1997年9月

2度目のソウル

1997/9/24

 今日いよいよ韓国へ出発する。今回が2度目の韓国になるが、まだまだ不安な事は多い。前回と異なり、第2ターミナルになったというのもその要素の一つである。13:30発のアシアナ航空での出発であったが、乗り遅れたら行けないと思い、本来11:30までの集合であったが、10:30頃には既に到着していた。

 余りにも早かったのか、カウンターにはまだ誰もいなかった。航空券が空港渡しであるというのがパックツアーの常識であるので、航空券を受け取るまで心配は尽きない。さてようやく航空券を受け取る段になって、券を渡してもらう時に予約の再確認(リコンファーム)をするように言われた。寝耳に水とは正にこの事で、これより先この事で頭がいっぱいだった。なぜなら、予約の再確認は出発便の72時間前までとあったが、よく計算してみると航空券をもらった時点で、72時間は経過していたのである。これは現地の係員に諭されるまでは、帰れるかどうかとても不安であった。

 空港に着くと、現地係員からホテル毎に分けられた。このツアーに参加した人は、結構いるようである。自分の宿泊する慶南(キョンナム)ホテルには、36人もいた。ホテルからはバスでの移動であったが、最初は新羅免税店に立ち寄った。自分は前回来た時に免税店は高い事を知っていたので、ただ見るだけで何も購入しなかった。旅行社からはプレゼントの券ももらったが、それすら使わなかった。約1時間余り免税店に滞在し、その後ホテルに直行した。ホテルに着いたのは19:30を過ぎていた。到着後各々ルームキーを受け取り、そこで解散となった。帰りの飛行機は10:15というかなり早い時間なので、渋滞等も考えて6:50までロビーに集合という事であった。

 自分は延泊するが、便は同じであったので同じく6:50という事であった。さて部屋に着いて荷物を色々と整理した後、夕食に出掛けた。ホテルにもレストランはあったようだが、どうも高そうなので外の店に行く事にした。何やらおいしそうな匂いに釣られて、一軒の店に入った。勿論日本語は通じない。それでもメニューを眺めながら、注文してみた。食べ方が分からないので聞いてみたが、自分のハングルも後で調べたら変だったので、うまく通じず困った。しかし何とか食べる事は出来、結構行けたのでこれも経験だと思って気持ちも落ち着いた。またこの事で、なんとなく度胸がつき、この後の観光にもいい心の支えになったと思う。

1997/9/25

 朝からぱっとしない天気であった。ホテルを出てしばらくすると、雨が落ちて来て次第にひどくなった。

 今日は独立記念館に行く予定である。色々考えたが、バスが一番格安で便利だと思い、そうるの南方にある高速バスターミナルへと向かった。ここへは地下鉄が出ているので本当に便利である。地下鉄も大体が450ウォン(≒60円)で市内を回れるのでとても安い。

 券の販売所には色々な名前が書かれているが、独立記念館はなかった。あちこち探して最後に販売所の人に聞いたら券を売ってくれた。どこにあるのかと思って見てみると、券には一般と書かれており、案内所の人に聞いたりして20番口から出るのが分かった。バスの前に行くと確かにハングルで「独立記念館」と書かれていた。何はともあれ、バスに乗る事は成功した。

 外は生憎雨で、市内を出てしばらくは重体気味であったのでいつ着くのか不安であった。およそ2時間余り行ったであろうか、ようやく独立記念館に到着した。前からかなり広い所であるというのは知っていたので、驚きはしなかったが、バスが到着した所から発券所まででも結構な距離があった。当初1500ウォンであると聞いていたが、よく見ると1600ウォンになっていた。しかし、券を見た所入場料は確かに1500ウォンであるが、100ウォンが維持費か何かで徴収されていたのが分かった。

 さて、いよいよ券を購入し入口で鋏を入れてもらい、とぼとぼと進んだ。生憎の雨で傘は手放せなかった。そんな天気の中でも、結構人がいた。観光バスもいた。建物に入ってようやく傘をしまえるようになり、展示物の見学に集中した。独立記念館は、1987年の独立記念日(8月15日=日本の敗戦記念日)に開館されたので、ちょうど今年が開館10周年という事になる。その為に、これまでの歩み(開館の契機や沿革など)を新聞記事で取り上げられた所などを掲げつつ、紹介してあった。

↑独立記念館の概観。かなり壮大な敷地であることが、人の大きさでわかる。

↑キョレ(民族)の塔。これもまた高い建造物である。

↑国立中央博物館(旧朝鮮総督府)の尖塔は独立記念館内の敷地に置かれていた。

 前から見ておきたかったのは、日帝侵略館というものの中にあるという植民地時代の拷問の数々を、蝋人形を使って見せている所である。しかし、思ったよりインパクトは小さかった。寧ろ目を引いたのは、韓国の独立問題に際しての日本に対する反論の数々である。これは、韓国では英雄視されている安重根の足跡を記した物の数や、日本で言う征韓論の中心的人物であった西郷隆盛や福沢諭吉などが、韓国独立の敵であるかのように書かれている様は(全てがハングルなので完全に理解出来たとは言い切れないものの)、目を背けたくなるような場面であった。

 しかし、これも韓国と日本とでの認識の違いから生まれている良い例であろう。福沢諭吉は『学問ノススメ』を書いたように、非常に優れた人物であるという事は日本人の誰しもが知っていることである。しかし一方で「脱亜入欧」という考え方も打ち出し、非常に極端なヨーロッパ主義に傾倒してしまったことも事実である。韓国では後者の事実がクローズアップされてくるのである。また安重根も、日本では韓国統監府初代統監である伊藤博文を暗殺した反逆者である、というレッテルがつけられ、韓国側での独立の功労者である、という考え方とは真っ向から反するものになっている。しかし、国情が変われば受け取り方が変わってくるのは当然であり、この相違性こそ韓日双方が直視しなければならないものなのではなかろうか。

 全てを認めよ、と言っているのではない。ただ、違う方が当然であり、そういうものがあるのだ、ということを知るのが大事であると自分は思う。さて館内を巡っているうちに、案内書などがあるはずだと思って見ていると、やはりあった。しかしこれは建物の入口や出口という在り来たりの所にあるものと思っていたが、次の建物に移る付近(建物同士はほとんど廊下でつながっている)にあるのには驚いた。

 案内のパンフレットを一部購入しようとした時だった。売店の人が、自分を日本人である事を分かってか、日本語版もあると言って勧めた。ついでにビデオまで買わされた。したたかなものである。 しかし、後から考えると総目録も値は張るが買っておくべきだったと思った。パンフレットは本当にパンフレットで、詳しい所(拷問の場面など)までは書かれてはいなかった。詳しく見るととても時間がないと思ったので、早足で見て回ったが2時間は十分にかかった。

 帰りも来たようにバスで行こうと思ったが、本当にくるか不安で心配であったが、運の良い事に日本人のグループが大勢やって来てソウルまでバスで行くようだ。しかも韓国人の知り合いがいるようで、この後について行けば間違いないと思い、バスが来るや否やその集団の後について行った。

 乗口で料金を支払い、安心してシートに腰掛けた。行く時は2時間かかったので、帰りはどうかと思っていたが、雨は相変わらずで寧ろひどくなるようであった。外もとっぷりと日が暮れ、水しぶきを上げながら渋滞の道をソウルへとゆっくりと進んで行った。16:16頃出発したので、行く時の時間から逆算して18:16着く頃だろうと思っていたが、結局は19:00近くに到着した。

 今日一日ろくな食事をしなかったものの、不思議とお腹が空かなかったのは、それだけ見学に熱中していたという証拠であろうか。ホテルに着いても20:00を過ぎており、昨日のように外へ食べに行こうかとも考えたが、カウンターからルームキーをもらう時に「おやすみなさい」と言われてしまったので、外へ出る気力もなくなりそのままシャワーを浴びた後、床に就いた。

1997/9/26

 朝早くに目が覚めた。本来であれば今日ソウルを発つのだが、延泊したのでもう一日ある。今日帰る人たちは、6:50分ロビー集合だと聞いていたので、その時間頃外を見ると、重たい荷物を転がして大勢の人がバスに乗り込んでいるのが見えた。おそらく延泊したのは自分だけなので、本当の意味で独りぼっちになったような気がした。

 昨日は多少予定が狂って時間が遅れたりしたので、今日は早く出る事にした。と言っても15分ほどの差であったが。ホテルからの最寄り駅までは、近いと思っていたが結構あり、歩いて20分ほどかかる。どうにかこうにか駅に到着し、まずは南大門を見ておこうと思って、近くらしい明洞駅で降りた。

 しかしちょっと道に迷ってしまい、それほど近くない事が分かった。そしてやっと門の前まで来たが、残念な事に門は改修中らしく、板で囲ってありその姿を見る事は叶わなかった。しかたなく、お腹も空いたのでロッテデパートの所まで行き、そこにあるロッテリアで適当に食べた。

 その後地下のベンチで休んでいたところ、なにやら嫌な雰囲気の人がやってきて話し始めた。どうやら宗教関係の人らしく、自分を韓国人と思い込んで話しているのだ。しばらく話を聞き流していたが、自分は日本人であるという旨を話すと、驚いて話しの内容は変わった。ちょっとしたコミュニケーションを取り合ったのだが、向こうは日本語が分からず、こちらも高度な韓国語が分からないので、一方通行的な会話であったように思う。しかし、こんな経験もそうあるものでもないので、ある意味では良かったと言えよう。

 さて時間も勿体ないので、その場を後にして歩いた。外に出てみると、にわかに雨が降り出した。途中CDを買ったりしたものの、雨は一向に止む気配を見せず、昨日よりも悪い天気となった。雷も轟き、外を歩くのが容易でなかったので、度々地下道で雨宿りしながら進んだ。

 景福宮を通過して、仁寺洞へ行った。ここは通称骨董通りと呼ばれ、茶器や仮面など古くからの骨董品を陳列・販売している。さながらちょっとした博物館といった様相を呈している。ここでは、仮面を一つとその仮面のキーホルダーを購入した。外に出ると雨もだいぶ止み、歩くのも助かった。

↑この写真からはわかりにくいが、後ろにあった国立中央博物館の建物は跡形もなく取り壊されていた。

 その後、もう一度ロッテデパートへ行き、その上の階にあるレストラン街に直行した。お腹が空いていてどうしようもなかったので、多少高いがここで参鶏湯を食べた。結構おいしかった。熱かったので時間はかかったが、食事にありつけたのが何よりであった。その後喉が渇いたので、下に降りてロッテリアでシェイクを注文した。バニラを注文したが、中にコショーが入っていたのには驚いた。

 その足で今度はソウル西部にある、独立門へと向かった。ここは広大な公園となっており、かつて日本が植民地としていた時期の刑務所(獄舎)がそのまま残されていた。刑務所には近づいて見る事が出来、内部はちょうど入る事ができなかったが、その当時の様子を窺い知る事が出来たような気がする。特に、ある建物の中に掲げられていた「安全第一(ハングル)」という表記が、皮肉に写った。

↑独立門。西大門公園内の敷地に置かれている。高速道路建設に伴い、場所が移されたということである。

↑日本がかつて植民地支配していたころに使われていた刑務所の外壁。終戦後、韓国の刑務所として使われた後、後世に侵略の歴史を残していくためにほぼそのままの形で刑務所全体が保存されている。

 約1時間余り見た後その場を去ったが、駅に入る時またもや道を聞かれたが分からなかった(西大門公園はどこかと聞いていたと思うが)。その後、江南というところへ行った。ここには、タワーレコードがあるということだったのと、その近くに焼き飯の店があるというのを知っていたので、行ってみることにした。ここは、若者がとても多く、恐いという印象もあった。日本で言えば、渋谷などに匹敵するところであろう。

 道端を見れば、学生運動を象徴するようなビラがあちこちに貼られていた。歩道の上にも貼られていたのには驚いた。さて、タワーレコードに入ったが、ものすごい数のCDに圧倒された。1枚購入したが、ちょうど話題のエルトン・ジョンのCandle In The Wind '97が販売されていた。さて焼き飯店であるが、やはり若者が多かった。普通韓国ではチョッカラクやスッカラクを食事の際用いるが、ここではスプーンであった。一番上に書かれていたキムチを注文したが、それほど辛いというわけでもなかった。そして、お腹も一応膨れたものの、それほどおいしいという印象はなかった。ケチャップライスにキムチの辛みをを混ぜた、という感じであった。

 食べ終わって店を出ると、18:00を過ぎていた。このまま帰ればいいものだが、気になった本があったので、再び光化門の近くにある本屋に行った。ここで購入したのは日本の旅行ガイドである。勿論ハングルで書かれているが、それもなかなか面白いものである。その他にも教科書をぜひ買いたいと思っていたのだが、大学生らしき人が学生に向かって教科書を買ってくれるよう頼んでいたので、買えないものと思って止めた。

 疲れた足を引きずってホテルにようやく着いたのが、20:00を過ぎていた。ホテルの部屋でバスタブに浸かりながら、明日の今頃は日本にいるのかと思って不思議な感情にとらわれた。

1997/9/27

 今日いよいよ韓国を発つ。6:50の集合であったので、若干早く、6:30頃にはチェックアウトした。この間、ボーイが再びキーを持って部屋の確認をしに行ったので不安であったが、難なくすんだ。程なくしてガイドの人が来た。

 恐れていたことが的中し、延泊したのが自分だけだったので移動もまた特殊だった。本来ならばバス、ということになるだろうが、一人だけということでタクシーとなった。韓国でタクシーに乗るのは勿論始めてなので、何となくわくわくした。しかもその運転手は、ガイドさんの知り合いであったようで、その途上はかなり話が弾んでいた。旅行日程表には「キムチ店に立ち寄る」とあったので、どうなるかと思ったが、一人という事で店には寄らずに空港に直接行った。

 当初心配していた搭乗券の発行も問題なく行われ、流れの中で一連の手続きがあっさりと済んでしまった。その為に、ガイドさんにお礼を言うタイミングを失ってしまい、失敗したと思っている。何はともあれ、韓国を出国できるという保障ができたので、出発までゆったりとしていた。当初は12番ゲートからの出発だったのだが、11番に変更となっており、しばらくすると今度は20番に変更になった。

 しかし、日本人が優遇されていることの良い例として、日本語のアナウンスがあるというのも、特徴的であると思った。ほかの便(香港など)もあったが、せいぜい英語でのアナウンスがあるだけなので、これは隣り合った国とは言え、前回の時もそうであったが、非常に感動した。翻って日本ではどうかというと、確かに韓国系のエアラインでは韓国のアナウンスがあるが、アメリカ系などではまずないので、この点も見習わなければならないと思う。

 帰りの航空機内では、ただ単に帰れれば良いということでじっとしていたが、韓国に行く時にはしなかった募金(ユニセフ)する余裕まであった。出発時に接続にロスがあったので到着も遅れたが、車輪が地面についた瞬間、ほっと安堵のため息を漏らした。

 その後、家に帰るのだが列車の接続が悪かった。改札を通ってから、もう40分ほどしないと列車が来ないと知って、がっかりした。そして、これから先の予定も大幅に遅れるということを実感した。実は、この日叔父の家で待ち合わせをしているのであった。そのまま真っ直ぐ行くのが早いが、何しろ荷物が重いので、一度家に帰らないわけには行かなかった。

 どうにかこうにか家に着き、荷物の整理と持つものを携え、急いで出た。あまりにも急いでいたので鍵を閉め忘れたと勘違いし、駅に近づいてから再び家に戻ったので輪をかけて遅れる羽目になった。それでも切符を買うまでは順調に行き、東海道線に乗り換える為に東京駅まで行った。しかし片道約2,500円という金額は、いかに遠いかを物語っていよう。東京駅の東海道線ホームに着くと、なんだか雰囲気が異様であった。それもそのはず、強風のために列車のダイヤが乱れ、その時止まっていた列車が出ると、40分ほど列車はないとの事だったからだ。大勢乗るので、とても座れなかった。辻堂でようやく座れるようになったが、あちこちを歩きまわってもうへとへとであった。どうにか到着した頃には20:00を経過していた。それにしてもかなりの距離を移動していたのかと思うと、疲れてため息しか出なかった。何はともあれ、日本に帰って来れて本当に良かった。

 

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