堤崎流の歴史

1. 堤崎流の祭囃子の誕生

堤崎の囃子は慶長年間に始まったと伝えられています。
その頃は素朴な祇園囃子(古囃子; ふるっぱやし)を愛宕神社に奉納していました。幕末になると木下(さいたま市西区高木)の高野忠兵衛が江戸祭囃子を、それまでの祇園囃子に取り入れました。 これが木下流の祭囃子です。
一方、吉沢菊次郎は堤崎の囃子の親方で、通称赤鳥居と呼ばれていました。屋敷の庭に稲荷様が祀ってあり赤い鳥居があったからだといいます。
菊次郎は堤崎に伝わる祇園囃子に木下流を取り入れます。
さらに明治になり菊次郎は東京に赴き神田囃子を習得し、この技法を組み入れ木下流を改良し“堤崎流新囃子”を誕生させます。
この頃、堤崎連中は東京の神田祭にも呼ばれて山車に乗っていたようです。一説によると神田七軒町の山車であったと聞いた事があります。 しかし、山車番付や錦絵に七軒町は登場せず、残念ながらどのような山車であったのかは不明です。

2. 堤崎連中、川越の山車に乗る(その1)

川越には江戸の天下祭 (神田祭、山王祭、根津神社大祭) を写した川越氷川祭があり、江戸型の山車が曳かれています。
明治になると東京の街には路面電車の架線や電線が張り巡らされ、山車の運行に支障をきたすようになったため、山車から神輿の祭に代わっていったと一般に言われています。 現に架線に人形が引っかかり落下するという事件の記録もあるようです。 しかし、実際には明治になってもまだまだ東京でも山車が曳かれていたようです。 しかも、都梁斎仲秀英、古川長延、古今斎(古今亭)原舟月らの山車作りの名人もいまだ活躍中で、山車も作り続けられていたようです。 その後、東京の街から山車が消えていったのは、電線や高架といった道路事情に加え、莫大な曳行費用と管理費がかかったからといった台所事情もあったと思われます。

東京の祭では山車に近郊の囃子が乗り、町の人が曳くのが一般的でした。 川越も同様に近郷近在の囃子が乗り込んでいました。 
明治の中頃まで南町の山車には角泉(かくせん、埼玉県比企郡川島町)の囃子が乗っていたと伝えられていますが、真偽のほどははっきりしません。 また、南町保有文書(川越市指定文化財)には「田島新田 囃子に御礼」というわずかな記載がありますが、この田島新田が何処を指すのかも分かっていません。
現在、幸町にて手作り豆腐店を営む「近長(きんちょう)」の先々代 “細田長兵衛(ほそだ ちょうべい、青果商)” は当時の南町の顔役でした。 長兵衛が東京神田の市場に仕入れに行った時、ちょうど神田祭の最中でした。 長兵衛はその中の一台の山車の囃子の調子に聞き惚れ、どこの囃子かとたずねてみると、偶然にも上尾在堤崎連中との返事。 これが縁で堤崎連中は長兵衛に招かれ南町の“翁の山車” に乗ることになり、川越に迎えられることとなりました。