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「お前、潔癖症過ぎンだよッ」 そう言って、彼女は僕から離れていった。 潔癖症「過ぎる」とは一体どういうことだろうか。潔癖症を通り過ぎる、という意味か。否、これでは意味が分からない。 そもそも、どうして彼女がそういう決断に至ったのかも理解に苦しむ。最近特に苛々しているようであったから、それが飛び火したのであろうか。 ――何にしても、僕は、恋人を失った。 釈然としないな、と思いながら、あまり悲しくないことに気付いた。 アパートに帰り着いた。失恋したならヤケ酒だ、と友人が言うので、よく分からないながらも彼と一緒に近くの居酒屋で酒を飲んだ。お陰で帰り付いたのは23時過ぎだった。 301号室――僕の部屋の前に立つ。 カギを開けようとドアノブを見ると、そこには茶色い――泥のようなものが若干こびり付いていた。不審に思いながらも、僕はそれをティッシュで拭き取った。 気分が悪い。 ドアというのはその部屋の入り口であり、即ち顔である。だから僕は、頻繁にドアを含む玄関付近を掃除する。そこに、このように泥が付くというのは非常に不快なことだ。 ここは3階。何かの拍子に泥が飛んでくるには少々高すぎる。つまりこれは誰かが付けたものであるはずだ。過失か故意かまでは分からないが。 洗面所で丁寧に両手を洗う。不快な泥が、ティッシュを通り越して僕の手にこびり付いたような錯覚に陥った。 風呂に入り、更に念入りに洗った。まだ気持ち悪い。 寝る前に、もう一度洗った。少しだけ気が楽になった。 朝。 またしても、ドアに泥が付いている。しかも、今度は若干ではない。はっきりと、泥であると分かる程に付着していた。 丁寧にそれをティッシュで拭う。 酷く腹が立った。これは明らかに故意だ。わざとだ。何故、このような屈辱的な嫌がらせを受けねばならないのだろう。 そんなことをされるいわれは全くない、とは言わない。人は知らず知らずのうちに他人から恨みを買うものである。だから、僕に恨みを持つ者がいたとしてもさほど不思議ではない。 しかし、この行為はどういうことだ。 学校へ行こうとした矢先の出来事だったのだが、ドアノブを執拗に拭いているうちに授業などどうでもよくなっていた。 ただ、腹が立った。 その日の夜、僕は玄関で息を潜めていた。 誰かが、ドアノブに泥を塗ったのだ。間違いない。ならば、次は現行犯で捕まえてやる。 外界と扉一枚隔てた屋内で、僕は待った。 1時間、2時間、3時間・・・。 一体、何者だろうか。そして、理由は何なのだろうか。 4時間、5時間、6時間・・・。 ドアノブに反応はない。人の気配も感じない。 そして、まさに夜が明けようという頃。 微かな足音が、聞こえた。 息を飲む。ただジッと、ドアノブに注目する。 べちゃ、べちゃ・・・。 粘着質な音が、僅かに聞こえた。ノブも少し揺れている。 ――間違いない。 僕は勢いよく内側からノブを回し、ドアを開け放った。同時に叫ぶ。 「誰だっ」 そこには――白い女性が、立っていた。 白い服、白い帽子、白い肌。 その帽子と長い黒髪が顔を隠していたが、どうも相手は驚いているようだった。 「見張って、いたのですね」 女はゆっくり、そう言った。そしてフフ、と上品に微笑う。 「何を、している」 その笑みに少々勢いを削がれながらも、僕はなるべくきつくそう問うた。 「分かっているでしょう? 泥を、塗っているのです」 言って、その右手を僕の視線の先に翳す。 右手の手首から先は、グレイの泥に塗れていた。 この手で、塗ったのだ。 この手で。 僕の、部屋の、ドアに。 ――泥を。 僕は何故か、軽い目眩を感じた。 「な、何故、そんなことを」 頭を振り、僕は言葉を綴る。訊かねばならない。ドアに泥を塗るなどという侮辱的な行為の理由を。 「何故――そうですわね、理由を挙げるとするなら」 そこで女は少し言い澱んだ。 視線を僕に合わせる。簾のような前髪の隙間から、黒い瞳が覗く。 女はゆっくり、言葉を続けた。 「綺麗だったから、でしょうか」 「・・・綺麗だったから?」 「ええ、とても綺麗。本当は、本当はね。貴男の顔に、直接、塗りたかったのですよ」 もう一度、女は微笑う。 その声に。 頭が。 眩々、する。 「貴男の顔は、とても綺麗です。それを、私の手で汚してみたかった。お分かりでしょうか――」 「あ、貴女は一体・・・?」 視線が泳ぐ。視界が揺らぐ。 嗚呼、不安定だ。 女は、名前など――と囁いた。 「・・・名前など、どうでもいいのです。私の名前も、貴男の名前も。私は貴男の名前を知らない。でも、私は貴男を知っています」 「僕は――何も知らない」 「今から知っていけばいいではないですか」 ゆっくり、女の右手が、僕の左頬へと近付く。 白い女。 美しい、と僕は思った。 泥は不潔だ。だが、彼女は美しい。 「私は、貴男を、汚したい」 指が、手の平が、泥が。僕の頬に触れる。 ひやりとしたそれに、僕は何故か嫌悪感を持たなかった。 先程まで、あんなに泥を嫌っていたのに。憎んでいたのに。 そして僕は。 まるでそれを望んでいたかのように。 彼女の右手に頬擦りをした。 嗚呼、きっと僕は、汚れたかったのだ。汚されたかったのだ。 先日別れた彼女と交際していた理由が、少し分かった気がした。と言っても、彼女は僕を汚してはくれなかったのだけれども。 「名前を――」 名前を聞かせてください、と僕は頼んだ。 しかし、女は首を横に振るだけだった。 「どうして」 「名前など、関係ないでしょう? 私は――貴男を、手に入れた。それだけで充分です」 その言葉に、僕は妙に嬉しくなってしまった。 左手で、彼女の右手を握る。 そして、泥に塗れたその左手で――僕は、彼女が僕にそうするように、その美しい顔を汚した。 ああ、と小さく彼女が声を上げた。僅かにその顔が赤らむのが分かった。 これで僕は、彼女を手に入れたのだ。 その時、僕は初めて、「愛」というものを理解した。 | |