を教えるということ 外国人に日本語を教えるようになって、初めて知ったことがある。自国語(わたしなら日本語)の文法は、脳の無意識の領域に隠れているそうだ。だから何も考えなくても、無意識に正しい日本語を話せる。ところが外国語を学ぶのは意識の分野である。意識で言葉のルールを理解しなければならない。だから外国人が日本語を話すのは難しいし、日本人が英語を話すのも難しいのだ。 そして日本語でも、教えるとなると、話すのとはまったく別物だ。日本語の法則を無意識の底から、意識の明るみに引っぱり出さなければならない。つまり、日本語の文法を勉強し直さなければならないのだ。そうしないと、外国人の「why?」「なぜ?」という質問に答えられない。 おまけに今の文法は昔と違う。用語も違うのだ。「い形容詞」「な形容詞」って何のことだかわかる?「美しい」は「い形容詞」で、「きれいな」は「な形容詞」なんだ。「辞書形」「て形」なんて用語も出てくる。「行く」「来る」が「辞書形」で、「行って」「来て」を「て形」という。これにはまいったね。
2003年06月14日
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定年後の人生をどうする 久し振りに昔の職場の仲間と会った。ビールで乾杯し、ひとしきり先輩後輩の消息などを語り合った。やがて話題は定年後の人生ということになった。彼等もそんな時期である。ひとりは実務経験を生かして、職業訓練校でホテル業の講師をしていると聞いた。これはいままでの道を歩ける幸せな例である。みんながみんなこうはいかない。また、定年を機会にまったく違うことをやってみたい、と考えるひともいる。
他のひとりは雇用保険を受けながら、職業訓練校で学んでいるという。庭師(いまは造園技能士というらしい)を目指している。経歴とはまったく関係がない。たまたま募集の案内を見てその気になったと話した。一年勉強してから実務につくようだ。やがてひとりで地道に開業したいという。ある先輩の話も出た。かれは定年前に会社をやめて、麻雀店の主人になったそうだ。これもひょんなきっかけらしい。ある日行きつけの雀荘に行ったら、主人が店をやめるというので、じゃおれが引き受けると答えたそうだ。たまたまとか、ひょんなきっかけ、というやつが案外方向を決めることがある。私もボランティアを始めたのはたまたまであった。ある日市役所へ住民票をとりに行った。待っている間になにげなく市の広報誌を見たら、ボランティア日本語教室という活字が注意を引いた。何かが琴線にふれた。すぐに受付で聞いて、その足で教室を訪ねた。たまたま学習の日だったので、見学させてもらった。即日ボランティア登録をして、翌々日から日本語を教えることになった。想像もしていなかったことだ。それから三年になる。
2003年06月12日
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携帯電話はいらない 携帯電話は初期に三ヶ月使って止めた。たいして使い道がないのである。追いかけられるのはいやなので、ごく親しいひとにしか番号を教えなかった。便利だったのは、ホテルやレストランや酒場の番号を記憶させて、どこからでもすぐかけられること。ただそれだけである。いまでは、みんな仕事で携帯を持たされているようだ。気の毒だと思う。 携帯電話はいまやペットのようになっている。街でも電車でも、携帯電話とたわむれている人が多い。街頭で腕を伸ばして自分の顔を撮影しているひともいる。あまり見ていいものではない。若者も携帯で話したり、メールしたり、映像を送ったり、のデジタル友情に夢中のようだ。いまに、直接会ったのではつまらない、携帯の楽しみがないから。なんてことになるかもしれない。 本当は携帯電話が一番必要なのは、病気やひとり暮らしのお年寄りやその家族ではなかろうか。それにしては、いまの携帯電話は難しすぎるのではないか。こんな話を聞いた。携帯を使っているおばさんのほとんどは、家に娘がいるという。娘が最初の準備調整をしてくれなければ、とても使いこなせないそうだ。これではお年寄りにはとうてい無理だ。もっともっと簡単にして、そのかわり、ここぞという危機に役立つような電話を作ってもらいたい。
2003年06月10日
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路地裏のうどん屋がよかった 府中に住み始めたころ、駅前は路地が縦横に入り組んでいた。毎朝路地を抜けて駅へ急いだ。買い物ともなれば、路地から路地へと渡り歩くおもむきだった。どこに何があるのか、憶えるだけでも容易でなかった。 当時、ひときわ細い路地の一角に小体なうどん屋があった。初回から気に入ってしまった。澄んだつゆの味が好みだった。関西風の味に馴染んだ私の舌は、醤油色のつゆは受けつけない。ねぎ、しいたけ、かまぼこ、牛肉、などの具もよく吟味されて、上品なうまさに仕上がっていた。働き盛りの亭主と女房、それに手伝いの娘でやっていた。それ以来ひいきにしてよく通った。毎回違った品を試みたが、なかでもとろろ昆布の入ったうどんがうまかった。 ある日唐突に、閉店のお知らせが出た。結構流行っていたので、つぶれたとは思えない。どんな事情があったのか。しばらくすると噂が聞こえてきた。亭主が自動車事故で亡くなったらしい。驚いた。とても気に入っていた店だったので、実に残念だった。
2003年06月06日
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府中は住みよい街です 府中に住んで二十年になる。かつて一箇所に七年以上住んだことがない。住みよいから自然に長くなった感じである。とりわけ引退してひとり暮らしのいまは、府中に暮らしていてよかったとつくづく思う。人のお役に立てるボランティアの仕事があったのも幸いだった。ここではお年寄りと幼児が伸び伸びしている。街頭のベンチではいつもお年寄りが集まっておしゃべりしている。子供を育てやすいのか、赤ちゃん連れの若いお母さんがとても多い。ひとびとはゆったりのんびり歩いている。せかせか急ぐのは朝の通勤者のみだ。 府中市は財政が豊かだと言われている。東芝府中、NEC、サントリーなどの工場があり、競馬場、競艇場もある。主な街路はすべて歩道のある並木道である。楽しく散歩できるのは嬉しい。府中の森公園、郷土の森公園など大きな公園があって、大人も子供もリラックスできる。生涯学習センター、美術館、芸術劇場、市民聖苑など市民のための施設は大変立派だ。いっぽう市役所は質素である。これがいいと思う。 市役所ばかり豪華な町が多いなかで、この姿勢は賞賛されていい。これはたぶん府中が古い町だからだと思う。位置的には東京のベッドタウンだが、けっして新興都市ではない。千年の歴史がある。祭りの組織につながる町内会が生きている。市政に対する市民の監視が有効に働いているのだろう。この街に住む外国人たちもみな、府中はとてもいいところだと言う。
2003年06月03日
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大学とボランティアの交流 私たちのボランティア日本語教室では、東京外国語大学と交流している。以前から府中市内に、同大学の留学生日本語教育センターがあった。ここは日本のいろいろな大学に留学する前に、一年間日本語を集中特訓するところだ。寮制で、朝から晩まで日本語を勉強するらしい。みんな一生懸命だ。国費留学生が多いので、実に多彩な人種と国々の学生たちがいる。モロッコ、ルーマニア、モンゴルなどからも来ている。先生以外の日本人と話す機会が少ないということで、私たちが話し相手に選ばれた。 そして最近、大学そのものが府中市内に移転してきた。もと米軍の住宅だった旧関東村の跡地である。大学院には日本語教育専修コースがある。これは日本人を含むさまざまな国の学生が、日本語教師をめざす特別コースである。未来の日本語教師たちが、われわれの教室で日本語指導の実習をすることになった。いっぽうに日本語を学ぶ学生たちがいて、他方に日本語を教えることを学ぶ学生たちがいる。真剣な若者たちを見るのは嬉しいし、頼もしい。
2003年05月30日
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北京料理店にはまった 半年ばかり前に開店した中華料理の店がある。最初は連日のように通った。ちょっと珍しかったからだ。北京から来日している中国人だけでやっているので、メニューがひと味違う。それに安い。売り物は鉄鍋餃子だ。熱々の鉄板に乗せて出てくる。鶏のカリカリ揚げ(中国式名前は忘れた)がうまい。とくに皮のところが美味だ。これで紹興酒をやるといい。また、ほかの店ではあまり見ないものに土鍋ごはんがある。中華丼や麻婆丼のようなものを、大きな土鍋に入れて熱々に焼き上げたものだ。石焼きビビンパの中華版みたいな感じかな。鍋肌のごはんがちょっぴり焦げているのが嬉しい。麻婆土鍋なら、辛いのと熱いのとでウハウハ云ってしまう。 店の中は中国語が飛び交っている。主人も女房も料理人も日本語はうまくない。高校生の可愛い娘がいる。日本の学校に通っているようだ。セーラー服で帰って来るとすぐに店を手伝う。この娘は完璧なバイリンガルである。きれいな日本語で客に応対し、早口の中国語で 注文を告げる。見ていて、いいなぁ〜と思う。 この娘から聞いた。中国でも南の人は餃子を食べないという。中国は広いので地方によって食材も料理もずいぶん異なるようだ。そう言えば、日本中に餃子をひろめたのは、戦後旧満州から帰って来たひとたちらしい。娘はこんなことも言った。上海の言葉はよくわからない、と。北京語と上海語は、どうやらわが国の標準語と大阪弁のような関係らしいね。
2003年05月28日
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ボランティア冥利につきる 日本語を教え始めたころは、まったくの初心者は苦手だった。どう対したらよいのか困惑した。タイから来た十二才の女の子に当たった。日本語も英語も理解しない。身ぶり手ぶりしかなかった。指をさして「わたし」「あなた」の発音から始めた。わたし、あなた、のあとに生徒の名前と私の名前を続けると理解した。つぎに絵カードを見せて動物や果物の名を教えた。それ以来ときどき担当したが、見る見る上達するのが分かった。さすがに子供は早い。数カ月が過ぎて、彼女は日本の小学校に入学した。いまでは友達もできて、日常会話をどんどん吸収しているだろう。「まじ?」とか「やっぱ〜」とか言ってるかも知れない。 ボランティア仲間にこんな経験をしたひとがいる。彼も東南アジアの子供を教えた。普通の生徒はだいたい自国語でメモをとる。その子はまったく筆記しないので、やる気がないのかと思ったそうだ。やがて判明した。その子は字が書けなかったのだ。先生はその子にひらがなを教えた。師弟の努力が実って、ひらがなを読み書きできるようになったとき、その先生は感動したという。外国の子供が生まれて初めて書いた文字が、日本のひらがなだったのだ。こんな感動を得られることこそ、まさにボランティア冥利と言えるだろう。
2003年05月25日
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おかしなネットのつきあい ホームページをつくったのは今回はじめてだが、ネットに親しんでからは長い。いろいろなつきあいがあった。写真を始めたのもネットが縁である。ある写真サイトの掲示板に「カメラを買いたいが、どんなのがいいだろう?」と書いたら、日本中の先輩からアドバイスが寄せられた。結局Canonの全自動カメラを買った。以来掲示板やメールでの交流が広がった。撮った写真をあちこちのサイトに載せていただいた。批評もいただいた。なかにハワイのサイトもあった。諸先輩の感化を受けて、やがて中古カメラにはまった。 ハワイ・フリークとの交友もあった。オフ会と称して月一回集まった。二子玉川の妙な酒場である。若い男女が多く、本気でハワイ移住をめざす連中だった。各々が「ハワイ大好きサイト」をつくって、掲示板で情報交換をしていた。いまごろどうしているだろう。首尾よくハワイに移住できたかな? そうそう、「イタメシ食べ歩き隊」というのもあった。これは圧倒的に若い女性が多く、しかも美人ぞろいで楽しかった。毎月異なるイタリア料理店でランチを試食した。主に青山、六本木界隈である。一年以上続いたので、つごう十数箇所のイタメシを食ったことになる。 イタリア国旗の色に「イタメシ食べ歩き隊」と麗々しく記したカードまでつくった。みな忙しくなって自然に解散したが、また顔合わせしたいものだ。
2003年05月25日
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北京の友人は親切だった
北京に友人ができた。ボランティアのおかげである。彼は一昨年日本に一年ほど滞在した。ぼくが三ヶ月ばかり日本語を教えた。同じ生徒を続けて教えるのは難しいのだが、この時はめぐり合わせが好かった。民法や商法の研究をしていると聞いていたが、名刺をもらって驚いた。北京清華大学副教授とある。三十そこそこの若さである。小柄で坊やみたいな顔をしているので、そんな偉い人とは思わなかった。彼が帰国してからも電子メールをやりとりしていたが、ぜひ北京へ来てくださいとお誘いを受けた。北京は初めてだったが、格安航空券と一泊のホテルだけ決めて出かけた。翌朝、彼は親切にもホテルへ訪ねて来てくれ、さっそく便利で安いホテルを探してくれた。故宮のすぐそばなのに一泊3500円くらい。その夜は北京ダックを御馳走になった。本場の美味と老酒を満喫した。山のようにダックが出て来てとても全部は食べ切れず、お土産に包んでもらった。それでもお勘定は信じられないほど安かった。
一番貴重な体験は清華大学のゲストハウス「近春園」に二泊したことだ。しかも最高の部屋だったが一泊4000円だった。キャンパスの隅々まで案内していただいた。その広大さに驚いたが、学生も教職員もすべてキャンパス内で生活していると聞いて納得した。学生食堂が二十箇所もある。ほかに教員食堂、賓客食堂もいくつかある。点心食堂や大きなスーパー
もあった。清華園という立派な庭園がある。大学の名前はこれに由来するらしい。川沿いに柳並木があり、あちこちに池がある。朝散歩にでると、池のほとりのテラスで大勢の男女が優雅に社交ダンスを踊っていた。みな年輩のひとびとである。
中国人向けのバスツアーに参加したのも面白い経験だった。友人と奥さんと小学生の息子さんも一緒だった。マイクロバスで20人くらいの団体だ。万里の長城と明の十三陵などをめぐる一日ツアーである。昼食つきで1500円くらい。ガイド嬢が途中から乗り込んでくるのが面白いと思った。私が日本人だと分かると、乗客がみんな寄ってきた。言葉は通じないが親愛の情を示してくれた。友人のおかげで、安くておいしくて、希有な旅ができた。深く感謝している。
2003年05月24日
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川柳酒場がなつかしい 府中に来て間もないころ、ある酒場を見つけた。盛り場からちょっと離れているので、振りの客は少なかった。「はじめてのお客さんなんて珍しいわ」と女将が言った。私のような新住民はまれで、地場の商店主などが常連だった。何度か通った時、面白い場面に出くわした。店の奥にささやかな小上がりがある。そこで数人の客が川柳の集まりをやっていた。女将もカウンターの中から参加している。誘われて一句(というのかな?)ひねったら褒められた。以来、川柳会の一員になった。
酒場の片隅で川柳会をやっているなんて、なんとも風流なことである。ちょっと時代離れしているかも。府中にはそんなところがある。各自ひとつの川柳を詠み、みんなで批評するわけだ。あるとき「出す」という御題が出た。私はこう詠んだ。『出るところ、出してボディコン、風を切り』。 ボディコン全盛のころだった。見事な胸を突き出し、さっそうと風を切って歩く若い女性をイメージした。われながら悪くはない出来だと思った。 批評の場になった。私の句が音読された。みんな一斉に言った。「ボディコンって何ですかぁ〜?」私はあっけにとられた。「府中は田舎だからねぇ〜」と女将が言っていたのを思い出した。その女将もすでに引退した。川柳会はもうない。
2003年05月22日
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よく奥多摩ドライブに行った ひところ、休日になるとドライブに出かけた。妻が一緒だった。定番は奥多摩方面である。はじめは奥多摩街道を行く。途中で多摩川を渡って五日市街道に向かうこともある。まっすぐ走って青梅で吉野街道に入ることもあった。いずれも最後は奥多摩湖にいたる。 新緑の中、うねる山道に車を駆るのはなんとも爽快である。流れる風が快い。どちらの道にも必ず立ち寄る店があった。お気に入りの隠れ家である。吉野は梅の名所だ。吉野梅郷や吉川英治記念館のあたりに、一軒の蕎麦屋がある。百姓家の表に水車が回っている。おばあちゃんたちがいそいそと働いていた。いつも「天ざる」か「麦とろめし」を頼んだ。満腹のあげく、小上がりの畳で座布団を枕にうつらうつらすると、この上ない心地よさだった。 一方、秋川渓谷を過ぎて街道をそれると、山合いにひなびた村がある。意外にも、そこに洒落た珈琲店がある。民家の門をくぐると、庭の片隅に白木造りの瀟洒な離れがあった。丸太の分厚い卓が部屋を横切っている。壁の飾り棚から好みの器を選ぶと、それで珈琲を飲ませる。版画や陶芸を嗜む髯面の主人と奥さんがやっていた。ときおり可愛い娘が顔を出した。数匹の三毛猫が庭で日向ぼっこをしていた。時が止まったような空間だった。妻が逝ってから訪れることもなくなった。
2003年05月22日
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大きな字の地図で東京散歩 『大きな字の地図で歩こう/東京』というハンディーな地図が、私のお気に入りである。本屋の店先でこれを見つけて「あっ、これだ!」と大感激。すぐさま手に入れた。弱って来た目に、地図の小さな文字はちょっと辛い。この地図は眼に優しい大きな文字と、歴史を折り込んだ編集が嬉しい。色鮮やかな印刷も散歩気分を刺激する。ぱらぱらとめくると「大崎ニューシティ」の次になんと「旧東海道品川宿」が出て来る面白さ。由緒ある坂道の名を随所に発見する。東京の地名のうち、坂と橋の名前のみが江戸の昔のままだ。三年坂、行人坂、淡路坂など、字面と響きに懐かしい香りが漂う。 気が向くとこの地図をポケットに、カメラを肩にふらりと出かける。足は自然に喧噪を離れ、落ち着いた街並みへと向かう。気まま歩きのあげく、気がつくと浅草の「神谷バー」で相席のひとと「デンキブラン」で乾杯、なんてことも・・・。 少年時代から地図を眺めては知らない街を空想した。バルザックを読むときはパリの地図、シャーロック・ホームズならロンドンの地図と首っ引きだった。おかげでパリ、ローマ、ニューヨーク、どこであれ、地図一枚あれば自在に歩き回れる特技を得た。そんな私がただ一度だけ地図を放り出した街がある。ヴェネツィア・・・海に漂う運河と橋と迷路の街だ。あんな不思議なわくわくする街並みを他に知らない。この先には何があるのか、期待と興奮がふくらむ。進んで迷路に溺れる陶酔のあまり、とうとう地図を放り出してしまった。またいつか、ぜひ訪れたい街のひとつだ。
2003年05月20日
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外国人と江ノ島珍道中 私が所属するボランティア団体では、毎年近場へバス旅行に行く。府中市が運転手つきで大型バスを提供してくれる。外国人も弁当持参で気軽に参加する。去年は甲府に行って、武田信玄の菩提寺などを訪れた。今年は江ノ島である。参加希望が殺到し52名の大所帯になった。あいにくの雨は波瀾の幕開けで、江ノ島詣では意外性に満ちた珍道中となった。まずはトイレ休憩。目当ての公園にはトイレがなかった。あわてて町田市役所に電話してトイレを借りる。心置きなく用をたして、「さあ、これから」と思ったら、交通渋滞だ。避けようとしたら道を間違えた。「うわっ!」「しまった!」という運転手さんの叫びに、みんな爆笑。 そんなこんなで江ノ島に着いたのは正午。ただちに山へ登って昼食だ。参道の商店には目もくれずひたすら階段を登る。結構しんどい。やっとこ食堂にたどりつく。やれやれ!と弁当を広げたら、「持ち込みは駄目だ」と言う。参拝客を迎える店にしてこの態度。けしからん店である。「どうぞ、どうぞ、雨でたいへんですね」とでも言えば「申し訳ないから何かとりましょう」となるのだ。それが日本人の思いやりである。儲け主義が神さまの島まで汚している。軒先きを借りて雨を気づかいながらの昼食であった。 午後は分かれて行動した。約三十名が洞窟探検、約二十名が周辺散策、約二名が屋内休憩である。洞窟派の感想は「よかった」という人も「いまいち」という人もあった。散策派は神社を見学してから、土産物屋をのぞいた。休憩派はさざえの壷やきに引かれて某磯料理店に落ち着いたもよう。集合時刻になると、思い思いに、はまぐり、ちくわ、干物、などの手土産とともに現れた。雨や交通渋滞のおかげで、車中の会話が盛り上がったのは望外の成果だった。日頃はおとなしい外国人が、意外に話せることが分かったり、漫談で爆笑をさそうボランティアもいて、教室ではできない貴重な交流だった。
2003年05月19日 |
韓国の結婚式は手作りだ 昨年春、韓国の結婚式に列席した。ボランティアをしている日本語教室で教えた男女が結婚したのだ。ぜひにと招待されて釜山を訪れた。韓国の婚礼は興味深いものだった。会場は釜山中央郵便局の大ホール。受付なんてものはない。日本と異なり招待者だけでなく、だれでも「来る者は拒まず」という鷹揚な習慣らしい。300人を超える参列者がつめかけた。会場には椅子がビッシリ並んでいる。全部前を向いている。新婦は純白のドレス、新郎は黒の礼服で登場した。キリスト教の流儀だ。指輪の交換やウェディングケーキは日本と同じだが、式の最後の締めがちがう。牧師さん(のような人)が長々と人生の訓辞みたいな話(らしい)をする。30分くらいも続いたろうか。
大ホールの式が終わると一般参列者はただちに散会する。つまり飲み食いは一切なしなんだ。両家の親族だけが別室に移って伝統的な儀式を行う。許されて参観した。両家の親族が向き合って一同は床に車座に座る。新郎新婦は鮮やかな青と真紅の民族衣装に変わる。珍しいので写真をたくさん撮った。儀式の終わりに、新郎が新婦を背におぶって卓の周囲をまわる。この場の雰囲気はやはり儒教のお国柄を反映している。日本みたいに若者が主役ではない。あくまで大人たちが「新人」を仲間に入れてやるという姿勢である。厳粛な儀式である。
披露宴がまた面白かった。街中の料理屋(ないし居酒屋)を借り切って飲食する。それも三箇所に分れてだからビックリ。新郎の親族、新婦の親族、友人達の三グループ。新郎新婦は三箇所をまわりもちだから忙しいことこの上ない。韓国の若い男女と焼酎の飲み比べになった。傍に置いてある大きな瓶から酌む白いどぶろくみたいな酒や、安東焼酎という強くてうまい酒を呑んだ。片言の韓国語や日本語が飛び交った。それでもけっこう話は通じるものだ。酔うほどに韓国や日本の歌がとび出した。酒宴は夜九時すぎまで続いた。印象に残った手づくり結婚式だった。日本のように商業主義の弊がなく、清々しい感銘を受けた。
2003年05月10日
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府中のけやき並木毎日けやき並木をぶらぶらする。用事のあるときも、ないときも・・・。朝、昼、晩、また季節によって、さまざまなひとびとを見かける。朝は勤め人の群れが足早に過ぎる。暖かい日溜まりのベンチには赤ちゃんと若い母親。幼子がきゃっきゃと笑って鳩を追う。見守るじいちゃん、ばあちゃん。午後の主役は両手に買い物袋の主婦たちだ。日が暮れるとお年寄りが夕涼み。下手くそな歌を披露する若者たち、しゃがんで群がる茶髪の娘たち。日曜日のおっちゃんたちは競馬新聞と首っ引き。祭りともなれば屋台が並び、お囃子と歓声であふれる並木道。 あるときふと気がついた。けやき並木は「広場」なんだ・・・と。広場が生活にゆとりや潤いを与えている。イタリアの都市の楽しさは広場にある。ローマのナヴォーナ広場、シエナのカンポ広場・・・。そして「パッセジャータ」という言葉がある。散歩と訳すが、意味はもっと深いようだ。快い夕暮れ、老若男女はおめかしして広場に繰り出す。ゆったり練り歩きつつ、ひとびとを観察し、自分を見せる。同じところを行ったり来たり。立ち止まっては延々とおしゃべり。時にはカフェやバールで軽く一杯。まさに一日の終わりを仕上げる大切な行事なのだ。広場は生活に華を添える都市の舞台。日本の都市に広場は少ない。千年の歴史が府中に広場を残した。貴重な財産だ。
2003年05月
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