ヒコーキのページ
UKIはヒコーキが大好きです。28歳になった今でも、ヒコーキの音が聞こえると、つい机を離れて窓から空を見上げ、上司に怒られたりしてます。
昭和63年頃、当時高校3年生だったUKIは無謀にもヘリコのパイロットを志し、航空大学校別科(ヘリパイ養成コース)の受験をもくろんでいました。しかし、昭和64年入学生より、受験資格が「高校卒」から「短大卒あるいは大学2修」へ変更され、やむなく普通(?)の大学に進学し、そこで地質学の道に引きこまれてしまったのです。地質屋になったことを後悔してはいませんが、もしもう一年早く生まれていたなら、ひょっとしたらお空を飛ぶお仕事に就けたかも・・・なんて、勝手なことを考えてます。いや、今のお仕事が嫌いな訳じゃないんですがね。
このコーナーでは、UKIが好きなヒコーキの紹介を折々していきたいと思ってます。
紹介リスト
ヒコーキの名前をクリックしてください。
| ヒコーキの名前 | 掲載日 |
| MESSERSCHMITT Bf 110 | |
| 零式艦上戦闘機 | 99/6/12 |
| BAe・CONCORD | 99/6/5 |
| 二宮式甲虫型飛行機 | 99/5/24 |
| 局地戦闘機 紫電/紫電改 | 99/5/22 |
第5回 MESSERSCHMITT Bf 110 Zerstorer & Nachtjager

昭和12年、海軍は96式艦戦に替わる次世代高性能艦上戦闘機として「12試艦戦」の計画要求を三菱・中島(現在のスバル)に与えた。折から、海軍航空廠では源田実少佐の「対戦闘機格闘性能重視論」と柴田武雄少佐の「速度・航続力重視論」が真っ向から激突し、その結果として当時の列強国のどの戦闘機よりも格段に高性能という、常識を外れた不可能に近い要求を前述の二社に突きつける事となった。
設計の段階で中島はついに開発を断念。三菱は堀越二郎技師を筆頭に最大限の努力を重ね、無謀ともいえる要求を見事にクリアし、試作機完成にこぎつけた。しかし、試験飛行で事故が連続して2人の試験飛行士が殉職、改修を繰り返した後についに世界航空史上にのこる傑作機の登場となった。
零戦は、各型併せて約10,600機が生産された。これは、もちろん日本航空史上最大の量産である。
零戦の量産型には、以下の種類が存在した。
| 11型 | 試作機に栄12型発動機を装備。最大速度533km | 20mm機関砲×2,7.7mm機銃×2 |
| 21型 | 空母搭載用に11型の翼端を折り畳み式に改装。 | 同上 |
| 32型 | 2速過給機付の栄21型発動機に換装。21型の翼端をカットし、速度の向上を図る(結局2kmしかあがらなかった)が航続力が大幅にダウン。登場当初は連合軍に他機種と判断されていた。 | 同上 |
| 22型 | 翼端を元に戻して燃料タンクを増設し、航続力を強化。20mm砲を換装して弾数を増加(左右合計200発)。 | 同上 |
| 52型 | 22型を大改修。燃料タンクに自動消化装置を増設。最大速度は563kmとなる。 | 同上 |
| 52型甲 | 20mm砲を換装し、弾数を左右合計250発とする。主翼外板を0.2mm厚くし、全体の強度向上を図る。 | 同上 |
| 52型乙 | 胴体右側の7.7mm機銃を13mmに換装。風防前面に防弾ガラスを設置。 | 20mm機関砲×2,7.7mm機銃×1,13mm機銃×1 |
| 52型丙 | 翼内に13mm機銃を追加装備、主翼下にロケット弾懸架装置を設置。 | 20mm機関砲×2,7.7mm機銃×1,13mm機銃×3 |
上表のように進化を続けた零戦であったが、大戦後期になると連合軍の大出力エンジンを搭載した高速戦闘機群に押され、劣勢を強いられる事となった。また、零戦の後継機であった次期主力艦上戦闘機「烈風」の開発が大きく遅れ、旧式化した零戦が前線で酷使された。
つづく!
第3回 BAe 「CONCORD」

1950年代後半より、英仏両国の手によって共同開発された超音速旅客機。「CONCORD」は「調和」を意味するネーミング。
実用化されたのは70年代に入ってからだが、旅客数100人、戦闘機並みの最高速度マッハ2、パリ−ニューヨーク間をわずか4時間足らずで結ぶ、まさに「夢の旅客機」といえた。
特徴的なのは、なんと言っても独特の曲面を有するデルタ翼。エンジンは英国ロールス・ロイス社製だが、機体のデザインにはフランス的な優美さが感じられる・・・様な気がする。また、機首は離着陸時に下方に屈曲し、前方視界が良くなる構造となっているのも有名であろう。
次世代旅客機として期待を集めたコンコルドであったが、燃費の悪さや騒音などから受け入れられず、結局16機が生産されたに留まった。また、70年代には旅客機の大型化が進み、旅客数500以上を数えるボーイング747型が登場し、「より速く」より、「より多くを」運ぶ旅客機が主流となったため、この稀代の名機の活躍場所はさらに限られる事となった。
第2回 二宮式甲虫(玉虫)型飛行機


世界で初めて動力飛行に成功したのは、アメリカ合衆国のライト兄弟で、1903年の出来事であった。日本では、それに遅れること約7年、1910年にフランス製「アンリ=ファルマン機」による国内初の動力飛行が行われた。しかし、それに先立つ事10年以上前に、ある日本人が設計し、模型の飛行で成功を収めた飛行機があった。
二宮忠八は、愛媛県八幡浜生まれの薬剤師である。陸軍の調剤師であった彼は、1890〜94年にかけて、人力飛行機の設計を行い、ゴムを動力に用いた模型で約5分間の滞空時間を記録したといわれる。二宮は早速その「飛行器」の採用願を陸軍へ提出したが、当時は飛行機の重要性が認められなかったため、却下された。そこで、民間の有志を募って飛行機製作の資金を得ようとしたが、賛同する者はなく、単なる妄想として一笑に付された。それでも二宮は諦めず、自分で制作費を調達するために製薬会社に就職、以来製薬業界で活躍し、自らの製薬会社を設立するに至った。そして、いよいよ甲虫型飛行機の製作に掛かろうとした時、ライト兄弟の初飛行の報を聞き,ついに製作を断念した。
卓越した設計思想を持ちながら財政面でつまずき、飛行機発明者となる事が出来なかった二宮忠八であったが、日本の「航空始祖」とし逓信省より表彰をうけ、故郷に「航空神社」を建立した。
彼が設計した「甲虫型」は、一度も空を飛ぶ事はなかった。現在では、愛媛県の玄関口である松山空港のロビーに実物大の模型が展示されており、愛媛を訪れた観光客の目を楽しませている。
第1回 局地戦闘機 紫電/紫電改

第二次大戦期の日本陸海軍併せて、零戦と共に最も知名度が高いと思われる航空機が、海軍局地戦闘機「紫電改」であろう。「紫電改」はその名が示す通り、「紫電」の改良型であるが、その主翼設計以外はほぼ別の飛行機といって差し支えないものであった。
紫電/紫電改のルーツは、実は水上戦闘機である。昭和18年に海軍に正式採用された水上戦闘機「強風」は、水上機製作に関しては当時群を抜いていた川西航空機(現在の新明和)が投じた当時世界最高水準ともいえる高性能水戦であった。この「強風」を陸上機化し、中島(現在のスバル)製の新型発動機「誉」を装備することにより、比較的簡単に高性能局地戦闘機が開発出来ると見込まれ、昭和19年10月に「紫電11型」として「制式採用となった。
「紫電」は試験中より、視界が悪い、各部の工作不良などの多くの欠点を暴露していた。当初648Km/hを見込まれた最高速度も574km/hに留まり、評価は芳しくなかった。しかし、その強力な武装(20mm機関砲×2〜4門)、独自の空戦フラップによる空線性能の良さ、そしてなにより当時は適当な局地戦闘機が不足していたこともあって、採用直後よりフィリピン・台湾等の前線へと配備された。
「紫電」を改良し、より高性能としたのが、「紫電改」である。「紫電」の大きな欠点であった視界不良・着陸装置の不備等を解消するため、大幅に設計の見直しがすすめられ、まったく別の戦闘機とも言える「紫電改」が誕生した。
「紫電」「紫電改」は、各型併せて1,400機程度が生産されたに過ぎず、零戦の10,600機には遠く及ばない。しかし、零戦に勝るとも劣らない知名度を有している理由としては、ひとつはちばてつや氏のマンガが有るからであろうが、もうひとつ大きな理由として挙げられるのが「剣部隊」の存在であろう。
第343航空隊、通称「剣部隊」は敗色濃い終戦末期に源田実大佐の発案によって創設された部隊である。当時ほぼ米軍の手中にあった制空権を地域的に奪回し、それによって戦局の好転を図る、というのが部隊編成の目的であり、その目的のため、各地から歴戦の搭乗員が選りすぐられた。
「剣部隊」の戦歴中、特筆されるのは、昭和20年3月19日の松山上空大空戦であろう。19日早朝、豊後水道から松山上空へ侵攻したF6F、F4U、の両戦闘機および艦爆SBC2ヘルダイバーを主力とした米軍攻撃部隊約60機を迎撃した「紫電」「紫電改」の混成戦隊60機は、1時間の空戦の末、敵機45機を撃墜、友軍の損失は12機という戦果を挙げた。これは、圧倒的な物量をたのむ連合軍に対して、海軍航空隊が放った最後の一矢と言われている。