車輪の下 〜家庭崩壊〜


いつの頃からか、我が家は崩壊していった。
崩壊していくことを誰も止めようとはしなかった。
止めることなどできなかった。
むしろ、それぞれが崩壊することを望んでいたのかもしれない。
分かり合えない家族。
安堵感の無い家庭。
それでも私には何も不都合はなかった。
両親が口を利かなくとも、姉が父をあからさまに避けようとも、私には不自然ではなかった。
それが普通だと思っていたから。

普通だと思っていたわけではないかもしれない。
母に「あなたが大学を卒業したら離婚するから」と言われても、やはり私には何の問題もなく受け入れることができた。
そうなることが分かっていたかのように。


どこまでさかのぼれば我が家の崩壊の始まりにたどり着くのか。
とりあえず、記憶のあるところまで戻ってみるとしよう。

小学校時代。
両親の仲が悪かった記憶はない。
というより、この頃からすでに滅多に話をしていなかったような気もする。
母は家の近くの工場で事務員として働いていた。
社長ととても仲が良く、私も学校から帰るとそこに遊びに行っていた。
父はいつも帰りが遅かったような気がする。
父の記憶はあまり無い。
しかし当時の成績表の担任のコメント欄に「いつか自慢のお父さんにも会いたいです」なんてコメントを頂いてた記憶があることから推定すると、私は父のことが好きだったようだ。
そう言えば、家族旅行のときには必ず父の隣り、つまり助手席に座っていた。
父と仲が良かったからなのか、単純に前が良く見える助手席が好きだったからなのか、今となっては分からないことである。
小学校5年生ぐらいのときに、我が家の建替えが行われた。
男の子っぽかった私は、父とともに我が家の設計にかなり携わっていたように思う。
そう考えると、父と仲が悪かったわけでもなかったはずなのだが。

中学時代。
私は塾に通い始め、家に帰る時間が12時近くになるようになった。
母は水商売を始めていた。
この頃、私も姉も父を避けるようになっていた。
しかし、思春期の女の子なら誰でもそういう時期があるのではないだろうか。
私は家にいる時間が少なくなり、父の帰りも遅く、母も夜働いていたため、我が家は家族の顔を見ることが少なくなっていた。
母には塾への送迎をしてもらっていた関係で、話す機会が多かった。
それでますます父との距離が離れたのかもしれない。
夜中に喘息の発作がおき、辛かったときにも、父を起こすことはなく、働きに出ている母の店へ電話をしていた。
それほど私の中で父は頼れない人だったのだろう、悲しいことに。

高校時代。
この頃も中学時代と大差はなかった。
父との距離は相変わらずなままであり、母とは表面的には仲良かった。
そう、表面的には。
親に何でも話せるという家族もあるかもしれないが、残念ながら我が家は違った。
話しているつもりだったけれど、結局、一番大切なことは何一つ話していなかったように思う。
そんな中で私は、水商売を始めて生き生きとしている母をある意味、尊敬していた。
姉は「あんな大人にはならない」と言っていたけれど、私は好きなように生きる母をすごいな、と思っていた。

高校卒業間近というところで、我が家の崩壊の火蓋が切って落とされた。
いつも大人しく母の言うことに逆らうことの無かった父がついに切れた。
母の冷たい態度や、それまでの母の行動の全てが父に母を殴らせたのだろう。
暴力を振ることは最低なことだと思っているけれど、私は父を非難はしない。
思えば彼はよく耐えてきたのだ。
母が年中連れてくる男友達(夜の仕事の常連客)にも文句を言わず、もちろん夜の仕事に対しても文句を言わず。
それらのストレスが溢れ出したのだろう。
離婚への具体的な話がここから始まった。

父は手をあげてしまったことを後悔し、母とは別れたくないと主張した。
しかし、父が母を殴ろうと殴るまいと、母は離婚することを心に決めていたのだ。
私は、あの事件の直前に母にこんな事を言われていた。
「モモが大学を卒業したら、お父さんとは別れようと思うの」
ただ時期が早まっただけの話。
そして話は裁判にかけられ、私たち姉妹までもが家庭裁判所に呼び出されると言う、なんとも迷惑な状況が約1年、続いた。

結局は、強気な母の主張が通り、離婚が成立した。
そして、私と姉は迷うことなく母を選んだ。
そこで改めて父が孤独であったことをしみじみと感じた。
哀れだった。
母は離婚話が進み始めてから、それまでは押し殺していたのかもしれない父への冷たい態度をあからさまに表に出すようになり、そして娘たちは相変わらず、ほとんど口をきくことはなかった。

姉が犬を飼っている関係で母子三人が一緒に住めるアパートは見つかるわけもなく、どうせ大金を使うなら一戸建ての方がいいんじゃないか、と言う考えから、今度は一戸建てを探し始めたりして、私たちが住む家は見つからないまま、離婚した夫婦が、崩壊した家族が、同じ屋根の下に住み続けると言う非常事態に陥り、ついに父が折れ、大事に大事にしてきた一戸建ての家を出ることになった。
私には父がどんどん小さくなっていく気がした。
あまりに哀れな父に同情の気持ちが生まれた。
私はそれまで避けてきた自分を改め、父と普通に接するように努力した。
ぎこちなさは未だに消えないが、それでも父は私の一人の父だから。
しかし、ここから我が家の本当の意味での崩壊が始まったのである。



今、我が家にはとてつもなく冷たい空気が流れている。
姉は付き合っている人と同棲を始め、家を出た。
と言っても、そこにも犬を連れて行くことができず、毎日、実家と彼宅を往復している。
母は、離婚騒動の頃付き合っていた男性とは別れたらしく、今は新しい彼がいるらしい。
それは別にどうでも良かった。
母が再婚すると言っても反対する理由はない。
名字が変わることには抵抗があるけれど。
誰と付き合おうと自由だけれど、私はどのオヤジも受け入れられない。
一緒に食事に行っても、他人は他人。
嫌いなものは嫌いなままだ。

離婚騒動が勃発した頃、友達の家に遊びに行き、泊まっていくことにした私が母に電話をかけたことがあった。
飲み会でのオールなどは絶対に許してくれない母なので、外泊するときには誰の家に泊まるのかをきちんと伝えておかねばならない。
この母の教育のおかげで、私の友達は激減したような気がする。
飲み屋で働いていた私が飲み会でオールすることができず、徐々に誘われなくなっていくのだ。
思い出しただけでも切なくなる。
思えば、私は驚くほど大人しく従順な子供だった。
親に反抗することなど無かった。
おかげで今、反抗期なのかもしれないが。
ともかく、夜、母に電話をすると、ほろ酔いな母が電話口で言った。
「お母さんはあなたのお母さんじゃなくていいのよね?一人の女でいいのよね?」
外泊を許してもらえるかどうか、どきどきして電話したら、突然そんな事を言われ、私は面食らった。
この時は母の言葉の意味を深くは考えなかったが、今思えば、母はあの頃から「母親」であることを放棄してしまっていたのだろう。

母が母親としても役目を完璧に果たしていたのは、私が中学生ぐらいのときまでじゃないだろうか。
水商売を始めた頃から、何もかもが変わっていったのかもしれない。
昔から「勉強よりも家事」としつけられ、掃除や洗濯を手伝うのは当たり前のことと教えられてきた。
いい教育と言えば、いい教育だ。
家庭科の成績が良くても、普段、料理ができなければ意味はない。
それでも母は母親であるべきだった。
元々は家事が好きだったはずの母が、今では料理しっぱなし、食器類をキッチンに運ぶことさえもせず、脱いだ服をその辺に散らかし、お風呂掃除もせず。
徐々にそうなっていたからなのか、気づいたときには酷い有り様だった。
私の彼のお母さんは専業主婦で、家がとても奇麗だから、比べてしまったのだろう。
我が家の酷さに気づいてしまった。

そんな母も週に一度ぐらいは掃除をする。
彼を連れてくるからだ。
基本的には近くの居酒屋で仲間とワイワイ飲んでいるようなのだが、彼の家が遠く、時々、我が家に連れてきては、父が出ていったためにできた空き部屋に彼を泊めている。
我が家で宴会が開かれることも多く、その度に私は吐き気を催した。
大嫌いなオヤジ達、煙草臭いリビング、いつも以上に散らかったキッチン。
私が翌日のお弁当のために料理をすることを分かっているはずなのに、そんなことは考えてはいないらしい。
いつだったか、客人が3、4人来ていて、本当は顔を合わせたくないのに、料理をしないわけにもいかずリビングへ行ってみると、母が出かけていることがあった。
そこで携帯に電話をし、「すぐに帰ってきてキッチンを片づけなさい!」と訴えた。
1時間程で帰ってきた母だったが、いつまでたっても「片づけた」という内線電話がかかってこない。
そこで仕方なくリビングへ向かうと、キッチンは手を付けた様子もなく、母は酔っ払って、いい気分でビールを飲み続けていた。
「片づけろって言ったでしょ!」と怒りを吐き出すと、母はケロリとこう言ってのけた。
「うまく避けて料理して」
私は涙が出そうだった。
私には、怒りを感じると泣くという変な習性があるらしい。
さらに吐き気を催した。
私は手荒に料理をし、さっさと部屋へ戻った。
翌日、キッチンどころかリビングのテーブルまで無残な状態で朝を迎えていた。

さらに別の日。
例によって、母がリビングで宴会を行っていた。
私は顔を合わせるのも嫌だったため、ずっと部屋に閉じこもっていた。
夜遅くなっても宴会は終わる気配が無く、私はお風呂のある1階へと向かった。
我が家は3階建てで、客間とお風呂が1階、リビングと母の部屋が2階、私の部屋が3階にある。
母たちはリビングにいるが、宴会が終わると1階の客間に下りてくる。
お風呂上がりの姿を見られるのが嫌なので、私は母がお風呂に入ることに気づくよう、どたばたと階段を走り降りた。
お風呂に入って間もなく、リビングから何人かの足音が聞こえた。
宴会を終えて下りてくる母とオヤジらだ。
気にせずに身体を洗っていると、突然、お風呂のドアが開いた。
母である。
そして彼女は振り返って言った。
「ほらね」
私が想像するに、オヤジの一人が風呂に入りたいとでも言い出し、しかし娘が入っているであろう事に気が付いていた母が確かめに来たのであろう。
しかし、ノックもなく、いきなりドアを開けるとは!
見える範囲にオヤジがいなかったとはいえ、ありえない話である。
私は突然のことに一瞬固まったが、フル回転で頭を使い状況を把握し、母の開けたドアを思い切り閉めた。
母は私に声をかけることも泣く、何事も無かったように去っていった。
お風呂のドアを開けなくとも、脱衣所に入れば中に人がいることぐらい分かるだろうに。
私は、また吐き気に襲われた。

こんなことが週に1度はあり、私はノイローゼになりかかっていた。


そんなことには全く気づいていない母親。
私は友達に言われて、家を出ることを真剣に考えるようになった。
しかし、実際、家を出るには金銭的な問題が絡んでくる。
働き始めたばかりの私の給与では、今のように余裕のある生活は送れないだろう。
彼も一緒に暮らしてくれると言ってくれていた。
しかし、それとこれとは別問題。
なぜ、私がこんなに窮屈な思いをして、家を追い出されるような形で家を出て苦労しなければならないのか。
そこで私は母に、ある約束をさせることに決めたのである。

それが、罪と罰。

2000年4月