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御聖体は売れるお菓子ではありません
あるパリ宣教会の司祭の発言(リンク)
無視され馬鹿にされる典礼法規・教会法 典礼法規・教会法メモ 2 それぞれの司教は自らの判断と責任において管轄司教区内で、手に受ける聖体拝領の仕方の導入を許可することができる。但し、信徒を驚かせるようなこと、聖体の尊崇の念を失わせるおそれのあることは避けねばならない。 ちなみにラテン典礼の原文は と書いてあります。 |
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| 個人的な信仰の考え方ですがミサは茶道でもありません、三位一体(父と子と聖霊)である全ての創造主である御父の神の子主イエスキリスト自身は(ルカ22.19-20)”これは、...私の体..。この杯は...私の血...”、聖書に手による聖体拝領を正当化する証拠が何一つ無く(最後の晩餐での聖体拝領も舌に受けられていたと思うことも出来ます)、逆に聖書に口による聖体拝領を正当化する箇所は殆どです:手による聖体拝領を正当化する箇所は聖書に誰かが見つけた人がいるでしょうか?歴史を証拠に取っても教皇様(ペドロは誘惑に打ち勝つ為の恵みである聖体拝領とイエス様の予言を受けて間も無く三回裏切った)を含めて。
古代の、あるいは、更に近世の美術作品や絵画は、イエズスが使徒たちの「口」に御聖体を授けているところや、マリアが聖ヨハネの前に跪いて、やはり、「口」に御聖体を受けているところを表していますが、これらは、この最初の使徒的伝統に発想と影響を受けているものです。 カトリック教会の信仰の教義によると、この時にキリストは(十字架のような)象徴的な言葉ではなくて本当にホスティアとワインはミサによる”奇跡的な変換”によってこれらはもうはやホスティアとワインではなく、復活なっさった創造主である三位一体、神の子キリスト自身です、ですからそれなりの覚悟(気持ちの問題でもない)と条件(大罪の状態ではなく、初聖体を受けたこと)で聖体拝領をしなければなりません。そうでなければ大罪になります。教皇ヨハネパウロ二世の言うことを読めばわかる事ですー>ECCLESIA DE EUCHARISTIA 、そうして教皇庁秘蹟聖省がその具体的な実践とした出された指針”Redemptionis Sacramentum”を読めば、どれ程現在の日本カトリック教会の進歩的な司祭達は勝手にミサを濫用しているかがわかります。 私は教会のミサを見ると、ほとんどの信者さんは聖座のこの言葉「教会の望みは手ではなく、口で受けることである」を気にしないで手で聖体を受けていまして、殆どの場合聖体の粒子が手に付着してから捨てられるか、舐められるかのどちらかになります、煩わしいです、神父の負担を軽くするだけです!。これはファチマの第三の秘密の未公開部分に書いてあることです:”ポルトガルに何時も信仰の教義は保たれるでしょうなどなど...”。最近聖人に列聖されたピオ神父さえも口で聖体拝領を受けていました。御聖体に対して、命に対しての冒涜は増えてきているとしか私には思えません。もちろんそれなりの十分な教育と準備があれば聖体配慮は手でも出来ますが、謙虚な気持ちを持って成るべく口で、大罪があれば告解の秘蹟で罪を悔い改めて許しの恵みを受けてから出なければなりません:御聖体は勝手に受けられるお菓子ではないのです。
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マザー・テレサ(1910-1997)ノーベル平和賞受賞者、2003年10月19日にローマにて列福される予定です、ロザリオを祈っていました!!