自分について。知る人ぞ知る。あたりまえか。数学者志望。「こうしろう」というらしい。複雑系に興味があるが、なかなか…。田舎にいるときはよく川へ釣りに行く。楽しい、楽しい。ばぁちゃんちは庭が広くて緑がいっぱいあって、しあわせいっぱい夢いっぱい。年取ったらそこで暮らす予定。まったり老後計画。しかし、今も十分まったりしている。そう、待ったりしている。よい文章を書きたいと思っていてもそうはかけない。それにそもそもよい文章とは何だ?とつっこまれた。しょうがないので自分で読み返して、自分で評価するしかない。でもすぐに他人の文章に感化されて真似てしまったりしてしまうので、ちっとも進んでいないような感じがする。だったら定評のある(定評とは何だ?)物書きの文章をたくさん読めばいい。ただ、頭でわかっていることと実行することとが違うというだけのようだ。それは誰だって何だって同じこと。言葉の音(おん)は好きだからそれを活かした文章が書きたい。テンポのよい文章、尤も日本語は五七五で書けばかなりテンポがよくなるが、それでは何かの表題みたいで逆に安っぽくなってしまう。難々。

2000/11/13


他人の意見とはなんなのだろうか。自分の考えを否定されることはどういうことなのだろう。別に嫌じゃないけど、自分の考えが否定されるということは自分そのものも否定されてるような感じがするときがある。しかしながら、他人の意見を聞いて思うのは自分の考えがいかに主観的過ぎて、偏った考えである事を気づかせる。それがいけないというわけでもないかもしれないけど、自分としては客観的に見ているつもりなので何かとひびく。もっと考えた結果を明確に知るようにしないといけないと思うた。なんとなくこんな感じ、ではなくて、はっきり言葉として表せるようにしたほうがいいと思うた。でもそんなになんでもかんでも言葉で表せるものなのだろうか?何か媒体を用いればどんなことでも別なはっきりとした形に表せるかもしれないが、どうも納得いかん。ぜんぶできないというわけではないと思うけど、表せないものも多分にあるはず。そこで、『なぜ自分はこの漫画家が好きなのだろうか?』『その人に何を期待しているのだろうか?』 面白く感じるのはいままで考えたことのないようなものだから。つまり目新しさ。あるいは、よくわからないから。個人的にはこちらのほうが強い。よくわからないものは理解不能とか意味不明とかそういうものと似ていることは似ているけど、それらよりも「難しい」という意味でよくわからないものが面白く感じる。考えさせられるものは面白いと感じる。確かに『その人らしさ』を求めている時はあるし、それを求めてその漫画家のマンガを読むのだけれども、それはつまり『その人独自の考え方』を求めているのである。その『その人らしい、その人の考え方』が自分がその漫画家に期待している物ではないだろうか。やはりこれでも『語ったことにはならない』のだろうか。だがそもそも『語る』とはどういう意味で『語る』のだ?ある物を語るためにはある物の何が必要なのだ?どういう状態が『語る』ことになるのだ?何をどういえば『語る』と言えるのだ?我々は完全に理解することなどはできないはず。そして、常に我々は発展途上であるはず。それでも『語る』ということは、では何を『語って』いるというのだろうか。自分は士郎正宗に士郎正宗らしさを求めている。確かにそれでは士郎正宗の何についても『語った』ことにはならないが、自分の中には確実に何か『士郎正宗のここがよい』と感じている所がある。だったらそれを何かで表してやればいい。それが『語る』ことなのか??(つづく)

2000/12/15


「死ぬ」とは何なのだろうか。いままで友人の父、祖父という「死」を経験してきたが、今一つ実感はしていなかった。何なのかよくわからん。友人の父の死はともかく、祖父の死についてもそれが一体我々に何をもたらしているのかよくわからない。ただ単にいなくなっただけ、と言う気もしている。しかし、それは自分にとっては遠い存在だからだろう。たとえ距離的に近くにいたとしても交際がなければその人は遠い存在になってしまうだろう。誰かが死んでそれが自分にとってはその人が居なくなっただけにしか思えないのは自分とその人との関係が希薄だったことの証なのだろう。なんだか「異邦人」のムルソーのような気持ちだ。「人が死んだからと言って悲しまなければならないわけでは無い」また日を置いて考えてみる。

2001/1/3


恋愛は自分ひとりでするものではないと思う。二人で恋愛なのだ、と思う。しかしながら、世間の恋愛を見ていると、どうもそうではなくて片方がもう一方にぶら下がっているような感じがする。もっとも片方が一方に依存していなかったり、二人とも相手に依存していなければ恋愛が成り立つとは思えないが。でも、もしかしたらそういうプラトニックな関係もあるかもしれないし、それでも成り立つかもしれない。時々ではあるがしばしば、信じられないくらいうまくいっているところもあったりしてまったく理解できなかったりする。そこで、もし片方が相手に飽きてしまったとする。しかし、そいつは律儀だから責任感のようなものを感じて、分かれるのは相手に悪いと思って我慢して付き合っているとする。もちろん相方は相手のことが好きなのだ。これは恋愛か?傍から見るとぶら下がっているような関係に見えると思う。世間ではそういうのが多いから恋愛と言えるかもしれない。まあ、言いたい事は「責任を感じて分かれない」というのはよくないのではないか、と考えるのである。そんなことを言ったら結婚はどうなる!と反発すると思うけれども、一応自由結婚ということに世間ではなっているので別れようが何しようが自由なので、そういう反論は聞かないことにする。だったら責任を感じて分かれない、というのも別に好きにすればいい、ということになる。理屈としてはそうだ。ただ、個人的な意見として二人の関係が枯れてしまったならさっさと別れてしまったほうがいいのでは?そのほうが二人のためなのではないだろうかと思う。でも、結婚して20年も30年もいっしょにいたら、そりゃあ、ねぇ、飽きるんじゃない?不倫もしたくはなるわさ。いや、大きなお世話だな、まったく。失敬。

2001/1/14


小さい頃から仙人とかそういうある種超越した存在に憧れていた。とかく世間の柵から逃れて生きていきたい。などと考えていた。吉田兼好の徒然草とか鴨長明の方丈記などはお気に入りだった。「徒然なるままに日暮硯に向かいて心に写り行く由無しごとをそこはかとなく書きつくればあやしうこそものぐるほしけれ」、「行く川の流れは絶えずしてしかももとの水にあらず」等々。京大に入りたかった理由の一つもあそこは理学部はあっても学科は存在しないと聞いていたからだ。無所属。どこにも属さないと言うのがすばらしく聞こえた。今もどこかに属すると言うのは好きじゃない。それは自分を束縛するものだからだ。そもそも自分に属性を与えるなどとは滑稽な話だ。自分で自分を縛って何が楽しいのだろうか。よくわからん。すきにさせろや。サークルなども本当は好きじゃない。話し相手がいるという点に関しては結構なことなのだが、それ以上に何か共用されるのはどうも気に食わない。自分勝手な話に聞こえるだろうけど、そこがよくわからない。よく紹介文にはみんな好きかってやってます、などと書かれている割には好き勝手にすると白い目をされたりする、時もある。現在の社会がそうであるように今のところ協調性を持たない人間は社会から排除される向きにある。なぜなら、協調性で社会が成り立っているからである(これは自分の周りだけかもしれないけど)。自分に協調性がないとは思わないけど、なんでもかんでも周りに合わせる生き方はどうも好みでないんで。

ところで人付き合いとかを考えてみると、自分はその人に合った祖留浦を作る。その方がうまくいくから。尤も相手が自分の好みでないときにはそんなことはしない。自分にとって相手が認められる存在であればその人と仲良くする。その人に一番よく合う祖留浦をこさえてその人と接する。それが良いのかどうかはよくわからないけど、そうするのが一番よさそうだからそうする。争いたくない人と争いに成らないようにするにはそうするのが一番よい。つまりはその人のテンポに合わせるということ。合わせられない人とはどうしていいかよくわからん。僕は女の子が苦手なのだけど、その理由はやっぱり女の子のテンポがよくわからないから。男はたくさん見てきたから顔とか声とかで大体判断できるけど、女の子は接してきていない分どの顔と声がどういうテンポを持っているのかがわからない。だから話しづらい。

どうも自分は社会には合わせないけど、人間には合わせるらしい。人間に興味はあるけど、社会には興味がないらしい。社会を一人の人間だとすると、どうも相当に気に入らない人間らしい。

2001/2/2


心構えというか、どういう心持で居ればいいかということがまだわかっていないようだ。わかっていないという意味は頭ではわかっているということではなくて体がついていっているかということである。頭ではわかっていても体が着いていかないのであればそれはわかっている事にはならない。期待してはいけないのに期待してしまって体が焦っていたけれどもそれは期待していたのではなくて、いつもの先走りなのだ。一方的な考えは破滅への道しか示さない。もうちょっと今の状態を続けてみようと納得できただろうか。

2001/3/24


読書について振り返ってみると、自分は信じられん位に本を読んでいないことに気づく。もちろん漫画なんかではない。活字本のことなのだけれども。なぜ活字本を読まないのか?漫画ばかり読んでいたから、と言うのが一番の理由なのだろうけれども、それにしても読まなさ過ぎた。大分後悔している。こういうところで速読による読解力に差が出ているのではないだろうか、と最近つくづく思うのです。だったらこれからは漫画より活字を読むようにすれば言いだけのことなので、何も悲観することではない。ところで、どういった本が面白いのだろう?京極堂はたしかに面白かったが、2冊、3冊と読んでいくうちに何とな〜く飽きてきてしまったワイ。「燃えよ剣」これはいい。さすがは司馬遼太郎というところですな。「竜馬」もちょっと読んだけど結構面白かったことを覚えている。ミステリとか時代物とかSFとかでもいいんだけど、やっぱり読み込んでないのがたたってどういうのが面白いのかに鼻が利かない。漫画は嫌というほど読んでいるので絵柄を見た感じで大体面白いかどうかがわかってしまうのだが。でもどちらかと言うと啓蒙書とか思想書とかの方が面白い感じがするなぁ。面白い感じがするというよりは「読んでみよう」と言う気になる。つまり匂う(臭う?鼻が利く)のだ。

2001/5/10


「咳をしても一人」 ならば、「何をしても一人」 
「そうかも知れない事」は、「そうかもしれない」だけであって、そうであるとは限らない。あたりまえだけど。それは躊躇の始まり。「何か垢ぬけたねぇ」とかいわれましたが、そうなのかな?ん〜む。垢は抜けたかもしれないねぇ。でも垢が抜けたからって何かが変わるわけでもなく、前途が開けるわけでもなく、相変わらずなものは相変わらずなので。(疲れていると考えも沈む。) 努めて求めるものでもない。けれども興味は尽きない。興味本位で求めても悪くはないのかもしれないけど、どうもそういう気にはなれません。何が一番掻き立てるのかと言えば、到達感だろうね。自分もやっとそこに辿り着いたか、と言う到達感。内容は二の次。プライドというか意地を張っているのだ。単に納得がいかないだけだったりもするけど。僕の場合、睡魔というのは憂鬱感につながるのだ。だから、眠いと何もする気になれない。何にしろ、よくわかりません。はっきり述べてください。でも、こういう態度がすでにだめなのだ。

2001/5/15


欲しいか?と囁かれれば、欲しいと答える。間違いなく。では、何故欲しい?と呟かれたら何と答えよう。好きだからか?違う。何となくか?違う。セックスしたいからか?…ちょっと。一度はそういう風になってみたいか?はい。ただそれだけか?(やや躊躇しつつ)…多分。欲求だけが先走っていないか?…だいぶ。その反面、恐れていないか?はい。女の子と仲良くなっただけでそういうふうに考えてしまう自分が憎いです。そういう意味では近づきたく有りませんが、でもそれ抜きで仲良く出来るのであれば大変楽しいです。

病気が出てくるとき、どうすれば早く沈静化させられるだろうか。頭の中でごにょごにょやればやるほど長引くのでそうさせないようにするのが一番。気分転換的要素が必要になるけど、そこをどう選ぶかが一番難しい。今回はガンダム借りてきて一時沈静化。あたくしにゃあ、そういう幸せってものは今んとこ有り得なさそうなんでね。ちょっとおとこやもめが過ぎたようです。

なんだか最近アレにメリハリが出てきてすっかりらしくなってしまっているではないですか。いいなぁ。やっぱりうらやましいぞ、と思いつつ、熱が上がりそう。最近ちゃんとコレできるように(してくれるように?)なったから何だかにょほほほ。にょにょにょ〜

闇が迫りくる。躊躇と不安とを抱えた途端、闇が降りてくる。何時の間にかどっちを向いているか分からなくなってしまう。

2001/5/**


彼女が欲しい、とか言ってますけど、好きな人がいるんですか?って聞くといないらしい。何で欲しいんですか?って聞くと、甘えたいから、とか言ってます。しかも深刻そうです。甘えたいのは別にいいけど、そんなんで深刻になっているようでは長続きしないと思うけど。どーもなんか勘違いしてる気がするけど。そんなことで悩む時間があるならもっと勉強せい。

幸せになりたいんですけど。そうですか、なってください。あなたは幸せですか?さぁ、知りません。あなたは幸せになりたくありませんか?新興宗教の勧誘ですか、お断りします。

一番問題なのは、何をどうしたいのか、と言うことなのだ。然しながら、往々にして何がしたいのか良くわからんけど、そうしたい、と言うのが現実なのだ。そうでなければならないわけではないが、そうでないといけないような気がする。異性と話が弾んでときめいたって別に何の問題もないと思われますが。

なぜか自粛してしまうのだ。自粛と言うよりはやる気がなくなるといったほうがいい。萎える。しな〜っと。どうもそういうのだめなんだが、ずるずる引きずってしまう。項垂れながら徘徊してしまう。個立せよ、というけど感情に反することはできない。そういうところでもストレスを溜め込んでしまう。胃が痛む。

ただ、ハラペコなんだ。それだけなんだ。とりあえず何か口にしたいんだ。そうすれば落ち着けると思うんだ。でも自信がないんだ。「とりあえず何か」でいいのかどうかがわからないんだ。それでだめだったら食べたいものをまた探せばいいのではないか?と思うけど。もうそんな余裕ないんだ。どうにかして、少しでもいいから、とにかく腹に詰めたいんだ。偶然を待つつもりはない。食べられそうな物があればすぐにでも飛びつくさ。でもそれが本当に食べられるかどうかの判断ができない。食べたい!食べたい!食べたい!食べたい!!でも食べていいのか??これで大丈夫なのか??ほんとーーっに食べられるのか??と迷ってるうちに誰かがひょいっと食べてしまう。あーあ。

一度決めたら他のものが見えなくなるっていうのは確かに情熱的でいいことなのだろうけど、でもそれやってたら身動き取れなくなってしまうんだよね。一度決めたものがもう手の届かないところへ行ってしまった時、どうすればいい?待っているのは絶望しかないではないか。そうしたらそれを回避するためには一度決めた時でも他のものも見えてるようにしなければならい。しかしそこを意識しすぎてしまうと今度はふらふら的が定まらずに浮つくことになる。按配が難しい。どこで区切りをつければいいのだろうか。

2001/6/**


何がそう思わせているのだろうかと考えてみても、よくわからない。特に気にすることもないようなことも、気にしてしまいたくなる。何かはわからないが、何か感情を呼び起こさせられる。あまり良いものではない。かーっと体が熱くなるような感情。気まずいような感覚。別にそんな風に思う必要もないのに、なんだか無性に気になってしまったりする。

単に緊張しているだけだったりする。それが何か特別な感情であるというわけでもない。自分で勝手にそう思い込んでいるだけ。不愉快だな。正夢をみたり、すれ違ったりするあたり、どうもそういうことらしい。好きにすればいいけど、それを見るには忍びない。それだけは見たくない。出てきちゃったら多分大丈夫なんだろうけど。

2001/7/**


「ぼくだけが知っている」吉野朔実。どうして死んではいけないのか。何か明確な理由があるか?親を悲しませてはいけない。では、誰も悲しむ人が居なければ死んでもいいか。生き物が生きているというのは、電池を入れてスイッチを入れている状態に似ていると思う。機械は「元」があればいくらでも生きて居られる。生き物は元があっても生きていられなくなる。どうしても死んではいけないというわけではないけれども、ぼくはまだ死にたくない。死にたいとは思わない。まだ納得していない。納得したら死んでもいいとも思わない。「その時」が来るまで死ぬわけにはいかない。

未練がそうさせるのかどうかしらない。しかし、アピールとして何かしらのパフォーマンスはしなければならない。自分の力で示さなければならない。誰のためでもなく、その人だけのために。

恐怖を抱いているのかもしれないと思った。しかし、恐怖とは違うが恐れていることは確か。何か言いたいことでもあるのだろうか。よく分からないけど、気になる。そこにまだ何かあるような感じがする。何かまだ残しているような気がする。けれども恨み言を言ったところで何にもならないし、かといって手向けというわけでもあるまい。謝りたいのか…な?どうもその点に関して何か自分自身の中で納得していない部分がある。かなり強く納得していない。

こらえきれずに吐き出してしまったら、みょーにすっきりしてしまった。受け入れられようが、そうでなかろうが、どっちでも良いと感じてしまった(吐き出した後)。逆に、受け入れられたらどうしよう、とも思った。所詮その程度のものだったということなのだろうか。入れ込んでしまうと、何も手につかない。しかし、浅ければ、その程度。「もういいの?」と訊かれても、一体全体どう答えろというのだろうか。もういい、といえば信じてくれるのだろうか。まだダメ、と言ったらどうするつもりなのだろうか。僕自身はもういいのだ、ということにしなければ先へ進めないと思うからそうすることにしているのであって、それは以前に言ったと思ったけど?言わなかったっけ?

お互いに高めあうとかどうとかいうのは、何だかどうも。そんな関係というのはまさに理想であって現実ではない、と思う。それにこしたことはないけど、そんな風に二人が生きていけるのはすでにお互いが人間としてかなり出来上がっていないと無理だろう。もちろんどういう形でそれを現実のものとするかで違いはあるかもしれないが、喧嘩もできないような二人が死ぬまで連れ添うなんてできるんだろうか。高めあうというよりは、雨降って地固まるって感じじゃないのかぁ。それを高めあうというのかもしれないけど、僕自身は「高め合う」という言葉の響きがイヤ。美化しすぎ。七転び八起き。泥まみれになって生きていくのが人生だ。

まだまだ不愉快な感覚に襲われる。何か矛盾を内包しているような感覚。「もういいの?」に対しては「まだ良くない」という方が正しい。好きとか嫌いとかそういうことではないような気はするのだが、実はそうではなく、「そういうことではないような気」自体が矛盾を引き起こしている。それでは、「そういうこと」にすれば良いのかと言うとそうではない。そう思おうとすると、これまた気持ち悪い。要するに、そこへの気持ちは後にも先にも進めなくしてしまっているのだ。どっちに向かおうとしても矛盾を引き起こすことになる。言うには遅すぎるが、言わずには居られない。認めたくないけど、もう一度認め直さないといけない。だけど、本当はそこへの自分の気持ちがどうなのか、さっぱりわからない。どっちに向いていることにすれば良いのかわからない。多分、「肯」に向いているが、それはそれで困る。そうであっては困るのだよ。この先、生きていくには。

2001/8/**


自分自身への甘さが顕著に出てしまった。そう思った。まだ終わったわけではないが、いつもの結果になってしまっていることには代わりがない。思うだけ、意気込むだけ。有言不実。だからといって、自分を追い詰めたり苦しめたりしても何の意味も持たない。そういう短絡的なやり方しか思いつかないのはどうしようもない。やっても仕方がないような方法にこそ答えが隠されているかもしれない。どうせいつも同じ事ばかりでうまくいっていないのだから、ぜんぜん違う方法を試してみるのが得策かと。

自分の人生は自分のものだと言った。しかし、やはり自分の意志とは関係なく進むこともあるわけで、世の中の大半はそうなのだけれども、そのことによって大分妨げられているようである。人は会うべき人にしか会わないとすれば、その会うべき人は誰が決めているのだろうか。両親や社会に甘やかされて育った人間は悪口に弱い。馬鹿にされようと、いじめられようと気にしていては仕方がない。精神面での強化を迫られている。周りから与えられた評価が、いつのまにか当然のごとく自分の評価として身に染み付いてしまっているけれども、それは全くの虚実であることを認めなければならない。いつまでも同じ事は続かない。自分のできないことをちゃんと認めなければならない。認めたら改めなければならない。「過ちて改めざるこれを過ちといふ」。同じことは繰り返したくない、少しでも違う方向へ向かっていきたい。居心地が良いからと言ってまた戻るわけにはいかない。いつまでも高校生気分でいるわけにはいかない。

自分の気持ちに素直になる。自分の気持ちを疑う。伝わってる?伝えようとしてる?だめだめだめ。言葉でごまかす。虚が拡がる。再び覆い尽くす。救いを求めて何かに縋る。居心地が悪くなるとよそへ移る。

一番信じなければならない自分の気持ち。一番信じられない自分の気持ち。またしんどくなるのかと思うと、次へ進む気にもなれない。そうかといって、立ち止まっていてもやっぱりしんどい。先の不安と焦りをどうにかして違うものへと摩り替えようとしている。本質的には必要としていないのではないだろうかと、たびたび思うようになる。逃げようとしている限り、追いまわされることになる。

どうしようもないモノはどうしようもない。ただそれだけ。我慢しなければならないモノは我慢しなければならない。ただそれだけ。わかってくれないモノはわかってくれない。ただそれだけ。生きていれば何かいいことがあるかも、…「かも」ねぇ。

2001/9/**